第19話 およげるさんと声の契約

 朝から、なんとなく胸騒ぎがしていた。

 霊気ってほどじゃないけど、妙に背中がムズムズする。麻斗はそんな違和感を抱えたまま、窓の外にぼうっと視線を向けていた。


(なんか、ヤな感じするんだよなぁ……)


 そのとき。


「ねぇ、麻斗。知ってる?」


 隣の席からひそっと声が降ってきた。

 囁いてきたのはクラスメイトの女子。顔は妙に真剣だった。


「……何が?」


 麻斗が顔を向けると、彼女は周囲をちらりと見てから、声をひそめて言った。


「学校のプールでね。昔、溺れた生徒がいたんだって。で、その“誰か”が今も、プールで泳ぐ人の足を――引っ張ってくるんだってさ」


 教室の窓から見えるプール。

 その水面が、風もないのにふわりと揺れた気がした。


(……やっぱり、今日はなんかあるな)


 麻斗の背筋を、ほんの少し冷たい汗がつたっていた――プール開きが始まったその日。

 水は澄み渡り、陽の光を受けてキラキラと輝いていた。

 生徒たちは歓声を上げながら、更衣室から次々とプールサイドに集まり、

 水しぶきと笑い声が眩しい夏の始まりを告げていた。

 けれど、麻斗は――なんとなく、黙ってその水面を見つめていた。


(……変な感じだ)


 匂い、というほどのものじゃない。

 霊気を感じるには弱すぎる。

 でも、空気がほんの少しだけ重たいような、胸の奥がざわつくような、そんな“何か”。


「うーん……なんというか、言い表せない何かが……」


 麻斗は小さく唸りながら、まぶしい水面から目を離せずにいた。

 確証もない。

 でも、“何かが潜んでいる”――そんな気配だけが、確かに残っていた。


(……これ、気のせいだったらいいけどな)


 次の瞬間、プールの端の水面が――

 ぴちゃりと、小さく跳ねた。

 誰も触れていない場所だった。


 ◆ ◆ ◆


 昼休み、チャイムが鳴ったとたんに麻斗は走り出した。プールに向かいながら、同時に優斗にテレパシーを飛ばす。


(優斗、ちょっと気になることがあって)

(……プールのこと?)

(さっすが。いまプールサイドにいるんだよ)


 麻斗は水際にしゃがみ込み、じっと水面を見つめる。ぎらつく太陽の下で、プールは一見いつもどおり静かに見える。


(……ほんと、そういう時の行動は早いよね、お前)

(そりゃどーも)


 優斗の声に苦笑しながらも、麻斗はプールに漂う空気の重さを敏感に感じ取っていた。塩素の匂いの奥に、どこか魚臭いような生臭さが混じっている。


「この感じ……俺しか気づけねぇのかな」


 ぽつりと呟いたその瞬間、水の底の奥。揺れる影が、ふとこちらを見た気がした。


「っ……!」


 麻斗は反射的に一歩、後ずさる。見間違いか、それとも気のせいか……否。違う。これは“気配”だ。“何か”がそこにいる。間違いなく。


「……なるほど。引っ張る足、ね」


 麻斗は目を閉じ、深く霊視する。気配は静かに、水面と同化するように沈んでいる。まるで、獲物を待つ魚のように。


「ま、俺こういうの苦手なんだよな……」


 出てきてくれればぶん殴れるのに、潜って待たれると、術や結界の知識が必要になる。麻斗はぼりぼりと頭を掻きながら、水面を睨んだ。


 ◆ ◆ ◆


 優斗は図書室の隅でノートを広げていた。

 昼休みとはいえ、人の気配は少なく、静かすぎるほどだった。


(優斗、プールに怪異がいる……けど、逃げられる)


 唐突に届いた麻斗のテレパシーに、優斗は手を止めて小さく息を吐く。


(……やっぱり出たか)


 朝から微弱な霊気の残滓が校舎全体に漂っていたのは感じていた。

 それが“水気”と結びついていたことで、ある程度の予測はついていたが――


(“逃げられる”ってことは、麻斗の波長には警戒してるってことか)


 麻斗の退魔の波長は、怪異にとっては“脅威”そのものだ。

 けれど、波長が強すぎて警戒され、先に気配を消されることもある。


(となると、今のは……潜伏型。攻撃性はないのか…)


 優斗は立ち上がり、静かに眼鏡を押し上げる。


(こういうタイプは、対話と観察。逃げるものは、見つけて、囲んで、動きを封じてから)


 机の上のノートを閉じ、鞄に入れながらテレパシーを返す。


(了解。僕が見る。人間が狙われる前にね)


 優斗がそう返したその時だった。

 ――キーンコーンカーンコーン…

 昼休みの終わりを告げるチャイムが、校舎中に響き渡った。


「あ……」


 一瞬だけタイミングを計り損ねたように優斗の足が止まる。

 このまま職員の目をかいくぐってプールに行けば、目立つのは避けられない。

優斗のことだ、行動の是非を一拍で測る。


(……すぐには動けないか)


 霊気の反応が急激に増す気配はない。

ならば今は、冷静に動くタイミングを待つべきだ。


(どうやって“引き出すか”……放課後が勝負だね)


 小さく息を吐いて、優斗は教科書を手に取る。

その目はもう、授業どころではなかった。


 ◆ ◆ ◆


 チャイムの音が響く中、麻斗は授業に戻る気になれず、水面にそっと指を浸していた。

広がる波紋をぼんやりと眺めながら、胸の奥にくすぶる違和感をなぞるように。

 そのとき、水面がふわりと揺れた。

広がる波紋の中心――何かが“起きた”と、直感が告げる。


「……!」


 一瞬後、水面にぴたりと現れた“顔”に、麻斗の全神経が反応する。

 水中からゆっくりと浮かび上がったのは、顔の一部に鱗を持つ、異質な少女の姿だった。

その瞳は冷たく、そして明確な敵意を帯びて、麻斗をじっと見上げている。


「……なんなんですか、さっきからアナタは。

 貴方の存在で気分が悪くなるので、出ていってもらえますか?」


 その声は思ったよりも人間に近い。

 けれど、冷たく張り詰めた音が、彼女の感情をはっきりと示していた。

 麻斗の瞳が鋭くなり、口角が上がる。


「おっと……?さっきまで逃げてたのに、出てきたな」


 立ち上がり、彼女と目を合わせる。

 水面に浮かぶその姿は、まるで水の精霊のようにも見えたが――その言葉は明確に“拒絶”だった。


「気分が悪くなるなんて、ひどくね?」


 片手を腰に当てながら、麻斗は小さく笑う。

その目は、戦う準備を整えるようにじっと彼女を捉えていた。


(優斗、あっちから出てきた)


 麻斗は口角を上げながら、優斗にテレパシーを飛ばした。


(たしかに……出てるみたいだね)


 優斗からのテレパシーを受け取りながらも、麻斗は目の前の少女から目を逸らさなかった。

 そのとき、少女が露骨に顔を顰めて、苛立ちを隠そうともせずに言葉を吐く。


「……私はここにいる人間と“契約”してここにいるんです……!それに、貴方はもう、存在がキツいんです!」


 少女は眉を寄せながら、手をシッシッと振って麻斗を追い払うような仕草を見せる。


「は?契約ってなんだよ?」


 麻斗が訝しげに問いかけると、少女はふいと顔を背け、すいーっと水中を滑るように後退していく。

 その距離感に、どこか“逃げ腰”な気配を感じる。


「その人間は『泳げるようになりたい』と言ったので、契約を結び、泳げるようにする代わりに――“対価”をいただいているのです」


 その言葉を聞いた瞬間、麻斗の目の色がわずかに変わる。


「対価って……何を?」


 少女は答えなかった。ただ、ぴしゃりと尾のようなものを水中で振る音だけが、冷たい空気の中に響いた。


「さぁ?教えません」


 少女はそれだけ言い残し、ぽちゃん、と音を立てて水中へと消えていった。

 麻斗はしばらく水面を見つめたまま動かなかった。どこまでも澄んで、何もなかったかのように輝く水面。

 けれど、その下には確かに“何か”がいた。

 脳裏をよぎるのは、柊の言葉。


――「覚えとけ……人ならざるものと契約は絶対するな」


「……うーん、放課後、優斗に相談かな」


 つぶやきながらも、少女以外の怪異の気配は感じられなかった。

 麻斗は渋々立ち上がると、再び響くチャイムを背に授業へと戻っていった。


 ◆ ◆ ◆


「……てことなんだよ」


 放課後の屋上。

 麻斗が、昼にプールで起きた出来事をひと通り優斗に話し終えたところだった。


「てかめちゃくちゃ怒られたわ!ちょっと授業に遅れただけなのにさ!」


 不満げに言いながら、麻斗は優斗のほうを見る。


「“ちょっと”じゃないよ。四時間目終わる頃まで戻ってこなかったじゃん」


 優斗は淡々とそう返しながら、鞄から小さなメモ帳を取り出す。

 そこには、昼休みに感じた霊気のメモと怪異の反応についての走り書きがあった。


「……契約、か。怪異がそういう言い方をするってことは、単なる力の行使じゃなくて、相手に“願い”を叶えてやって、その対価を取ってるってことだね」

「なーんか嫌な響きだよな、対価とか」

「“契約”ってことは、一方的に壊すのもリスクがあるかも。……この学校で“泳げるようになりたい”って言いそうな人、心当たりある?」


 麻斗は頭をかきながら、ちょっと考える。


「うーん……何人か、顔は浮かぶけど……確かめねーとわかんねえな」


 優斗はメモを閉じ、静かに言った。


「明日、昼休みに僕もプールを見る。もし契約した相手がいたら……今のうちに止めておかないと、手遅れになるかもしれない」


 風が吹き、プールのほうから水の匂いがかすかに漂ってくる気がした。


 ◆ ◆ ◆


 翌朝。


「プールね、足を引っ張られるって噂なのよ。

 今年は3年B組の人たちのタイムが下がってて、みんなビビってるんだって」


 麻斗の隣の席のクラスメイトが、またひそひそと話しかけてきた。


「で、麻斗くんは昨日何か見なかったの?」

「見てねーよ、サボってただけ」


 麻斗はヘラリと笑ってごまかしたが、内心では思考が走っていた。


(3年B組……?)


 ふとした違和感と繋がるように、頭の中に昨日の“契約”の話がよみがえる。


(優斗、優斗!3年B組の生徒が足を引っ張られてるって噂……契約者、そこのクラスかも知れねえ)


 すぐに優斗へテレパシーを送る。

 少しの間を置いて、優斗から冷静な声が返ってきた。


(……可能性はあるね。泳ぎが苦手で、それを克服したくて“願った”人間。その願いを、怪異が“契約”という形で叶えてる……)


 麻斗は腕を組んで、机に顎を乗せながら考え込んだ。


(じゃあ、その人間が誰か突き止められりゃ――)

(止められる。けど、本人に“契約を破棄する意思”がないと難しい。一方的に切ろうとすれば、怪異が暴れる可能性がある)

(……マジかよ)


 麻斗の目つきが鋭くなる。


(とりあえず昼休みにでも3年のとこ行くか?)


 麻斗がテレパシーを送ると、すぐに優斗から返事が返ってきた。


(うん。僕も昼にそっち寄るよ。少なくとも“契約者”の見当がつけば、対処できる)

(にしてもさ……泳ぎが上手くなる代わりに何を取られてんのか、気になるよな)

(“泳げるようになる”って単純な願いにしては、リスクの気配が濃すぎる。何か、“見返り”以上のものを持っていかれてるかもしれない)

(だったら余計に止めねーとな)


 麻斗はそう返しながら、プールの方向へ無意識に目を向けた。

 陽の光に照らされて、水面はきらきらと美しく輝いている――けれどその奥で、“なにか”が確かに、今日も蠢いていた。


 ◆ ◆ ◆


 3年B組の教室で、島田香苗はひとり、机に俯いていた。

 毎年、プールの季節が近づくたびに、胃が痛くなるほど憂鬱だった。

 泳げないことでみんなからからかわれ、笑われて――誰にも打ち明けられないまま、何年も過ごしてきた。

 そんなとき、ふと耳に入ったのが“およげるさん”というおまじないだった。

 泳げるようになりたい――それだけだった。

 ほんの、少しの、勇気だった。


「……こんな、はずじゃ……」


 目の前では、クラスメイトたちが騒いでいた。さっき、ひとりがプールで突然溺れて意識を失い、救急車で運ばれたのだ。

 その子は、確かに――タイムが落ちていた。

 以前は、自分よりずっと速く泳げていたはずなのに。


「どうしよう……!」


 島田は机から顔を上げ、唇を噛んだ。

 心臓がドクドクと早鐘を打つ。

 罪悪感、恐怖、不安。

 全部を抱えたまま、彼女は立ち上がると、――そのまま、プールへ向かって歩き出した。

 水の奥から“誰か”が、自分を呼んでいる気がした。


 ◆ ◆ ◆


 昼休み、廊下で優斗を見つけた麻斗はすぐに近寄った。


「優斗、なんかわかった?」


 優斗は本を閉じながら麻斗を見て、うっすらと頷く。


「いくつか気になる生徒の名前は出てきたけど……まだ特定はできてない」

「じゃあ、3年の教室見に行くか」

「うん。“泳ぎたい”って思いが強そうな生徒がいるはず。気配を見れば、契約の痕跡が残ってるかもしれない」


 そう話しながら、2人は3年のクラスが並ぶ校舎の南棟へと足を向ける。

 途中、麻斗がふと周囲を見回しながら呟いた。


「……なんか今日、救急車来てたな」


 優斗の足が止まり、目線が一瞬だけ鋭くなる。


「それ、プールで?」

「らしい。3年の誰か、意識なくなって運ばれたって」

「……間違いない。怪異が契約を拡大しすぎて、限界が来てる」

「つまり――もう時間ねえってことか」


 麻斗は拳を軽く握った。

 3年B組の教室前に立った麻斗と優斗は、中の空気にわずかな異変を感じた。


「……ここ、全体的に空気が重いな」



麻斗がぼそりと呟くと、優斗は教室に足を踏み入れ、静かに霊視を始めた。


「見た目は普通だけど……霊気の流れが乱れてる。特に……ここ」


 優斗がふと、一つの空席に目を止めた。


「この席だけ、霊的な痕跡が強い。“何か”と接触してる可能性が高い」


 麻斗が隣の机に置かれた名札を覗き込む。


「島田香苗……?ここの席の子か」


 すると、近くの生徒が気づいて声をかけてきた。


「あー島田?さっき急に出てったよ。“プール行く”って言ってたけど……」


 その瞬間、麻斗と優斗の視線が合う。


「優斗、行くぞ」

「うん。契約の中心にいるのは、おそらく彼女だ」


 2人は教室を飛び出し、急いでプールへと向かった。

 2人がプールの近くまで来たとき、異様な声が耳に届いた。


「……私を勝手に呼び出しておいて……私は、貴方の願い通りにしたのに。契約を破棄するんですか」


 聞こえたその声には、かすかな怒気と、深い冷たさが滲んでいた。

 優斗と麻斗がプールの隅からそっと覗き込むと、そこには、もはや人の姿ではない怪異の“少女”が立っていた。

 半魚人のような鱗に覆われた腕、長く濡れた髪、そして何より――その身体はすでに、プールの水面をはるかに超える巨躯へと変貌していた。


「……っでも! ちが、私は……!」


 島田香苗が怯えた顔で、必死に何かを訴えようとする。だが少女の目は、憐れみも迷いもなかった。感情はある。ただ、それは人のそれとは別物だ。


「人間の世界でも、そういうのって――“泥棒”っていうんじゃないんですか?」


 少女は静かに言った。


「約束通り、代償の。……貴方の“声”は、いただきます」


 そう言って、少女はぬるりとした鱗の手で島田の喉に手をかけた。

 指が絡みつくように伸びていき――ゆっくりと、締めつけ始める。

 島田の目に、恐怖が浮かんだ。

 その瞬間――プールサイドに、足音が響いた。


「そこまでだ、魚女」


 麻斗の声が、張り詰めた空気を裂いた。


「……なんですか、あなたたちは」


 少女は振り返り、麻斗と優斗にじっと目を向ける。その瞳に宿るのは、怒りでも敵意でもない。ただ、“当然の理”を語る者の冷たさだった。


「こっちの世界に片足突っ込んでるなら、分かるでしょう?“害を出さない”なんて契約には含まれていませんでした。契約破棄の条件も、です。契約は絶対なのです」


 少女はすっと優斗を指差した。


「……我々と契約をしたことがある、貴方なら――契約の重さ、分かるのでは?」


 その言葉に、優斗の目が静かに揺れる。

 脳裏に浮かぶのは、あの夜――九尾の力と意志に触れ、確かに“対等な契約”を交わした瞬間。

 優斗は目を伏せて、小さく息を吐く。


「……確かに、契約は破れない。でも――“対価をどうするか”は、まだ話し合える」


 優斗はゆっくりと顔を上げる。


「彼女は、君に“泳げるようになりたい”と願った。けれど、それは他人を傷つけるための願いじゃなかった。その意志に反して代償を取るなら、それは……“暴走”だ」


 怪異の目がわずかに細くなる。

 麻斗が一歩前に出て、拳を握る。


「詭弁ですね。それなら――その詭弁、力で証明してもらいましょうか?」


 その瞬間、水面が爆ぜるように激しく揺れた。怪異の尾が勢いよく跳ね上がり、空気がねじれるほどの水圧をまとって舞う。

 怒気と理の波が渦を巻き、少女の姿はさらに膨張していく。

 半魚の身体は鱗が逆立ち、鰭は刃のように鋭く、目は完全に“怪異”そのものだった。


「くっ――!」


 怪異の手から放たれた水飛沫が、鋭い槍のように麻斗たちを襲う。麻斗は即座に島田を抱きかかえると、プールサイドを転がって回避した。


「大丈夫か、島田!」


 彼女を安全な場所に滑り込ませると、麻斗は即座に跳ね起きる。靴底が濡れたプールサイドを叩き、滑るように踏み込む。


「ようやくお出ましだもんなああ!!」


 その叫びとともに、拳が爆ぜた。

 退魔の波長を纏った一撃――迷いも、手加減もないストレートを、その巨体へと叩き込む!

 ズドォン――!

 水面が揺れ、衝撃が広がる。

 怪異の身体が仰け反り、水中に大きな渦が巻き起こった。

 島田香苗は、震えるように目を開けた。

 そして、思わず息を呑んだ。目の前で――戦っていた。

 プールサイドでは、1年生の男子が1人、半魚人のような怪物と向かい合っている。

 スライドするように動き、跳び、拳を叩き込む。その拳には、まるで光のような“何か”が揺れていた。

 その傍らでは、もう1人の男子生徒が、指先で空中に文字を描くように術を編み上げていた。その手の動きに合わせて、空気が震え、プールの水がわずかに逆流する。


「……、……!」


 島田は声にならない声で、ただ口をパクパクと動かす。

 この光景は――普通じゃない。

 けれど、自分には見えている。

 あの怪物も、戦う2人の姿も、すべてがはっきりと。


(……私、何を……)


 彼女は気づき始めていた。

 “およげるさん”と交わした“あの約束”の裏に、どれだけのものが潜んでいたかを。

 見たこともない1年生が、化け物と――戦っている。

 しかも、何の迷いもなく。

 まるでそれが“当たり前”であるかのように。


(……ごめんなさい)


 唇が震えながら、島田の目にうっすらと涙が浮かんだ。


「ッ、…!」


押され始めた怪異が悔しそうに息を呑んだ。


「……その人間は、水中でバカにされないことを祈った…!バカにした人間は痛い目を見た……何が悪い…?」


 その声に、島田はハッと目を見開いた。まるで、自分の心の中の声を見透かされたようだった。

 プールサイドで拳を構える麻斗は、怪異の怒りを受けながらも、あっけらかんと言う。


「俺は泳げなかったことないから、正直わかんねーけどな〜」


 場違いなその一言に、優斗が一瞬だけ眉を寄せた。けれど麻斗は、笑いもせずにそのまま言葉を続ける。


「でもさ。泳げなくて悔しくて、なんかにすがりたくなる気持ちは……ちょっとわかる気すんだよな。俺、テストとかマジで無理だし。全然覚えらんねーし、しょっちゅう怒られるし」

「……!」


 怪異の動きが、ぴたりと止まる。

 その瞳がじっと、麻斗に向けられる。


「でもさ、それで他のやつのテストの点が下がるとか……やっぱズルだと思うわ」


 麻斗は振り返る。

 プールサイドの端で、震えるように座っている島田に向かって、まっすぐに。


「泳げるようになりたいなら、自分でなんとかした方が――絶対、かっこいいって!」


 その一言に、怪異の目が見開かれた。

 そして――島田も、思わず、小さく頷いていた。


「……っ……」


 彼女は制服のポケットからノートを引っ張り出し、手が震えながらも、ペンを走らせる。

 何かを、必死に――殴り書くように。


『ごめんなさい、けいやくを なしにしたい』


 ノートを両手で抱えて、島田はそっと、それを怪異に差し出した。

 優斗が一歩前に出て、静かに言葉を投げかけた。


「……契約の再定義だ」


 その声は落ち着いていて、けれど断固としていた。


「彼女は、自分の意思でこの契約を終わらせたいと思っている。それに、“泳げる”って、何を指す? 水に浮くことか?タイムを出すことか?それとも――バカにされないこと?」


 怪異の目がわずかに揺れる。

 その問いに、視線を宙に彷徨わせるように動かす。


「……っ、…ぁ」


 島田が、かすれるような声で喉を震わせた。

まだ言葉にならない。けれど、“声を奪わせない”という意思が、そこにあった。

 怪異はふぅっと小さく息を吐いた。


「……それにしても」


 肩をすくめながら、怪異は言った。


「片方は気分を害するし、片方は我々を酔わせる波長でこちらを乱してくる……本当に、厄介なのです」


 その仕草は、まるで人間の少女のようだった。それは怒りではなく、呆れに似た言葉。

 そこにあったのは、“納得”の気配。

 怪異の身体から、わずかに霊気が抜けていくような気がした。


「待って、気分を害するって……俺のコト!?」


 麻斗が少しショックそうに眉を下げて叫ぶと、怪異はすかさず返す。


「うるさいです。お前は公害です」


 その言葉には、怒りも呆れもない。

 まるで、ちょっとした冗談のように――どこか、柔らかくすらあった。

 プールの水面が静かに揺れ、巨大だった怪異の身体が、ゆっくりと少女の姿へと戻っていく。

 水の気配も、先ほどまでの殺気とは打って変わって穏やかだった。


「……契約は、ここで解除としましょう。声は返します。ただし――」


 怪異の瞳が、まっすぐ島田を捉える。


「二度と、軽々しく“契約”なんてしないでください」


 その言葉に、島田は小さく、けれど深く頷いた。次の瞬間――風が吹き抜けるように、水面がそっと揺れた。

 そして、透明な水音とともに、少女の姿は水へと溶けるように消えていった。


「……っ、声……戻って……る……」


 島田が、かすれるような声で、でもはっきりと呟いた。

 麻斗はぱっと笑顔になって、親指を立てる。


「おー、やったじゃん!」


 優斗も静かに頷きながら、眼鏡の奥の瞳をわずかに細めていた。

 

「確か……1年の双子さん達でしたよね?」


 島田はそう言いながら、目元に伝う涙を指でそっと拭った。


「ありがとう」


 優斗は静かに頷き、麻斗は肩をすくめる。


「こういうの、よくやってるから気にすんなよ」


 麻斗はプールを覗き込みながら、いつもの調子で言う。


「できれば、秘密にしてくれると助かるんだけどな。あんまりバレると、またおっさん(=柊)に怒られんだよなー」


 その言葉に、島田はふっと笑った。


「……1年の双子は、2人とも変わってるって噂だから――意味ないと思うよ」


 麻斗は「マジかよ」と苦笑いしながら、優斗に目をやる。優斗は何も言わず、ただ静かに空を見上げていた。

 プールの水面は、もう何もなかったように静かに揺れている。

 ――それでも、その水底には確かに、ひとつの物語があった。


 ◆ ◆ ◆


 柊神社・社務所の一角。

 畳の上にどさっと腰を下ろした麻斗は、ジュースの缶を開けながら息を吐いた。


 「は~~~、マジで疲れた……泳げるさんとか言ってたけど、あれ完全に水棲系の化け物だったよな」


 向かいの卓で優斗が報告書をまとめながら小さく頷いた。


 「契約に関する構造は典型的だったけど、あそこまで大きくなるタイプは珍しいね。しかもあの子の“願い”の解釈が独特だった」

「まあ……結果的に声戻ってよかったけどさー。俺、水しぶきでびしょ濡れなんだけど?」


 麻斗がぼやいていると、奥の襖がすぅっと開いた。


 「……お前らまた何かやったのか」


 現れたのは、煙草を咥えた柊だった。


 「ほう?“泳げるさん”と契約した女子の声が奪われそうになった?

あー……あの手の契約系は面倒なんだよなぁ」


 柊がどっかりと座りながら、缶ビールを開ける音が鳴る。


「わかっただろ? 人ならざるものとの契約の危うさは」


 柊は煙草をくゆらせながら、煙の向こうでじっと優斗と麻斗を見る。


「そもそも“人語”を使えるからといって、人間と同じ意味を持つとは限らねえんだよ」


 缶ビールを机にコトリと置いて、柊は続ける。


「化け物の考える“泳げる”と、人間の考える“泳げる”は別物だったろ。……解釈のズレってのは、“契約”において最大の罠だ。特にああいう願いを受け止める系の怪異は、言葉通りに叶えちまう」


 優斗は真剣な顔で頷いた。


「うん。彼女は“笑われたくない”って気持ちが先にあって、“泳げるようになりたい”って言葉は、その延長だった。でも怪異には、その前提が伝わらない。感情は、契約には含まれないから」

「っつーか、泳げるようになる代わりに他人の泳力削るとか、反則じゃね?」

麻斗が缶ジュースを振りながら口を尖らせた。

「だから言ったろ?人ならざるものと契約すんなって」


 柊はふっと笑って、煙を吹いた。


「……人間の都合だけで進んだ願いは、怪異にとっても都合のいい入口になる。無意識ってのは、一番えげつない供物だ」


 柊はゆっくりと煙草の火を灰皿に落としながら、静かに言った。


「アイツらは、人間がどうなろうと、死のうと……なんとも思わねえ」


 その声に、麻斗も優斗も、言葉を返せずに黙る。


「あいつらにとっちゃ……俺たちは、せいぜい“虫けら”だ」


 柊は、ソファの背にもたれかかり、ぼんやりと天井を見上げる。


「ハエが“蜘蛛を殺して”って契約したとして、

 蜘蛛を100匹殺したあとで、ハエに“やりすぎだ!”って怒鳴られてもな」


 麻斗が眉をしかめる。


「……“は?”ってなるな、そりゃ」

「そういう感覚なんだよ。アイツらにとっての契約は、理屈と形式だけで成り立ってる。こっちの感情とか、願いの“奥にある想い”なんて……知らねえし、知ろうともしねえ」


 柊はふっと息を吐いて、煙草を揉み消した。


「だから……契約なんてもんに頼っちゃいけねえのさ。いつだって、“欲”は怪異にとって格好の口実になる」


 優斗は静かに、眼鏡の奥の目を伏せた。

 麻斗は、拳をぐっと握って黙り込んでいた。

静かな間が落ちた社務所に、優斗がふと、ぽつりと呟いた。


「……でも、全部が全部、通じないわけじゃない。話が通じた怪異もいた。契約を“対等”に交わせたこともある」


 その言葉に、麻斗がちらりと優斗を見た。

 優斗は視線を落としながら、そっと指先で眼鏡を押し上げる。


「――九尾のときが、そうだった。あのときは、対話が成立した。力を借りて、互いに理解し合えた」


柊は優斗の言葉を聞きながら、火をつけていない煙草をくわえ直した。


「……だからお前の体質は特別なんだよ」


 ぽつりと、抑えた声でそう言った。


「普通の人間がそれをやろうとしても、怪異は“聞いてるふり”しかせん。だけどお前には……怪異の方から耳を傾けちまう。お前の“惹魔の波長”は、それだけ強い」


 柊は優斗の顔をじっと見つめながら、静かに続けた。


「その力は、時に救いになるけど……それだけ“お前自身が”囚われる可能性もあるってこと、忘れるなよ」


 優斗は少しだけ視線を落とし、小さく頷いた。


「……わかってるよ」


 柊はふっと鼻を鳴らすと、ソファにもたれかかりながら呟いた。


「……例えるなら、だがな」


 缶ビールを指先でくるくる回しながら、軽く麻斗を顎で指す。


「麻斗の“退魔の波長”は――酸みてぇなもんだ」

「酸!?」


麻斗が声を上げる。


「気分によっては弱酸性でたいして効かねぇときもあれば、強酸で全部溶かすときもある。そりゃ、術式も結界も嫌がるし……怪異から嫌われんのも、納得だろ」

「ひでぇ言い草!」

「事実だろ」


 柊は苦笑しながら、今度は優斗を見た。


「んで、優斗の“惹魔の波長”は――酒みたいなもんだ」

「……酒?」

「匂いに惹かれて寄ってくる。そばに居れば酔って、判断力が落ちるやつも出る。うっかり依存されたら、もう逃げられねぇってな」


 優斗はほんの少しだけ目を伏せて、静かに息を吐いた。


「……つまり、僕は“飲みすぎ注意”ってことだね」

「そういうこった。お前に絡んでくるやつは、たいてい“自分じゃ酔ってる”自覚ねぇからな」



麻斗が呆れた顔でぼそりと漏らす。


「それもう飲み会の地獄じゃん……」


 柊は最後に缶ビールをひと口飲み、

 空になった缶を机の上にトン、と置いた。


「とにかく。人ならざるものと向き合うなら……“契約”って言葉には、特に慎重になれよ、優斗」


 それだけ言い残すと、柊はひらりと立ち上がって、奥へと姿を消す。  部屋に残った双子は、しばらく無言だった。


「……なあ、優斗」


 麻斗が唐突に口を開く。


「最近命だの契約だよ…ハードなのばっかりだよな!夏休みは解放されてえな…海とか行きたい…」

「僕たちに夏休みはないでしょ……」


 優斗が呆れたように目を細めた。


「いやある!夏休み全部退治依頼なんて無いはず!」

「……嫌な予感しかしない」


 夕方の風が、柊神社の障子をやさしく揺らした──それは、夏の騒がしい予兆だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る