第21話 黄金の角を継ぐ者 中編
夜。
高級ホテルの廊下には、カーペットの上を歩く2人分の足音だけが静かに響いていた。
徹の部屋の前――麻斗はソファに腰を下ろし、窓の外をじっと見ていた。退魔の波長を薄く纏い、外からの異常を感知するために神経を張り詰めている。
「……今んとこ、目立った気配はねーな」
ポツリと呟き、伸びをするように肩を回す。
その隣では、優斗が式札を使って部屋の四隅に小さな結界を張り直していた。
術式の描かれた札が、淡く光って床に馴染むと、ふっと空気が静まる。
「これで最低限の結界は維持できる。ただし……相手が理性を持った上位存在なら、正面突破の可能性もある」
「んじゃ、やっぱり“迎撃態勢”で構えとけってことか」
「徹の霊気は、こちらの予想以上に目立ってる。怪異からしたら、“今なら入り放題”って状態に見えてるはずだからね」
「夜のホテルを“徹の取り合いバトル会場”にされても困るけどな」
麻斗は苦笑しながらも、拳を軽く握って膝に乗せた。
ふと、寝室の方を見ると――ベッドの上で毛布をかぶって静かに寝息を立てている徹の姿があった。
その無防備な横顔に、麻斗は思わず眉を寄せる。
「……寝顔はわりと可愛い系なのにな」
「それ、聞かれたらドン引きされると思うよ」
「いや、ほら。“妖怪目線”なら、そういうのもポイントになるかもしれねーし?」
「完全に発想が妖怪寄りなんだよ」
そんな小さな会話の合間にも――
張り詰めた夜は、静かに、しかし確実に進んでいく。そして、その時だった。
――カツン。
何かが、廊下の先で音を立てた。
麻斗と優斗の視線が、同時に音の方を向く。
「……来たな」
静寂の中、廊下の照明がほのかに揺れる。
麻斗は窓辺で退魔の波長を練り上げながら、ふっと息を吐いた。
「……なんつーかな?」
片目を細めて、寝室で眠る徹の方をちらりと見る。
「優斗が“酒”なら……あいつは“高級住宅”って感じだな」
その例えに、結界の補強をしていた優斗が手を止める。
「……また意味不明な比喩を」
「いや、聞いて? 酒は匂いに惹かれて寄ってくるだろ?でも住宅は“住み着ける場所”そのものなんだよ。あいつ、見えないのに内装ふっかふかなんだよ……怪異的にはめちゃ快適空間ってやつ」
「怪異視点で話すな」
「でも実際そうだろ?優斗は“寄せる”。けど徹は“泊まられる”。一晩で家具まで勝手に増えそう」
「それ、もう怪異じゃなくて引っ越し業者だよ」
麻斗がふっと笑って拳を握り直したその時――――ギッ……
廊下の先、非常口のドアがほんの少しだけ開く音が、確かに聞こえた。
優斗の指先がすっと結界の方向へ向き直る。
「……来るよ。今回は、試してきてる」
「まったく、夜ぐらい静かに寝かせてほしいよな……」
麻斗の目つきが戦闘のそれに変わる。
高級住宅を守る、警備員ふたりの夜は、まだ終わらない――。
廊下の奥、非常口のドアがわずかに揺れる。
「……空気が変わった」
優斗が低く呟いた瞬間――バンッ!
ドアの隙間から“何か”が飛び込んできた。
歪な輪郭、ぐにゃりとした質感。
人型のようで人でなく、まるで複数の手と顔を縫い合わせたような怪異が、廊下の天井を這うようにして徹の部屋を目指して進んでくる。
「こいつ……入り方がキモい!」
麻斗がすぐに退魔の波長を拳に集中させ、一直線に飛び出す。
「行かせるかよッ!」
拳が怪異の前脚をはじくと、ギャギッと金属のような音が鳴った。
怪異がよじれながら回避し、反撃に巻きつこうと手のようなものを伸ばしてくるが――
「動き、鈍くなってる」
背後から、優斗の冷静な声。
すでに結界が怪異の足元を縛りつつある。
「いける、麻斗。左足の接点が甘い」
「言われなくてもッ!」
麻斗は一歩踏み込むと、怪異の身体の継ぎ目に拳を叩き込んだ。
退魔の波長が炸裂し、内部から怪異の体が“軋むように”ひび割れる。
「もう一発!」
怪異が悲鳴のような音をあげ、空中にのたうつ。優斗が指先をすっと前に出すと、空間に式札が展開され――
「囲った。逃がさない」
「ナイス、兄貴!」
麻斗が一気に距離を詰め、勢いをつけての回し蹴り。
退魔の波長をまとったその一撃が、怪異の中心部に直撃した。
ゴォッ!
闇が爆ぜ、怪異が“何かを吐き出すように”消滅していく。
残ったのは、まるでそこに何もなかったかのような、静寂だけだった。
「……ふぅ」
麻斗が拳を握り直しながら息を吐く。
「派手に出たわりには、そこまででもなかったな」
「いや、試してきたんだよ。反応と、対処速度を」
優斗が結界の余波を回収しながら言う。
「……ふーん。じゃあ次は、もっとヤバいのが来るってことか」
ふと、寝室の扉を見やる。
中では、無防備なまま眠る徹の寝息が、今も静かに響いていた。
◆ ◆ ◆
あれから――
怪異を祓いながらの、奇妙なトリプルルーム生活が始まって、もう1週間。
高級ホテルでの朝は、やけに静かで、やけに豪華だった。
「……はぁ~、マジで……」
麻斗はカチリと銀のナイフとフォークを置いて、豪華な卵料理を口に運びながら、盛大にあくびをかいた。
「惹魔の優斗と、器の徹……お前ら並べて同室にしとくの、ほんと罰ゲームかなんか?」
隣で紅茶を口にしていた優斗が、静かに顔だけ向ける。
「……朝からそれ?」
「いやだってさー、昨日なんてさ、トランプでババ抜きしてたら――」
麻斗はパンをちぎって口に放り込む。
「“おれがババだ”って言いながら怪異出てきたからな!?」
「……それはお前が引いたカードに問題がある」
「そんで優斗が“あ、こいつ悪意ない系だね”とか言って普通に会話してるし!」
「悪意がないのは分かってたし、会話できるなら成仏促したほうが早いだろ」
麻斗は頭を抱えた。
「お前、最近ほんと“怪異慣れ”しすぎて、友達みたいな空気出すなって……」
その向かいで、徹はカップを置きながら小さく笑った。
「僕が“器としての完成度”をあげるために毎日お清め受けてるのも関係あるかもしれない」
「お清めって……どんなことやってんだよ?」
「主に、神前での静座と呼吸法、それと特定の香の焚き込み……あとは“自我を空に近づける”瞑想だね。感情をできるだけ平坦にして、怪異が入りやすくするってやつ。逆にいうと、いまの僕って――」
徹が自分の胸元に手を当てた。
「ものすごく“入り頃”なんだろうね」
「やめろやめろ、さらっと怖いこと言うな」
麻斗は慌ててフォークを置いた。
「俺、今口の中めっちゃバターなのに不穏な言葉で台無しなんだが!」
「でも」
優斗がふとテーブルの端を見やった。
「今のところ、全部祓えてるし、結界も破られてない。僕たちがここにいる意味は、確かにある」
「んだな。俺らがいなかったら、とっくに“高級住宅に勝手に居座られてた”とこだったな」
「例えが治ってないぞ」
麻斗が笑いながらフルーツをつまみ、徹がそれを横目で見て首をかしげる。
「……ねえ、麻斗くん。最近、何で朝食3人前分食べてるの?」
「徹を護衛するにはパワーが要るんだよ!霊にも怪異にも、あと夜の巡回にも!」
「あとゲーム中に唐突に現れる怪異にも?」
「それな!!」
笑い声の中に、どこか妙な張り詰めが混ざっていた。
「てか高級ホテルでバカンスだと思ってたのにさ……」
麻斗は椅子にもたれかかりながら、深いため息をついた。
「これ、ほぼ仕事じゃん……」
言いながら、目の前のクロワッサンを一口でぱくりと平らげる。
「ま、でも――部屋も飯も風呂もいいのが救いだわ」
「そこはちゃんと評価するんだね」
優斗が冷静に紅茶を飲みながら返すと、麻斗は真面目な顔で頷く。
「そりゃするよ。昨日の風呂とか、あれ一生浸かってたかったわ。ジャグジー付きとか意味わかんねーし!」
「でもジャグジーの中から“お湯に同化してるやつ”出てきてたけどね」
「言うなよ!あれ以来、泡の下の影が怖いんだからな!」
優斗の言葉に麻斗が若干本気の顔でツッコむと、向かいの徹がくすっと笑った。
「バカンスにはならなくても……君たちがいてくれて、正直、僕は助かってるよ。僕だけだったら、気づかないうちに“完成”してたと思うから」
「完成って……お前、それ“召される”寸前だぞ」
麻斗が口にしていたベーコンを置いて呟く。
「……ほんと、徹はなーんも気づかない顔してるのに、実際一番ヤバい状況にいるからな……」
「僕、霊感ないからね」
「それが一番こえーんだよ!!」
苦笑いとあきれと、わずかな緊張が混ざった朝食の時間。
――穏やかな朝にも、薄く、確実に“怪異の影”が揺れていた。
◆ ◆ ◆
徹の部屋の隣、儀式専用に用意された一室。
白を基調にした厳かな空間に、香の煙がふわりと漂っている。
徹は着替えを済ませ、和装に身を包んで、静かに床に座っていた。目を閉じ、深く呼吸を整える。
「……“器としての中心”に、自分を合わせる……」
その言葉に従って、呼吸の波が整っていく。
霊気が、わずかに――だが確かに“揺らぎ始めて”いた。
「……来るぞ」
部屋の隅、立って見守る麻斗の声が低くなる。
「やっぱり反応したか。この霊気は、まるで“鍵を開けてる”ようなもんだからね」
優斗が結界の外を見やりながら、静かに式札を構える。
そのとき――――カツン、カツン。
儀式室の扉の向こう、廊下から高いヒールのような音が近づいてくる。
扉の隙間の向こうに、誰かの“シルエット”が見えた。
「誰か、通った?」
麻斗が身構える――だが、ノックはない。気配もない。
「……いや。誰も通ってない」
優斗がそう言った瞬間、徹の霊気が“引っ張られるように”揺れた。
「っ、麻斗!部屋の中――!」
優斗が言うと同時に、徹の背後――香の煙が立ち上っていた空間から、女の影がゆらりと姿を現した。
白い喪服のような装い。
長い髪。
目元は空っぽで、ただ口だけがにやけている。
「見つけた……きれいな空の器……」
にやけた女の怪異が、ふらりと香の煙の中から徹の背後に手を伸ばす。
その手先は、まるで霧のように薄く、徹の肩へ――触れる寸前。
「させるかよッ!」
その瞬間、麻斗が爆ぜたように飛び込む。
拳に込めた退魔の波長が白熱し、女の怪異の手を弾き飛ばすように叩き落とした。
「こっちは通行止めだっつってんだろ!」
怪異が軋んだ声で叫び、身体を霧のように散らして部屋の中に逃げ込もうとする。
「優斗、来るぞ!」
「わかってる!」
すでに優斗の指先には式札が展開されていた。空間に貼られた目に見えない札が術式を繋ぎ、“精神干渉遮断”の結界が徹の周囲にぴたりと張られる。
「結界、通させない。ここは“器の核”だ。入らせるわけにはいかない」
「んじゃ、殴るわ!」
麻斗が真っ直ぐに怪異へ跳び込む。
怪異がぐにゃりと形を変え、徹へ向かって再度侵入しようとするが――
「ッ、無理矢理でも……!」
「無理矢理は一番嫌われるって知らねえのかよッ!」
バァン!
退魔の波長が拳から波紋のように広がり、怪異の“霊核”を打ち抜く。
「ぐあああああああ!!」
悲鳴と共に、怪異の身体が霧散する。
その瞬間、優斗が最後の結界式を打ち込んだ。
「――封じ、完了」
静かに式札が燃え尽き、部屋の空気が静まり返る。徹の背後に、もう怪異の気配はなかった。
「……はぁ、危なかったな」
麻斗が肩で息をしながら言った。
「少しでも侵入されてたら、“器”はもう使いものにならなかった。そんときゃ俺、ホテルごとぶっ壊してたかも」
「それはやめて」
優斗が淡々と返すと、麻斗は肩をすくめて笑った。
「とにかく、あいつら本気出してきた。そろそろ儀式が“近い”ってことかもな」
静かに儀式を続けていた徹が、目を開けてこちらを見た。
「……ありがとう。何も感じなかったけど、危なかったんだね?」
「ああ。ギリッギリだった。てめえの後ろ、だいぶ人気スポットになってるから気をつけろよな、“高級住宅”」
◆ ◆ ◆
――2週間が経った、ある日の夕方。
高級ホテルの自室、夕陽が差し込む部屋の中で、麻斗はいつものように退魔の波長を軽く拳に乗せ――
「はーい、次の方終了っと」
ぬるりと姿を現した怪異を、無造作に、しかし的確に吹き飛ばした。
「……やばいなこれ。風呂もトイレも関係なくなってきてね?」
肩を回しながら、麻斗がソファにどさっと座る。
「昨日なんてさ、徹、風呂で襲われかけてたじゃん?俺あのとき、パジャマのまま風呂場突入したからな?」
徹は儀式の余韻を引きずったまま、少しだけ苦笑いしていた。
「……ごめん。あのときも、何も気づけなかった」
「いや、お前が悪いって話じゃなくてさ!」
麻斗が手をひらひらと振ったあと、ぴたっと手を止めた。
「……そうだ。だったらさ――」
パッと顔を上げて、ニヤリと笑う。
「もう毎回3人で風呂入ろうぜ」
「…………は?」
優斗の手が止まり、徹の目が一瞬だけ大きく見開く。
「いやだって、徹が風呂行くたびに怪異出るなら、こっちも最初からついてりゃ問題なくね?
服のまま風呂場突入すんの、結構しんどいんだわ!」
「いやいやいや、待て」
優斗がすかさず静かにツッコむ。
「それ、護衛の名を借りた混浴じゃないか?」
「どこが混浴だよ!俺ら男三人だし!修学旅行のノリじゃん!」
「修学旅行中に怪異出ないでしょ普通」
「ま、それはそれでイベントだろ?」
麻斗が全く悪びれずに笑い飛ばすと、徹がふ、と笑った。
「……でも、真面目な話、助かるかも。たしかに僕、ひとりのときの方が狙われる率高いし、
正直、お風呂のときに出てこられるのが一番怖い」
「だよなー!よし決まり。優斗も一緒な?」
「……強制?」
「当然!だってお前も惹魔体質だろ?サウナに惹かれてくる虫みたいに、怪異も寄ってくんだぞ?」
「それ言うなら虫じゃなくて蛾、だよ……」
あきれたように優斗がため息をつき、
徹はちょっとだけ頬を赤くしながら、それでも微笑んだ。
「……じゃあ、よろしく。僕の護衛として、“バスタイムも一緒”で」
「おう任せとけ!」
――こうして、3人の「全裸警戒態勢」も始まることとなったが、このあと風呂で“見るんじゃなかった系の怪異”と遭遇するなど、麻斗たちはすぐに後悔することになり…そして案の定、風呂場に響き渡る怒号と悲鳴。
「変態怪異!!いい加減ゆっくり風呂浸からせろ!!」
麻斗の声が、湯気のこもった大浴場に轟く。
湯船から豪快に飛び出したその身体に、退魔の波長がバチバチと迸った。
その一撃が、水面ごと“何か”を叩きつけて吹き飛ばす。
ザパァァンッ!!
水飛沫とともに、妙に艶かしい手足をもった触手型の怪異がタイルに打ちつけられ、ヌルリと壁を這いながら逃げ回る。
「うお、こいつ足に絡ませてきやがった!!変態!ど変態!!」
「……誰か呼ばれる前に早く終わらせて」
優斗がぬるっと水中から顔を出し、眼鏡を探すように辺りを見回す。
「優斗!!メガネかけろ!そっち行ったぞ!!」
「待って、風呂用のメガネなんて持ってない……!」
そう言いながらも、優斗はテレパシーで怪異の動きを感知。
即座に術式を発動し、結界を湯気と湯の流れに同化させる。
「湯の流れに重なるように結界を張った。麻斗、今なら反応遅れてる」
「任せたッ!!」
麻斗が飛び上がり、全身に霊気をまとったまま、空中から浴槽の中央に向けて“水柱を割るような”ストレートを叩き込んだ。
ドォンッ!!
怪異の中心部を撃ち抜いた拳から、退魔の波長が波紋となって広がり、
湯気の中、ヌルリと崩れた怪異の姿が泡のように弾けて霧散する。
静寂。
残ったのは、ピチャリ…と湯が返る音と、浴槽の隅っこで縮こまる徹の姿。
「……え、こわ……え、待って、今の……」
「そうだよ。変態型怪異だったよ。大浴場のど真ん中で暴れてたんだよ」
麻斗はずぶ濡れの髪をかきあげながら、怒りと呆れを滲ませて言った。
「もう風呂ぐらい、ゆっくり入らせてくれよ……!」
優斗が小さくため息をついてから、静かに結界を解いた。
「まあ……これで“湯の中にいるタイプ”は少しは減ったかもね」
「減ったかも、じゃねえよ!もう完全にトラウマだわ!」
◆ ◆ ◆
夜。戦闘後の騒がしさも落ち着いた頃。
3人は部屋に戻り、着替えも終えてそれぞれが水を飲んだり、髪を乾かしたりと静かな夜の時間を過ごしていた。
その中で、ふと――徹がつぶやいた。
「……でもさ。なんか……兄弟って、いいね」
麻斗が頭にタオルを乗せたまま、少し驚いた顔で振り向く。
「ん?」
徹はソファに座ったまま、手元のグラスを見つめながら言葉を続ける。
「鷹司家って……生まれるのは、男児一人だけって決まってるんだ。“必要なモノ”の加護のおかげ、って聞かされてる。でも、それってつまり……“継承権争いが起きないように”、なんだと思う」
優斗は静かにタオルを畳みながら、徹の話を聞いていた。
「誰かと競うこともない。誰かに助けを求めることもない。生まれた瞬間に、“一人でやれ”って言われてるようなものだよ」
徹の声に、わずかににじむ孤独。
「……双子って、いいな。麻斗が傷つけば、優斗が黙って手を伸ばすし、優斗が黙っていても、麻斗は勝手に感じ取る。なんていうか……ずるいって思った」
「ずるいって……お前」
麻斗は苦笑して、ソファの背にどっかと座った。
「別に俺たち、最初から仲良かったわけじゃねーぞ?こっちはお互いの声が勝手に聞こえてくるから、ケンカもするし、どっちかがイラッとしたらもううるせーうるせー」
優斗は小さく頷いた。
「それに、隣に誰かがいるからって楽になるわけじゃない。でも……一人じゃない、っていうのは、案外大きいかもしれないね」
徹は、そっと笑った。
「……羨ましいよ。でも、僕が“この器”を継いで――誰かの中に“何か”を宿すってことができるなら、それはそれで、ちょっとだけ……誰かと、つながれる気がしてるんだ」
その言葉に、優斗と麻斗は顔を見合わせた。
そして麻斗が、ぶっきらぼうに笑って言った。
「まぁ、少なくとも今は3人で一緒に風呂入ってるんだし?孤独とか、なんとかってのは――この1ヶ月間はナシな!」
「……そういうまとめ方する?」
「する!」
優斗がため息をつく。
徹は、そんなふたりのやり取りを見ながら、心の底から笑った。
この夜、徹の“器としての覚悟”の底に、ほんの少しだけ“自分としての願い”が芽生え始めていた――。
◆ ◆ ◆
ここに来て、3週間が経った。
その夜――豪華な和食会席がズラリと並ぶダイニングルーム。
麻斗はというと、湯気の立つ味噌汁を前に、コックリコックリと船を漕いでいた。
目元にはうっすらとクマ。髪は寝ぐせのまま、肩はガチガチ。
徹が箸を止めて、少しだけ心配そうに首を傾げた。
「珍しいね。いつもなら“うおー!この卵焼きヤッベェ!”とか言っておかわりしてるのに」
麻斗は片目だけうっすら開けて、なんとか言葉を絞り出した。
「ここ数日……マジで、怪異の襲撃の頻度が増してんだよな……」
ふあぁ、と間延びした欠伸をひとつ。
「風呂もトイレも関係なくなって……最近は朝昼晩も関係なくなって……こっちが何食ってるかとかも関係なく出てくんだよな……」
そのままぐったりと体を倒しそうになりながら、お茶碗だけはしっかりと執事に差し出していた。
「あと……俺は肉弾戦メインだから……ぶっちゃけ体中バッキバキで痛ぇ……優斗がずるい……術で済ませやがって……」
「いや、僕も霊気の消費量エグいからね?術式で胃の中カラになってるし」
優斗がいつも通り淡々と返しながら、麻斗の額に冷えたおしぼりを投げて寄越す。
「それでも元気に食べる君の胃袋の方がずるいよ」
「そーだな……俺の胃袋は宇宙だしな……」
おしぼりを顔に乗せながら、麻斗はそれでもご飯を一口かき込んだ。
徹は二人のやり取りを見て、ふっと笑った。
「君たち、本当に疲れてるのに、なんでそんなに普通でいられるの」
「慣れだよ、慣れ」
麻斗が顔をあげて言う。
「こっちは兄貴と一緒に、幼少期から幽霊に耳引っ張られたり、のしかかられたり、夜中に“いっしょに行こ…”って声かけられたりしてきたからな……」
「そりゃあ……だいぶ特殊な幼少期だね」
徹は苦笑いしつつも、
麻斗の肩越しに視線を窓へ向ける。
その目が、ふとわずかに陰った――外から、何かが、また近づいてくる気配。
そして“器”である徹は、それを感じることもできない。けれど、確実に“自分を狙うもの”が、今夜も迫っている。
それを言葉にする前に、優斗が静かに立ち上がった。
「……来てる。今夜は、早めに結界を張っておいた方がいい」
「……あー、了解。飯は食うけど」
麻斗が手を挙げた。
「どうせまた、寝る前にも来んだろ?
だったら今のうちに栄養補給しておくに限るってもんよ」
「……頼もしすぎて、なんか申し訳なくなるな」
徹の声に、麻斗はいつもの笑みで応える。
「気にすんな。俺らが来たのは、そういう役目だからな」
すると、ぬるり、と。
何もないはずの空間に、何かがにじむように手を伸ばす。
それはまるで、空気そのものがねじれたような“違和感”を孕んでいた。白く細い指先が、ゆっくりと徹の頬へと迫っていく。
けれど、徹は気づかない。
目の前にあるのは、ただの湯呑みと食事。
静かに箸を進め、お茶をひと口含み、ほんのり目を細める。
“見えない”とは、かくも恐ろしい。
「……ッ、来た!」
瞬間、麻斗が椅子を蹴って立ち上がる。
「優斗!」
「もう見えてる。動くな、徹」
優斗の言葉に、徹はポカンと顔を上げたまま硬直する。
「えっ、えっ?なに?動くなって、なに?」
だが、優斗はすでに術式を起動。
空間に淡く浮かぶ式札が、“徹の周囲だけ”を隔離するように結界を張る。
次の瞬間――
「っるせえんだよ、手ェ伸ばしてくんじゃねえ!」
麻斗の拳が炸裂する。
拳から放たれた退魔の波長が、霧のような腕を砕くように一閃し、空間がズンッと震えた。
だが、霧の腕はすぐに再構築され、別の方向から再び伸びてくる。
今度は足元。次は背後。まるで徹を包み込むように、ぬめる霊気が蠢いている。
「優斗!そっちから来る!」
「わかってる!」
優斗が式札を複数展開し、空中で結び合わせて複合式に変化させる。
「“視えぬもの、形なしとて斬り離す”――!」
式札がパァンと破裂音を立て、周囲の霧の腕を焼き切った。
「……あっぶねえ、ギリだったぞ今の」
麻斗が肩で息をする。
「触れかけてた、な」
「っ、そんな……全然気づかなかった……」
震えるように呟いた徹に、麻斗がポン、と背中を叩いた。
「だから俺らがいるんだって。見えねぇ分、俺たちが張って守る。その代わり、お前は“穢されるな”――“器”なんだろ?」
優斗もふっと息を吐いて、静かに言う。
「この程度の怪異で手を出されてたら、儀式当日はどうなるかわからないからね。今のうちに学習して、動じないようにしておくといい」
徹は、ぐっと唇を噛んで、それでも小さく頷いた。
「……ありがとう、2人とも。でも……今のは……本当に、“入られかけてた”?」
優斗と麻斗は、同時に頷いた。
「もう少し遅れてたら、お前の声で出てくる“何か”になってたな」
「……肝に銘じておくよ」
窓の外――夜が、いよいよ深まりつつあった。
儀式まで、あとわずか。
“器”を奪おうとする存在の気配も、
確実に、その強さと執着を増していた――。
◆ ◆ ◆
夜。
辺りは静寂に包まれていた。
高級ホテルの一室、重厚なカーテンが外の月明かりを遮り、空間は暗闇に満たされている。
その中に響くのは、規則正しい寝息だけ。
布団に並ぶ三人の寝姿。
しかし、その穏やかな風景に、異物が忍び込む――天井の隅、黒い染みのように広がった“影”。
その中央から、ねじれるように伸びる手。
指先はぬるりと蠢きながら、徹の額へと音もなく触れようと――
「……おい」
パチッ。
唐突に、麻斗が目を覚ました。
瞬間、手を上げるよりも早く――退魔の波長が鋭く走る!
ピシィンッ!
光のように放たれた霊気の刃が、
影の手を途中で裂くようにして弾き飛ばす。
「おいおい……ついに寝込みまで襲ってくるようになったか?」
ベッドの上で上体を起こした麻斗が、
薄く笑みを浮かべながら、天井の影を見上げた。
「こっちは風呂も飯も妨害されてんだ。
寝てる間くらい、大人しくしとけよ?」
にやり、と口角を吊り上げたその瞬間――
影はざわりと動き、部屋の隅へ逃げようとする、が。
「逃がすかよ」
麻斗の手から、もう一撃。
今度はより深く、退魔の波長を乗せた拳を振り抜くように放ち――天井に残っていた影が、ビリビリと震えながら霧のように消えた。
「……ふう」
息を吐き、肩の力を抜いた麻斗は、ふと気づく。
「……寝てるふりしてる奴、起きてんだろ?」
「……気配を分析してた」
優斗が、隣のベッドで目を開け、眼鏡をかけながら起き上がる。
「ありがとう。反応、早かったね」
「いやー、おかげで目覚めすっきりだわ」
麻斗が首を回しながら、ちょっと疲れたように笑った。
その向こうでは、徹がまだ静かに寝息を立てていた。何が起こったか――気づくこともなく。
「……あいつの無防備さ、逆にすげえな……」
「でも、あれだけ無垢だからこそ、器としては“最高の素材”なのかもしれないね」
二人は、静かに立ち上がると、もう夜が明けていた。
一晩中張り詰めていた空気も、カーテンの隙間から差し込む朝日によって、少しだけ和らいだように思えた――徹はまだ静かに眠っていた。
その寝顔は無垢で、まるで何も知らず、何も背負っていないかのように見える。
しかし、優斗と麻斗は知っている。
この数週間、彼がどれだけ“器”として狙われていたか。
どれだけの怪異が、彼の霊気を求めて押し寄せていたか。
麻斗は、窓際で伸びをしながら呟いた。
「まじで…寝込み襲うとか……容赦ねえなあいつら」
優斗は隣で、静かに眼鏡を拭きながら答える。
「……自然発生の怪異にしては、ちょっと異常だね。数も、質も――誰かが手引きしてる可能性がある」
麻斗が眉をひそめた。
「誰だよ、そんな暇なやつ」
「黒月とかね」
その言葉に、麻斗は一拍置いて、ため息をついた。
「……そーだな。あいつら、変なとこで執念深ぇし」
そして、ぽつりと笑う。
「優斗と一緒に寝起きするなんて、俺が熱出して寝込んだ小学校以来だしな」
「そーだな。お前と一緒に寝起きするのなんて、俺が熱出して寝込んだ小学校以来だしな」
「こっちは毎晩怪異に起こされて、寝た気しないけどね」
そんな、日常に戻ったような軽口。
けれど、その裏にあるのは――“ここにいる3人で、絶対にこの儀式を乗り切る”という、
決して言葉にはしない覚悟だった。
その日の朝。
徹が目を覚まし、何も知らないまま笑顔で「おはよう」と言った瞬間――麻斗と優斗は、視線だけで互いに頷いた。
(あと少しだ)
(絶対に、護りきる)
儀式まで、あと一週間。
怪異の気配はさらに色濃くなっていく。
でもこの三人なら、まだ戦える。
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