第20話 黄金の角を継ぐ者 前編

 ある日の午後。

柊神社の社務所に、ぱさりと一枚の封筒が置かれた。


柊がそれを指で弾くと、中から書状が一枚、滑り出てくる。

彼はそれをぺらりと開いて、双子に見せつけるように広げた。


「今回はお前らに――一ヶ月の護衛任務をしてもらう」

「……一ヶ月!?」


 麻斗が思わず身を乗り出して叫ぶ。


「おい、夏休みだぞ!?俺の海とか焼きそばとか花火とかどうなんの!?」


 柊は麻斗の抗議をスルーしながら、続けた。


「護衛対象は、“鷹司徹”――代々続く名家の跡取り息子らしい。お前らと同年代で、ちょうどこの夏に“継承の儀”ってのがあるそうだ」


 柊は肩を竦める。


「内容は俺も知らん。ただ、鷹司家は“怪異が見えない”けど“依代体質”。当主にしかできない儀式らしくてな……要は、“宿す”体質だ」


「……つまり?」


 優斗が問いかけると、柊は煙草を咥えながら言った。


「簡単に言えば、“怪異を引き寄せるけど何も見えない上に、自衛もできないド真ん中な少年”だ。しかもこの一ヶ月、怪異の狙いが一番集中する時期だとよ。鷹司家の“必要なモノ”は、昔から狙われてるらしい」


 麻斗が呆れた顔で天井を見上げた。


「……え、俺らの夏、まさかのボディーガードバイト?」

「最近“黒月”って連中も動いてるだろ?あいつらが嗅ぎつけたら、儀式ごと潰されかねねぇ。…用心しとけよ」


 黒月の名前に優斗の目が鋭くなり、麻斗が真面目な顔つきになった。


「……まあ、これは余談だがな」


 柊は煙草の火をトントンと落としながら、わざとらしく言葉を継いだ。


「鷹司家は、儀式の一ヶ月前から“お清め”と“護り”の意味で、家が持ってる高級ホテルをまるっと貸し切るらしい」


 一瞬、室内の空気が止まった。


「……は?」

「もちろん、護衛であるお前らも――そこに滞在することになる」


 柊がにやりと笑う。

 その瞬間、


「よっしゃあああああああ!!!」


 麻斗がガタッと立ち上がって、天を仰いだ。


「待って待ってマジ!?部屋に温泉とかフカフカベッドとか!?バイキング形式の朝食とか!?いや、夜食も!?漫画読み放題!?プール付き!?」

「落ち着け」


 優斗が静かに机をコンと指で叩いて制止した。


「…別に遊びに行くわけじゃないからね。護衛任務だよ」

「いやでも!?でも!?」

「ほら出た、“でも”」


 柊は腹を抱えて笑いながら肩をすくめた。


「お前らの夏はな、贅沢に怪異と一緒だ。覚悟しとけ、わかったら支度しろ。――明日だからな」


 柊は煙草の火を消しながら、ぐいっと身体を伸ばした。


「一応、格式ある家からの正式な依頼だ。……初日くらい、スーツで行けよ。最低限の礼儀は見せとけ」

「……え、スーツ!?」


 麻斗が一気にテンションを下げる。


「なんだよ〜……あっついのに……」

「初日だけだろ」


 優斗が淡々と返しながら、早速カバンの中身を整理しはじめる。


「僕のは前に買ったやつがあるから大丈夫」

「兄貴が準備早いのほんとズルいんだけど!?俺、クリーニングすら出してないぞ!?」

「出しとけよ……」

「うわあああ!夏が仕事で始まって、スーツで始まるって何だよおおお!」

「うるさいぞ公害」


 柊がぼそりと呟くと、麻斗は机に崩れ落ちた。


 ◆ ◆ ◆


 麻斗はスーツの裾を引っ張りながら、落ち着かない様子でロビーを歩いていた。

 首元のネクタイは妙によれていて、締め直すのももう面倒らしい。

 目の前に広がるのは、まるで西洋の城を思わせるような高級ホテル。

 天井は高く、シャンデリアは繊細で、床には分厚い赤絨毯。

 外観も内装も、非日常そのものだった。


「……すげえなここ……」


 ため息混じりに呟くが、その目は落ち着かない。視線を走らせるたびに、小さな影――怪異の気配がちらちらと視界に映り込む。


「……最悪だ、めっちゃ寄ってきてんじゃん」


 麻斗はロビーをキョロキョロと見渡しながら、ひそかに退魔の波長を薄く立ち上げる。


「依代体質ってさ……優斗の惹魔体質の下位互換みたいなやつだろ?ってことは……共鳴したら最悪じゃね?」

「……その言い方やめてほしいな」


 隣でスーツをきっちり着こなした優斗が、眉ひとつ動かさず返す。


「共鳴“したら”じゃなくて、“もうしてる”かもよ?」


 その瞬間、ふわりと冷たい風が吹いたような感覚が、二人の間を抜ける。


「君たちが、双子の陰陽師?」


 不意に背後から、穏やかな――けれどよく響く声が届いた。

 振り返ると、そこには完璧に整った身なりの青年が立っていた。

 静かに微笑みながら、まっすぐ二人に視線を向ける。


「聞いたとおり、とてもよく似ているね」


 徹はすっと麻斗の前に立つと、軽やかな手つきで麻斗のゆるんだネクタイに手を伸ばした。


「よれてたから、直しただけ。……久しぶりに、シルク以外のネクタイに触れたよ」


 くすりと笑うその顔は、美しく、洗練されていて――どこか、どこまでも“整いすぎて”いた。


(……え? 初っ端から嫌味?)


 麻斗はしれっと優斗にテレパシーを送る。


(嫌味かどうか判断する前に、距離近すぎない?)


 優斗の声も少し低めだった。

 麻斗の視線が徹の霊気に触れた瞬間、思わず息を呑む――白い。

 それは、まるで“触れるだけで染まる”ような霊気だった。

 無垢で、静かで、あまりにも余白が大きすぎて、怪異にとっては――“入りたくて仕方ない器”。

 徹がその場に現れるだけで、空間の気配が変わった。ロビーの隅に潜んでいた怪異たちが、一斉にざわめくように空気を揺らした。

 麻斗は表情を険しくしながら周囲を見回す。


(……こりゃあ、やべえな)


 それを見ていた徹は、肩をすくめて、あくまで穏やかに言った。


「ああ、悪いけど――僕、霊感は全くないんだ。まあ、このホテルは君たちには普通一生縁のない場所だろうし……サボらない程度にゆっくりしていきなよ」


 その言葉には、丁寧な響きとほんのりとした侮蔑が同居していた。


「父上に話があるなら、上の階にいる。僕はこれから食事だから、じゃあね」


 徹はそう言い残すと、踵を返し、優雅に歩き去っていった。……その背中に、麻斗はぼそりと呟く。


「……優斗と相性ばっちりじゃん?」


 優斗がほんの少しだけ目を細める。


「……似てないと思うけど」


 ◆ ◆ ◆


 優斗と麻斗は、案内された執事に従ってエレベーターに乗り、静かに最上階――スイートフロアへと上がっていった。

 扉が開くと、そこはロビーとは異なる“別世界”だった。

 空気が澄み切っていて、音が吸い込まれていくように静か。壁は淡い金に彩られ、装飾の一つ一つが品の良さを物語っている。

 それでも最も印象的だったのは――そこに“何もない”ことだった。

 怪異の気配も、残穢も、霊的な乱れもない、完璧に“整えられた空間”。

 その中央で、静かに佇んでいたのは――スーツを完璧に着こなした壮年の男だった。

 目元には威厳を帯びた皺、背筋は真っ直ぐに伸び、何より――その全身から滲み出る霊気が、異質だった。

 それはもはや“人の域”を超えている。

 まるで神を一部取り込んだかのような神気。

霊気が見えない者でも、無意識のうちに頭を垂れたくなる。

 声を荒げることなどできず、ただ“納得させられてしまう”――そんな圧。

 その男が、低く重みのある声で口を開いた。


「私が鷹司家元当主、鷹司忠と言う」


 優斗も麻斗も、思わず背筋が伸びる。


「1ヶ月後に“当主交代”および“引き継ぎの儀”を控えている。しかし、徹の身体は儀式に備えて霊気の“磨き”に入る。それに伴い、“他の存在”に目をつけられやすくなるのだ「……“内”だけでなく、“外”の妨害にも備えてもらう必要がある。名のある異能者たちが、必要なモノの存在に気づいて動き出していると聞いている」


 忠の言葉は、説明口調なのにどこか“宣告”にも聞こえた。


(…黒月とかもありうるよな)

(可能性は考えておくべきだろうね)


 優斗と麻斗がテレパシーを交わした。


「君たちへの依頼は――あらゆる手段を用いて、徹を怪異の魔の手から守ること。このホテルは君たちに全面的に協力する。必要があれば、何なりと徹に申しつけてくれ給え」


 沈黙。

 そしてその空気は、“了解した”以外の言葉を許さないような重さだった。


「わかりました。全力を尽くします」


 優斗が静かに言うと、隣で麻斗も肩を張って頷いた。


「まあ、そのために来たんだしな」


 二人が礼を取ると、鷹司忠は再び静かに口を開いた。


「……我が息子に、目を通しておくといい。下の階の部屋にいる――この階と下の階には、部屋は一つずつしかない。迷うことはないだろう」


 簡潔で重いその言葉を背に、優斗と麻斗は階段を降りる。

 そして徹の部屋の前に立ち、しばし待っていた。

 麻斗はふと、隣の優斗に意識を向ける。


(なあ、優斗)


 静かに、頭の中に声を送る。


(あの当主……間違いなく“神クラス”が“入って”るよな。霊感がなかったら……なんだか知らんうちに鷹司の思い通りに動かされてたっておかしくない)

(うん。あれは“理屈じゃない納得”を誘う霊気だった。たぶん……本人も自覚してる)

(ってことはだよ……)


 麻斗は肩をすくめながら、ぼそりと続けた。


(徹に継がれるのは、“そういうヤベェもん”ってことだろ?)


 返事の前に――目の前の扉が音もなく開いた。


「待たせたね」


 現れた徹は、朝と変わらぬ丁寧な身なりと、涼しげな笑顔を浮かべていた。


「改めて、護衛の説明をするよ。……入って」


 その一言で、静かな空気がひとつ、切り替わった。徹は静かに部屋の奥へ進み、背後からついてきた優斗と麻斗に向き直ると、やわらかく手を差し出した。


「どうぞ、座って」


 徹の部屋は、まるで展示室のように整然としていた。余計なものは一切なく、それでいて冷たくない。使い込まれた革張りのソファと、壁に並んだ書物、仄かに香る紅茶の匂い――

 落ち着きと品格がそこにあった。

 ソファに座ると、徹が湯気の立つカップをふたりの前にそっと置いた。


「ミルクでいいかな。……砂糖は一応、別で」


 それだけ言って、徹は対面の席に腰を下ろす。

 しばらくの静けさ。

 そして、カップのふちを指でなぞるようにしてから、ゆっくりと口を開いた。


「……僕は、鷹司家の跡取りとして――“当主”から、“当主となるために必要なモノ”を、受け継ぐことになっている」


 その言葉に、優斗と麻斗がそっと視線を上げる。徹は、ふたりの目を順に見て、真剣な声で続けた。


「その儀式が行われるまでの一ヶ月間……僕は“依代”としての適性を高めるための準備を受ける。でも、それは“他の怪異にも憑依されやすくなる”ってことでもあるらしい」


 淡々と語られる現実。


「だから……君たちにお願いしたい。儀式までの間、僕が“本来受け継ぐもの”以外のものに取り憑かれないよう、守ってほしい」


 彼の声は、どこまでも冷静で、どこか他人事のようにすら聞こえる。

 それでも――その中に、確かな覚悟があった。


「……んで?」


 沈黙を破るように、麻斗が眉を寄せた。


「その“必要なモノ”ってのは、結局なんなんだよ」


 徹は少しだけ目を細め、そして視線を麻斗へと向ける。


「……実は、僕も詳しくは聞いていないんだ」


 どこか申し訳なさそうに、でも嘘は混じっていない声だった。


「鷹司家の人間には、霊感はない。けれど、代々当主の代になった者は“それ”を受け継ぎ、

鷹司家を支えて、繁栄させてきた。……らしい」


 徹は紅茶のカップを指先で回しながら、静かに言葉を継いだ。


「でも……一度でも、他の怪異が僕の身体を“通る”と、器が穢れる。そうなると、“必要なモノ”は受け継げなくなる、と言われている」


 淡々と、客観的に語るその姿に、

 麻斗は言い返したくても言葉が出てこなかった。そして――ほんの一瞬、徹が視線を伏せる。

 その仕草に、これまでの“徹らしさ”とは違う、微かに揺れる感情の波が見えた気がした。

 ふたりが黙って待つと、徹は呼吸を整え、ほんの少しだけ迷ったあと、口を開いた。


「退魔の波長を持つ麻斗くんが、怪異を祓う。

 でも、もし祓いきれなかった場合……」


 徹は視線を優斗に向ける。


「――最悪、怪異が僕に乗り移る前に。“惹魔の波長”を持つ優斗くんが、“僕の代わりに引き受ける”」


 空気が、一気に冷えた。


「そういう手筈になっている。万全の体制を取るために、そういう話になっている……と、父上から伝えられている」


 その瞬間だった。

 麻斗の中から――言葉にならない“怒り”が、鋭く優斗の頭に響いた。


(……ッ!)


 けれど、麻斗は何も言わない――これは、徹のせいじゃない。本人は“指示されたことをそのまま伝えただけ”なのだから。

 だからこそ、麻斗はその怒りを声に出さなかった。ただ、心の奥で静かに、火をくべるように思った。


(……そんなの、させるわけねえだろ)

「……わかった」


 優斗が、静かに言った。

 その声は穏やかだったけれど、

 その奥には確かな強さと、火が灯っていた。


「僕たちは――まだ高校生で、見習い陰陽師だ。正直、実績も技術も、叔父さんや他の陰陽師たちに比べたら、まだまだだよ」


 紅茶のカップを見下ろしながら、ぽつりぽつりと言葉を続ける。


「でも……」


 優斗は、ゆっくりと徹を見据えた。


「それでも僕たちが、この任務に“選ばれた”理由は、わかった気がする」


 その瞳は、一切ぶれずに真っ直ぐだった。


「僕たちは、他の誰とも違う。“見える”だけじゃない。“感じ取る”ことも、“引き受ける”ことも――できる」


 麻斗がゆっくりと立ち上がると、ぐいっとネクタイを緩めながらぼやいた。


「ま、難しいことは置いといてよ。俺らの夏休み返上で“お前を守る”って決まった以上――」


 彼は肩を回しながらニッと笑う。


「全力でぶっ潰すから、怪異でも、儀式のリスクでも。……優斗の身体に変なの入れるとか、ありえねーから」


 徹はその言葉を受けて、少しだけ目を見開いた。そして――


「……ありがとう」


 わずかに、けれど本当に安心したような声で、徹は微笑んだ。

 沈黙の中で、麻斗が口を開いた。


「……でもさ。お前は、それでいいのかよ」


 静かな室内に、その声は意外なほど鋭く響いた。


「お前の父親がの持ってた“ソレ”――ありゃ、間違いなく強大なもんだ。だけど、見てて思ったんだよ……お前、まるで“それを継ぐためだけに生かされてる”みたいだった」


 麻斗の目が、真正面から徹を捉える。


「依代とか、儀式とか……そんなもんに、最初っから巻き込まれる前提で生まれてきたみたいに扱われて。お前自身は、それでいいのか? それに“なれる”ってだけで、納得できるのかよ」


 その言葉には、確かな怒気が混じっていた。

 ――けれど、徹は、わずかに微笑んだ。


「鷹司家は……大昔から続く、国家にとっても重要な“貴族の家系”だよ」


 その笑みには諦めでも傲慢でもない、ただ、事実を受け止めた者の静けさがあった。


「僕には、“器”になる以外の生き方なんて最初からない。それに、僕は――歴代の中でも“器としての適性”が高いらしい」


 徹は自分の胸にそっと手を当てて、目を伏せる。


「“嫌です”なんて、通じない世界なんだ。君が怒ってくれるのは……とても嬉しいけど。僕は、これでいいと思ってる」


 そして――徹の視線が、静かに優斗へ向く。


「日吉優斗。君なら僕と違って、たとえ怪異を引き受けても――対抗する手段を持っていると思ってる」


 それは期待であり、信頼であり――同時に、わずかな依存だった。

 徹はゆっくりと立ち上がると、ふたりに向かって軽く頭を下げた。


「これから、一ヶ月。よろしく頼むよ」


 その声は、やはり穏やかで、変わらずに“器”としての役目を受け入れていた。

 麻斗はガシガシと頭をかきながら、肩をすくめた。


「……まあ、仕方ないな。よろしく頼むわ」


 そう言って、麻斗は手を差し出した。


「さっきはちょっとムカついた態度出したけど……お前のせいじゃねーしな。悪かった」


 徹がその手を静かに握り返すと――その瞬間、麻斗の体を何か奇妙な感覚が駆け抜けた。


(……うわ、こりゃ……)


 伝わってくる霊気は、徹の静かで整った外見とは裏腹に、どこか“危うい”ほどの純粋さを孕んでいた。

 まるで、白すぎて逆に“塗りたくなる”。

 優斗の“惹き寄せる”力とはまったく違う、“触れた者をそそる”類の霊気。


 納得する。

 怪異たちが入りたがるのも、妙にわかってしまう。


「お前……」


 麻斗は手を離し、ふっと苦笑した。


「霊も怪異も見えないなんて言ってるけどさ――正直、けっこう危うい霊気してるよ。マジで狙われてもおかしくねえ感じ」


 徹はきょとんとした顔で、握っていた手を見つめる。


「……危うい?」

「うん、例えるなら――」


 麻斗はちらっと隣の優斗に視線をやって、ニヤリと笑った。


「優斗の霊気が“巨乳のお姉さん”だとしたら――徹のは“処女の女子高生”って感じ?」

「はあ?」


 優斗が無表情で睨んでくる。


「……お前、本当に表現選ばねえな」

「いやいや、でも分かりやすいだろ!?」

「下品だって言ってんの」


 徹はポカンとしていたが、少しして吹き出した。


「……たしかに、それは……分かりやすいかもしれない」


麻斗は胸を張って「だろ?」と満足げに笑ったが、その裏には、確かに“この霊気を汚させてたまるか”という本気の決意があった。


「お前も握手したら分かるよ」


 麻斗が隣の優斗を小突く。


「……は?」


 優斗は訝しげに麻斗を見るが、麻斗はニヤニヤしながら肘でぐいっと押す。


「いいから試してみろって。“処女の女子高生”の霊気、体感してこいよ」

「誰がそんなもの体感するか」

「大丈夫。優斗ならちゃんと紳士的に感じ取れるって」

「例えがもう最悪なんだけど……」


 優斗は一度深いため息をつくと、観念したように立ち上がり、徹に視線を向ける。


「……じゃあ、一応。礼儀として、握手を」


 徹も静かに立ち上がり、その手を差し出した。優斗がその手を握った瞬間――優斗の表情がわずかに変わる。


「……これは……」


 さすがに“処女の女子高生”とは言わないが、

 その霊気の“透き通る危うさ”を、優斗も確かに感じ取った。

 まるで、ほんの少しの衝撃でもヒビが入ってしまいそうな――それでいて、触れたくなる“空白”。


「……なるほど。これは確かに、麻斗のたとえが的確だったかもしれない」

「な?」

「……ただし、次あんな例えしたらマジで説教だからな」

「うぃーっす」


 麻斗はひょうひょうと笑いながら、どこか安心したように肩の力を抜いた。

 その瞬間だった。

 ゾワリ――と。

 まるで空気が逆立つような、霊気の波が背筋を這う。

 次の刹那、麻斗と優斗がバッと同時に顔を上げ、音もなく視線を窓の方へと向けた。


「……ッ!」


 そこにいた。

 窓の外――ホテルの高層階にもかかわらず、空中に浮かぶようにして、何か“異質なもの”が、じっと徹の姿を覗き込んでいた。

 ぐにゃりとした形、ぬめるような体表。

 目のあるはずのない顔に、確かに“凝視されている”感覚がある。

 そしてその視線の先には、まったく気づく様子もない徹がいた。


「ん? どうかした?」


 徹は首を傾げ、二人の緊張に全く気づかないまま微笑む。

 ――その純粋すぎる“無防備”さが、今この場にある異常と、えげつないほどの“温度差”を生んでいた。


「――ッ来たか!」


 ゾクリとした空気が走った瞬間、麻斗は本能で動いた。

 退魔の波長を拳に宿し、反射的に窓越しに拳を突き出す。

 ゴッ――!

 波長が衝撃波のように空気を裂き、窓の外に浮かんでいた怪異を吹き飛ばす。

 その隙を逃さず、優斗が術式を走らせ、指先で空間を裂くように素早く結界を張る。

 バシィン――!

 空気が震え、結界が音もなく展開された。

 その一連の動作はまさに“訓練された対応”だったが――徹だけが、ぽかんと状況を把握できずにいた。


「……え? 今の、何?」



麻斗は苦笑いしながら、そっと息をつく。


「あー……体質だけの危険度で言えば、惹魔体質の優斗がダントツなんだけどさ」


 優斗が呆れ顔を向ける前に、麻斗は指を徹に向けて笑った。


「総合的なヤバさで言ったら、見えない分、お前に軍配上がるな。マジで」


 徹は自分を指差されて、やれやれと肩をすくめた。


「……事情を聞いてなかったら、今の君たちが完全に不審者だったね」

「笑ってる場合じゃねえぞ、お前。外のヤツ、絶対“中に入りたい”って顔してた」


 優斗がそっと結界の状態を確認しながら振り返ると、徹がふっと表情を引き締めた。


「……普段はね、自分の霊気って“封印”してたんだ。でも、儀式の一ヶ月前――つまり、今。

それを解く決まりになってる」

「なんでまたそんな決まりを…」


 麻斗が顔をしかめると、徹は微かに笑った。


「“器としての準備期間”なんだって。だから今の僕、たぶん、すごく“見つかりやすい”状態なんだと思うよ」


 その言葉に、麻斗も優斗も無言になる。


「あー……でもさ」


 麻斗が肩を竦めながら、結界の端を見上げた。


「どうする? 全員別の部屋で泊まるって話だったけどさ」


 そう言って、ちらりと徹を見やる。


「この調子だとよ――俺たちが徹と別の部屋にした瞬間、“徹を器にした妖怪弁当”が出来上がるんじゃねえかって気しかしねえんだけど」

「……妖怪弁当?」


 徹が思わず眉をひそめて聞き返すと、麻斗は平然と頷く。


「そう。“ご飯”が徹で、“おかず”が怪異。夜中のうちに全部詰められて、朝には“はい召し上がれ”だ」

「例え方のセンスが地獄すぎる」


 優斗がため息まじりにツッコむと、徹が吹き出しかけて、すぐに表情を引き締めた。


「……でも、冗談になってないのが怖いよね。

正直、あれを見た後だと、そういう想像が妙にリアルに感じる」

「だろ? だから俺の提案」


 麻斗は指を立てた。


「当番制で、誰かが徹の部屋に泊まる!もしくは、最初から“全員同じ部屋”にしちまう!でいいんじゃね?」


 優斗は一瞬だけ沈黙して、それから言った。


「同じ部屋……僕たちは構わないけど、徹は?」


 徹は一瞬だけ目を見開いてから、微笑んだ。


「……僕の安全のためなら、協力は惜しまないよ。ただし、変な寝相の人がいないといいけどね」

「寝相って言ったな。優斗、めっちゃ寝相いいから安心してくれ」

「なんで僕が寝相前提の話になってるの」


 麻斗がニヤニヤして、優斗がジト目になり、

徹はその様子にくすっと笑った。

 ――空気は少しだけ和らいだけれど、“夜”は、すぐそこまで来ていた。

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