第22話 黄金の角を継ぐ者 後編

 そして――儀式の日、ついにやってきた。

 朝の空気は、どこかぴんと張り詰めていた。

 徹は、鷹司家の家紋があしらわれた白の和服をまとい、ゆっくりと部屋を出ていった。

 背筋を伸ばし、視線はまっすぐ前を見据えている。“器”としての最終段階に向かうその背中に、これまでとは違う気配が漂っていた。

 その後ろ姿を見送りながら――


「いやあ〜……1ヶ月、マジで疲れた……」


 麻斗が布団の上で盛大にのびをして、大きなあくびをひとつ。


「最後の1週間なんてさ……トイレ?朝晩?何それ?状態で、徹が動くたびに何か来るんかってくらい、もはや呼吸レベルで怪異襲撃されてたよな……」

「あれはもう“徹が立った”じゃなくて“徹が鳴った”ってレベル」


 優斗が淡々とツッコミを入れながらも、すでにスーツの着付けを整えはじめていた。


「正直、精神と霊気の消耗がえげつなかった。

 ……でも、あの徹が、何も言わずに出ていったってことは……覚悟、決まってるんだね」


 麻斗はあくびのまま頷いて、

 そのまま、ごろりと背中から布団に転がる。


「ほんっとあいつ、バケモンみてーに器の資質高ぇわ……でも……俺らがいなきゃ今頃五回は乗っ取られてるな」

「だからこそ、これからが正念場」


 優斗が真剣な眼差しで、静かに言った。


「――“必要なモノ”が何かも、まだ見えてない。それを渡す者、それを狙う者。どちらも、今日必ず動くはずだ」


 麻斗も布団から起き上がり、額をぽりぽりと掻きながら言った。


「よし。じゃ、気合い入れて最後の戦い、付き合うか」


 二人は視線を交わし、頷き合う。

 ――これが、鷹司徹という“器”を守る、最後の任務。

 式の始まりが告げられれば、そこからは一瞬たりとも油断が許されない戦いが始まる。

 コンコン、と控えめなノックの音。

 すぐに続いて、重厚な扉が静かに開いた。


「優斗様、麻斗様」


 入ってきたのは、徹付きの執事だった。

 普段と変わらない、礼儀正しく張り詰めた声で告げられる。


「儀式の場は、このホテルの地下にございます。当主様より、お二方には引き続き儀式の場にての護衛を――との指示を承っております。

本日が最も“危険”であるとの判断ゆえです」


 その言葉に、優斗と麻斗は視線を交わした。


「…やっぱ、今日が山ってことだな」


 麻斗が軽く息を吐きながら立ち上がり、

 乱れた髪を手櫛で整える。


「準備はできてる。案内を」


 優斗はスーツの襟を直しながら、落ち着いた声で返す。

 執事は一礼し、扉の外へと先導する。

 重い足取りではない。けれど、自然と二人の肩には力が入る。それほどまでに、“地下”という場所には、ただならぬ気配があった。


(…さて。ここからが本番だな)

(そうだね)


 お互いのテレパシーが交わる。

 惹魔の兄と、退魔の弟。その二人が“器”を守るために選ばれた意味が――いよいよ、試される。

 暗く、深く、静かに。エレベーターは、地下へと降りていく。

 そして、儀式の時間が訪れた。

 執事に案内され、重々しく開かれた扉の向こう――そこにあったのは、薄暗くも荘厳な空気に包まれた祭壇の間だった。

 石造りの床に、複雑で巨大な術式が刻まれている。部屋の中心では、徹と忠が向かい合い、正座していた。

 徹の和服は、腹部を中心にゆったりと前をはだけられている。露わになった白い肌には、まるで扉のような紋様が静かに浮かび上がっていた。線は美しく、けれど、見るものに“ただの文様ではない”と直感させる異様な意味を宿していた。

 徹はそのまま、じっと正面を見据えている。

表情に迷いはない。むしろ、あまりにも静かで――どこか神聖ですらあった。

 その向かい、忠の前には一振りの短刀が置かれていた。鷹司家の家紋が施された、儀式用のそれは、光を反射して青白く光っている。


(……異様だな)


 麻斗は、周囲の空気に思わず息を呑みながらも、声を出すことをためらい、

 すぐに隣の優斗へとテレパシーを送った。


(この空間全体が……まるで“怪異”を呼び寄せてるみてぇだ。徹が“入れ物”って、これ…マジでやべえもん入れる気だろ)


 優斗はわずかに目を細めながら、静かに周囲を視る。


(……揺らいでる。霊気の波が、徹の紋様を中心に集まってる)

(怪異、来るぞ)


 麻斗がぐっと拳を握る。

 その時、忠がゆっくりと口を開いた。


「今より……継承の儀を執り行う。我が身に宿した“必要なモノ”を、次代――徹に託す」


 その言葉とともに、空気がひとつ震えた。

 短刀の刃が、かすかに鈍く鳴る。徹の身体に刻まれた紋様が、淡く、光を帯び始める。

 そして、見えない“何か”が、

 この空間に――確実に、近づいていた。

 忠が、ゆっくりと短刀を手に取る。それは、ただの形式ではなかった。

 確かな“痛み”を伴う、真の儀式。

 彼は迷いなく、自らの腹部へ――その鋭い刃先を、深々と突き立てた。


「……ッ――!」


 呻くような息が漏れる。

 刹那、忠の身体から黄金の霊気がぶわりと吹き上がった。

 その霊気は荒々しくも、どこか優しく、

 まるで魂そのものが解き放たれていくようだった。そして、霊気の中心――忠の身体から、何かが“顕現”し始める。

 最初に現れたのは、金色の鱗に覆われた鹿のような脚。音もなく床に立ち、周囲の術式がそれに反応して淡く脈動する。

 次に、背中に浮かぶのは、天から降る雲を思わせる白い紋様。まるで風そのものをまとっているかのように、静かに、優雅に揺れている。

 そして――黄金の瞳。

 凛と澄んだ双眸が開かれ、視線がこの世の全てを見通すように輝いた。

 額からは、一本の角が伸びている。

 霊気が角の先から波紋のように広がり、空間すら揺らすほどに神聖だ。

 それはまさしく――


「……神、だ……」


 麻斗が、思わず口の中で呟いた。

 あれはただの怪異ではない。

 圧倒的な“格”の違い。

 それは神話に語られる、麒麟の姿。

 忠の肉体から立ち上るように現れたその神聖なる存在は、まるで“次なる器”を見定めるように、静かに徹へと顔を向けた。

 一瞬、時間が止まったような感覚。

 この一歩が、すべてを変える――“必要なモノ”が、ついに“選び、渡される”その瞬間。

 しかし――その時。

 祭壇の奥、式の境界のすぐ外――空間がにわかに“ざわり”と揺らいだ。

 優斗と麻斗、同時に視線を走らせる。


(来た――!)


 空気の質が、変わった。

 麻斗と優斗は、周囲に渦巻く気配を感じながら、即座に行動に移っていた。


「――来るぞ、周囲から!」


 優斗が低く呟くと同時に、麻斗が拳に退魔の波長を纏わせる。

 術式が施された空間をものともせず、

 祭壇の結界の隙間から、ざわざわと滲み出すように現れる“異物たち”。黒い残穢、軋むような霊、輪郭を持たない小型の怪異。

 麻斗は拳を一閃させ、

 現れた怪異を即座に吹き飛ばす。


「ちっ、やっぱ来やがったか……!」


 だが、その隙に――祭壇の中央。

 徹が、何かに突き動かされるように膝をついていた。その視線の先――神がいた。

 黄金の麒麟。神話の存在、そのもの。


(あいつ……見えてるのか?)


 麻斗は、徹の瞳が確かに神を捉えていることに気づいた。

 見えるはずのない存在。

 しかし、今の徹の霊気は、“器”としての最終段階に近づいていた。


(こりゃ……また一歩、戻れねえとこまで来てんな)


 そうテレパシーで優斗に送る頃には、事態はさらに動いていた。


「……ッ!」


 忠が、呻き声をあげた。

 その瞬間――黄金の霊気が激しく揺らぎ、麒麟が徹へと向かう。

 まるで空気ごとねじれるように――麒麟はその神体を、徹の腹部の紋章へとねじ込むようにして侵入していく。


「う、あ、あああああああああああッ!!」


 徹の絶叫が、石の壁に響き渡る。

 肉体が割れるかのような激痛。身体中から光が漏れ出し、紋様はひときわ強く脈打っていた。

 忠はその様子を見届けながら――口から血をこぼし、ぐらりと倒れ込む。

 床に広がるのは、真っ赤な血。

当主の命が、確実に失われていく。


(……やっぱそうか……!“必要なモノ”を渡すために――命そのものを代償にしてやがる……!)


 麻斗は、怒りと焦りを抱えながらも、

 次々と襲い来る怪異を退け続けていた。

 守らなければならない。

 たとえどんな代償を背負うことになっても――この“継承”だけは、完成させなければならない。

 だが、まだ“黒月”は現れていない。


(来る……絶対来る……!)


 継承の瞬間、神が最も無防備になる。

 その隙を狙っている者がいるとしたら――今、この瞬間しかない。

 麻斗の視線が、奥へと向く。

 空気が、また“ねじれた”影が、動いた。

――その声は、突然、優斗の“内側”に響いた。


『……我、麒麟と云ふ者』


 はじめは空耳かと思った。

 だが、次の瞬間、確かに優斗の思考に“侵入”するような声が届いた。


(……今の……誰だ?)


 振り向く。だが、麻斗も、徹も、何の反応もしていない。


(この声は……俺にだけ聞こえてる?)


 優斗の視線が、自然と祭壇の中央――徹の腹部に半身を沈めかけている、麒麟へと向く。

 黄金に輝くその神は、まるで一時停止したかのように動きを止めていた。

 そして――優斗を見ていた。


(……こいつ……俺を見てる?)


『貴様の器もまた、美味そうである。徹に乗るのは定めに過ぎぬが、我らは本来、縛られるものにあらず。貴様は“選択”することができる』

 選択――それは、

 “この神を受け入れるか”

 “拒絶するか”という問いだった。

 優斗の心が揺れる。

 いや、決して迷いではない。

 けれど、圧倒的な存在に「選ばれてしまった」ことへの、確かな衝撃。


(……だから俺に語りかけてきたのか。惹魔の波長……)

(俺の霊気に、惹かれた……?)


 黄金の神は、徹の中に半身を埋めながら、なお*揺れて”いた。

 徹を選ぶべきか、優斗を選ぶべきか。

 その一瞬の“判断”を、まさしく今、行っている。だがその間にも――


「優斗ッ!」


 麻斗の叫びが飛ぶ。

 式場の奥。空間がぐにゃりと歪み、

 黒い影が、そこに“立った”。

 その気配に、場の空気が凍りつく。


『……ふむ、そうか』


 麒麟がそう言い残すと――

 再び徹の腹部へと、身体を沈め始めた。

 完全なる神の継承が、いま成されようとしていた。

 だが、黒月は――

 それを黙って見逃すわけがなかった。


『……会いに来い、我に』


 それは、麒麟の最後の言葉だった。

 けれど――その“最後”の瞬間に、空間が破られた。

 ズズ……ン――

 空気が割れるような低い振動。祭壇の奥、結界の向こう。そこに“現れた”のは、ひとりの男だった。

 黒いローブ。顔を隠す仮面。

 胸元に掲げられた紋章は――逆さの三日月。


「……神を」


 仮面の男が、口角を吊り上げた。


「――盗りに来た」


 その言葉は、儀式の場のすべてを震わせた。

 まるで、神に対する冒涜そのもの。

 けれど、彼の口ぶりはただの狂人のそれではない。“可能である”と、確信している者の声音だった。


「黒月……!」


 優斗が目を細める。

 麻斗はすでに退魔の波長を拳に纏わせ、前に出た。


「ふざけんな、神を盗るとか……テメェ何様のつもりだ!!」


 けれど、その怒声に仮面の男は微動だにしない。ただ、冷たい声で言い放つ。


「“器”が完全になる前に奪えばいい。神が宿る前、あるいは…宿ってすぐ。脆弱な神体のまま、こちらに引き抜くのが最も効率がいいのさ」

「てめぇ……!」


 麻斗が前へ飛び出そうとする。

 その瞬間――


「させない」


 優斗が一言、呟いた。結界が強化される。空気がビリ、と音を立ててしなり、式場が再び守られる。

 だが、仮面の男はおかしそうに肩を震わせた。


「君たちの“仕事”は、まだ終わってない。

 その“神”を守れるかどうか――見せてもらおうか、惹魔と退魔の双子の陰陽師」


 そして、仮面の奥の目が、徹をまっすぐに見据えた。


(――来る)


 神――麒麟は、いま、依代から依代へと“渡る”途中だった。

 忠から、徹へ。魂と命の受け渡しが行われる、ほんの一瞬の“隙”。

 その瞬間――


「――今だ」


 仮面の男が、静かに手を上げる。

 すると、どこからともなく無数の怪異が現れた。

 その数、十を越える。

 すべてが、黒月によって従えられた強力な存在たち。そして、狙いはただ一つ――


「ッ……がっ……!」


 徹の、腹部に宿る“紋”――

 麒麟の神体がまだ沈みきっていない、その器。

 痛みに顔を歪めながら、徹は崩れそうな意識を必死に保とうとしていた。だが、彼に逃げる力も、抵抗する霊感もない。


「このまま“器”が怪異に穢されれば――」


 仮面の男が、仄暗い笑みを浮かべる。


「……あぶれた神は、どうなるかな?」


 それは、あまりにも残酷な一言だった。

 神を封じる器が汚されれば、宿るはずだった神は“抜け殻”となり、不完全なまま、彷徨うことになる。

 あるいは、最悪の場合――“従わせた神”として、黒月のものに。


「――させるかよ……!」


 麻斗が、叫ぶように声を上げる。

 怪異の群れが徹へと襲いかかる、その瞬間。

 退魔の波長が、疾風のごとく走った。優斗の瞳も鋭く細められる。


「穢されれば終わり……なら、絶対に触れさせない」


 双子の“守護”が、いま、全開になる。

 仮面の男は、祭壇の空気を切り裂くように両手を掲げた。その唇から、聞き取れないほど古く、禍々しい呪文が流れ出す。


「……降りよ、屍より這い出る者たちよ……我が声に応え、喰らえ……!」


 その瞬間――術式が爆ぜた。

 地面から霊気の渦が巻き上がり、次々と“形”を得る。黒く、ねじれた腕。裂けた口。逆さに伸びる足。


「式神…だけじゃねえ、召喚怪異まで混ぜてきやがったか……!」


 麻斗が低くうなり、足を踏み鳴らした。

 全身に“退魔の波長”がぶわりと走る。拳に、肘に、膝に、かかとに。指先からつま先まで、まるで霊気の剣のように鋭く、しなやかに纏っていく。


「触れられたら終わりなんだろ? だったら――」


 麻斗が身を屈め、一瞬で距離を詰める。


「誰一人、触れさせねぇッ!!」


 蹴り上げる膝が、迫り来る怪異の顎を打ち抜き、そのまま背を取って、肩に乗せるように投げる!


「ぐらついてんぞ、優斗!」

「分かってる」


 背後から迫る式神を、優斗が結界で受け止める。掌に展開された術式陣が、一瞬で空間を張り替えた。


「“拘縛陣・転写式”」


 バシュッ――!

 結界の中に閉じ込めた怪異をそのまま別空間に送り出し、術式で封じ込める。

 だが、次の群れがもう迫っていた。


「ッ、麻斗!」

「わかってる!」


 後方宙返りで式神の爪を避け、そのまま地面に手をついて、逆立ち蹴りを喰らわせる。

 退魔の波長を脚に集中し、怪異の胴体を真横からぶち抜くと、ねじれた霊体が霧のように砕けた。


「あと何体いるんだよコレ……っ!」

「麻斗、右!」

「おおッと!」


 肩に乗ってきた獣型の怪異をそのまま掴み、

一本背負いで地面に叩きつけ、退魔の波長をこぶしに集中して一撃――


「ッッしゃあ!! 一匹ずつでいい、全部祓ってやるよ!」


 その姿はまさに、

 “神を守る者”そのもの。

 だが――仮面の男はまだ呪文を唱え続けている。その目は、徹の中に沈みきろうとしている“神”を、静かに狙っていた。

 仮面の男の指先が、じゅっと焦げた。

 黒く、炭のように崩れていくその手は、まさに“自らの命を燃やして”怪異を呼び出した代償だった。それでも、彼は口角を吊り上げ、狂ったように笑い続けていた。


「いいぞ……いいぞ……ッ! このまま器が穢れれば、神は宙に浮く……!我らが望んだ、ただ一つの“隙”が生まれる……ッ!」


 呻くように、命の限界が近づく中で、それでも術を止めない。

 指が焦げ落ち、腕が裂けても、

 彼はただ、祭壇の中心――徹を、狙い続けていた。

 一方、徹の身体は震えていた。

 麒麟の“神体”は、腹部の紋から半ば沈みきっており――あと一歩で、完全に宿る。

 だがその身体は、神の霊気と、黒月の怪異の霊圧の挟撃により、限界に達しようとしていた。


「……もう、少し、で……!」


 徹は唇をかみしめながら、なんとか崩れそうな意識を保とうとしていた。

 だが、それを優斗の瞳が静かに捉えていた。


(……間に合わない)


 退魔の波長でも、術式でも、“神の継承そのもの”を早めることはできない。

 そして――仮面の男の放った最後の式神が、徹に飛びかかろうとしていた。


(もし……これが触れたら)


 その瞬間、優斗の奥底で何かが、ふっと静かに熱を持った。


(……やるしかない)


 優斗は、一度だけ目を閉じた。


「――麻斗、任せる」


 そう言って一歩前に出る。


「“惹魔の波長”――解放する」


 場の空気が、一気に“変わった”。

 まるで、呼吸するすべての怪異が一瞬で“優斗”に気づいたかのように。

 祭壇の天井がきしみ、式神たちが一斉にその場で震えを見せる。そして、仮面の男の瞳も、静かに驚愕で揺れた。


「な……その波長は……!」


 優斗の周囲から、

 目に見えない“霊の波”が、確かに――漂い始めていた。優斗の身体から、惹魔の波長があふれ出す。空気が濃密になり、祭壇の空間がぐぐっ、と歪む。


「っ……やっぱ、強ぇ……!」


 麻斗が後ろで息をのむ。

 怪異が、式神が、式場中の“人ならざるもの”が、すべて優斗に吸い寄せられていく。


「来いよ……」


 優斗は静かに言う。

 惹魔の波長が、“怪異の本能”を震わせる。


「やめろ……徹に……っ!」


 優斗の脚が、ふらつく。

 意識が引き裂かれそうになる。

 怪異の霊手が、ゆっくりと優斗の肩へ――その時だった。


「優斗に、触んなよ――このクソ共が!!!」


 轟くような声とともに、

 麻斗の全身から“退魔の波長”が爆ぜた。

 身体ごとぶつかり、蹴り、拳、肘――すべてを駆使して、優斗に迫っていた怪異たちを次々に地に叩きつける。


「お前らが触っていいのは、俺の拳だけだろうがァ!!」


 最後の一体の顎を跳ね上げ、霊の塵に変えた瞬間――


「……っ!」


 徹の口から、短く、鋭い息がもれた。麒麟の体が、徹の中に――完全に沈みきる。

 その瞬間。

 祭壇の空気が、“神気”に切り替わった。

 まるで空が晴れ渡るように、重苦しかった式場が一気に静まり返る。

 その場にあった怪異たちは、その“気配”を感じた瞬間、まるで弾かれるように消えていった。そして――


「……終わった、のか」


 麻斗が息を吐いたと同時に、

 バサリ――黒いフードの衣が、地面に落ちる。そこに、男の身体は、もうなかった。

 呪文の反動。過剰な召喚。神に触れようとした代償。

 黒月の術者は、その命ごと燃え尽きていた。

 優斗が、ようやく波長を引っ込めながら言う。


「……間に合った」


 目の前には、膝をつきながらもまっすぐに立ち上がろうとする、神を宿した少年――鷹司徹の姿があった。

 圧倒的な“神気”が、式場を包み込んでいた。

それはただ強いだけではなく、すべての霊を鎮め、空間を整えるような――神そのものの気配だった。

 もうそこには、怪異のざわめきも、恐れもない。

 優斗が静かに眼鏡を押し上げる。

 麻斗は肩で息をしながら、へたりとその場に座り込んでいた。


「……やっべ、腹減った……」


 その呟きに、空気が少しだけ和らぐ。

 すると、執事が、数人の使いとともに現れた。彼らは、すぐさま忠の亡骸の処理に取りかかる。

 その手つきは慣れたもので――それが、“この儀式には死が伴う”という現実を何より雄弁に語っていた。

 やがて、執事は徹の前に進み出て、恭しく頭を下げた。


「……おめでとうございます。本日より、貴方が“鷹司家当主”でございます」


 その言葉に、場の誰もが、息を呑んだ。

 徹は、静かに頷く。

 その瞳には、ほんのわずかに――複雑な、濁りのような感情が揺れていた。


「……ああ。部屋に戻るよ」


 徹はゆっくりと衣服を整え、振り返ると、


「優斗くん、麻斗くん。無事に終わった。ありがとう」


 と、まっすぐな声で言った。


「報酬の話もあるから……部屋に来てよ」


 そう言って、堂々とした背中を見せて歩き出す。その背には、神を宿す者の気配があった。

 もはや、もう――このホテルに怪異の気配は、どこにもなかった。


 ◆ ◆ ◆


 徹の部屋に戻った優斗と麻斗は、改めて彼の霊気を感じ取っていた。

 それはあの祭壇で初めて目にした“器”とは違い――完全に、神を内に抱いた霊気だった。

 重く、しかし静かで、圧倒的な存在感。


「……父上は、引き継ぎの儀で自分が死ぬことを知っていたんだ」


 ソファに腰掛けながら、徹はぽつりと呟いた。


「だから、何も言わなかった。優しさだったのか、覚悟だったのか……わからないけど」


 神気をまとったままのその背中には、

 もう“守られる器”の儚さはなかった。


「そして――いつか僕も、同じことをするんだろうね」


 ふっと笑うその横顔には、覚悟と少しの皮肉。けれど、もう迷いはなかった。


「……報酬は、言い値でいいよ」


 徹が立ち上がる。

 そして、優斗にだけ向けて――まっすぐに目を向けた。


「ただ……優斗。君は“麒麟”と話してみるかい?」

「……え?」


 優斗が静かに首を傾げた瞬間、徹の中の神気が――微かに震えた。


「……僕の中で、麒麟がそう言ってる。“あの惹魔の少年と、言葉を交わしたい”って」


 その言葉に、優斗の瞳がわずかに揺れる。

 麻斗は不思議そうに二人を見ていたが、

場の空気が、再び少しだけ“神域”に戻ったのを感じた。

 優斗がゆっくり頷くと、徹のまぶたがゆっくりと閉じられ、次に開かれたその双眸は、金色に輝いていた。

 まるで深い泉の底から光を灯したような――決して人間ではない色。

 徹の唇が動く。けれど、それは徹の声ではなかった。


『惹魔の人間――よくぞ来た』


 それは――麒麟の声だった。


「……やはり、話があるんだな」


 優斗が静かに答えると、麒麟は微かに頷いた。


『我、この国を護る契約にて、長きに渡り人に宿りし者。鷹司の家がその器を担い、その代償として――繁栄を許されてきた』


 その言葉に、麻斗の目がわずかに見開かれた。


(つまり……鷹司家の富と栄華、全部“神の契約の成果”ってわけか)


 麒麟は続けた。


『惹魔の人間よ。貴様は、“人ならざるもの”に好かれ、惹かれ、通じる者』

『我が目から見て――貴様こそが“橋渡し”の役目に最も相応しい』


 優斗の喉がわずかに動いた。

 その言葉の重みを、理解したからだ。


『もし、貴様が我と契約し、我を“貴様の器”とするならば――この者の使命はここで終わる。

徹は当主として在りながら、“神の器”としての運命から解放される』

『貴様が引き受ければ、鷹司の血は穢れず、

 忠のような命の終わりも迎えぬ』


 “選べ”と、神が告げている。

 その言葉に、部屋の空気が張り詰める。

 徹の身体に宿るはずの“神の契約”が、今、優斗に差し出されているのだ。

 そして優斗は、

 その神気を、

 その問いを、

 静かに、じっと――見つめ返していた。

 先代当主――鷹司忠。その死の光景を、優斗はこの目で見た。

 そして今、目の前にいる徹は、次の代のために、同じ死を迎える運命を背負っている。

 その事実を知ったからこそ――

 優斗の胸に、確かに何かが残っていた。


「僕は――」


 言葉を選びかけたその瞬間、脳内に、鋭い声が響く。


(お前、本当にやるつもりかよ)


 麻斗からのテレパシーだった。

 その声には、明確な怒りが滲んでいた。

 その怒りを受けてか、麒麟が――優斗より先に口を開く。


『……面白い魂の、片割れ』


 その声は、どこか愉しげですらあった。


『矛を収めよ、神殺しの矛を持つ少年』


 麻斗の手が、いつの間にか拳を握りしめていた。そこに、退魔の波長がまとっていたことに、優斗自身も気づいていなかった。


『その波長は、いつか神の喉元にも届くであろう。神殺しは――この世のあらゆる罪の中でも、最も重き罪』


 重く、神の理を帯びた言葉に、

 麻斗はふっと目を細め、拳を握りしめたまま動かない。

 優斗はその様子を見て、小さく息を吐く。

 そして、静かに言った。


「麒麟。やっぱり、今その契約はできない。徹の、この一ヶ月の想い。……いや、それよりもずっと前から決めていた、すべての覚悟を、僕が勝手に潰すわけにはいかない」


 その瞬間――


『ふ……ふふ、フフフフフフ……!』


 麒麟の、魂の底から響くような笑い声が空間に響く。


『それもまた、選択か。惹魔の人間よ。』

『正反対の気質を持つ、割れた魂……――繋ぐ、もう一つの魂は、ないようだな』


 その言葉を最後に、

 麒麟の気配は――すっと、消えた。

 金色に染まっていた徹の瞳が閉じられ、

 再び開いた時には――元の、深い黒に戻っていた。


「……麒麟、もう帰ったみたいだね」


 少し疲れたように、けれど穏やかに、徹が言う。優斗と麻斗はそれぞれ、違う思いを胸に、

ただ静かに、その場に立ち尽くしていた――。


(……もう一つの魂って、なんだよ)


優斗の脳内に、麻斗の声がふっと差し込む。

怒りとも困惑ともつかないその声は、優斗の胸の奥に静かに残った。


けれど――その思考を遮るように、

徹が柔らかく口を開く。


「……さて、報酬の話だけど」


優斗と麻斗に視線を向けるその顔には、

さっきまで神を宿していたとは思えない、年相応の柔らかさがあった。


「僕のせいで……夏休みのほとんどを潰してしまったからね。よければウチが持ってる宿で――海でも楽しんでくる?」

「え!!行く行く!!」


麻斗が勢いよく立ち上がった。


「せっかくの高級ホテルだったのに!怪異に邪魔されてトランプも風呂もゆっくりできなかったし!あんだけ毎晩祓ってたらバカンス感ゼロだったんだよな~!」


 弾けるような笑顔で、くるくると身振り手振りで語る麻斗に、徹は苦笑しながら、ふっと目を細める。


「僕は……いろいろと、“当主”としてやらなくちゃいけないことがあるから、行けないけどね。2人だけになるけど、好きに楽しんできて」


 その言葉に、優斗がふっと笑った。


「……じゃあ、せめて“土産話”くらいは持ち帰るよ」

「ああ、待ってるよ」


 徹は、優斗と麻斗をまっすぐに見つめ、

 やわらかく、けれどしっかりと頷いた。

 こうして、神を宿した家の護衛任務は終わりを迎えたのだった。

 玄関では、徹をはじめとする執事たちが丁寧に頭を下げていた。

 優斗と麻斗は、その姿に軽く会釈を返すと、広いホテルの敷地を並んで歩き始めた。

 夕方の空は、少し赤みを帯びていて、蝉の声が遠くから聞こえてくる。


「なー、麒麟の言ってた“神殺し”とか“もう一つの魂”とか……あれ、なんだったんだろうな」


 麻斗がぽつりと呟いた。

 荷物の入ったバッグを肩にかけながら、

ぼんやりと空を見上げていた優斗は、ふっと目を細めた。


「……さあ。僕にも、まだ分からないけど」

「だよな。まー、神と話した後にすぐ海ってのもだいぶおかしいけどさ」


 麻斗は口を開けて笑った。


「でもさ。俺、お前があの時ちゃんと断ってよかったって思ってんだ」

「……うん」

「もし優斗が“契約”してたら、たぶん俺、ぶん殴ってたわ」

「……それ、麒麟にもバレてたよ」

「まじかよ」


 笑い声が、夕暮れの敷地に小さく響く。

その笑い声に紛れるように、優斗がぽつりと呟いた。


「……でも、きっとどこかでまた会う気がするよ、麒麟とは」

「え?」

「“また来い”って言われた気がしたから」


 麻斗は少し目を見開き、それから肩をすくめた。


「はー……海の後で頼むな、それ」


 二人の背中に、西日のオレンジが柔らかく差していた。

 次に向かうのは、少しだけ穏やかで――でもきっと、またにぎやかな夏になる。


 ◆ ◆ ◆


 夜の湖畔は、恐ろしいほど静かだった。

風も、虫の声さえも遠ざかり、ただ月だけが水面を青白く照らしている。

 その湖を見下ろすように立つ一軒の古い社の奥——黒衣の者たちが、言葉を交わしていた。

 一人の男の持つ端末には、黒いドレスを着た、逆さ三日月を胸元に光らせる女の姿。


「……麒麟の捕獲には失敗しました。しかし、確信しました。あの双子の兄……優斗の“波長”は、我々の想定を遥かに超えています」

「そう」


 画面の女は一言それだけ言うと、黒衣の男が立ち上がる。背後に浮かび上がったのは、霊気で描かれた古図。

 中央には、淡く揺れる龍の輪郭。


「当初は、ただの“妖怪寄せ”に過ぎないと考えていた。だが——麒麟が、彼に反応した。

神すら引き寄せるほどの波長……ならば、“封印”に触れることも不可能ではあるまい」


 空中に現れた湖畔と社の映像。

 男は、口元をゆるく歪めた。


「波長で“繋ぎ”、術式で“縛る”。準備を進めろ。……あとは、器を手に入れるだけだ」

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