第4話 廃ビルに落ちる霊
「あの廃ビルの噂って知ってる?」「知ってる知ってる!ここで飛び降り自殺して死んだ少女が出てくるらしいよ…」「えぇ、でもあのビルにいった人、何にもなかったって言ってたらしいよ?」「でも夜中、音がするんだって…」
ある場所にぽつん、と古びた廃ビルがあった。
その廃ビルは立ち入り禁止にもかかわらず、真夜中の決まった時間に人の体が地面に叩きつけられるような音がするという。そんな話が人々の間で噂になると、不躾な人間が懐中電灯を持ちながら侵入し上がり込む。
しかし、不躾な人間は、噂の霊を見ることなく落胆したように帰る。その後ろ姿を見送るように、廃ビルの屋上にいる少女が言う。
「私、死んでない」
その声は、届かない。
「私、死んでいたの?」
◆◆◆
麻斗、優斗、柊の、3人はとある廃ビルに来ていた。
「ここの土地の所有者が、早く廃ビルを解体して売りたいのに霊の噂が出て売れないから何とかしてくれ〜と言う依頼ってわけだ」
柊はタバコの煙を宙に漂わせた。
「でもさ、こういうのって大抵、成仏したがってるんじゃなくて、自分が死んだことにも気づいてないケースなんだよなあ」
柊が灰を払うと、パチ、と静かな音が響いた。
「……優斗、感じる?」
麻斗が小声で問いかける。
優斗は黙って廃ビルを見上げ、眼鏡を押し上げた。
「……確かに、波長が途切れている。中に“いる”な」
「…行くぞ」
3人が足を踏み入れた途端、空気が変わった。冷たい風、何かに見られているような感覚。
コンクリートの階段を登るたび、足音とは別に、コツン、コツンと一定の間隔で響く音が背後からついてくる。
屋上へとたどり着いたとき、柊がぽつりとつぶやく。
「いたな、あそこだ。……ああ、まだ気づいてないんだな、自分のこと」
そこには、制服姿のまま屋上の柵に手をかけ、空を見上げる少女の姿があった。
「私……ねえ、誰か……わたし、どうすればいいの……?」
柊が目を細めた。
「いたな、幽霊」
柊が淡々と、言う。しかし、幽霊とは言え、何も悪くない少女を祓うのは、麻斗としてはあまり気が進まなかった。感情によって出力に幅のある退魔の波長は、麻斗の気持ちに呼応してあまりうまく練れない。
「ま、仕方ないか…」
麻斗がそう言って一歩、踏み出した途端だった。
少女の身体物理法則を無視して、まるで無理やり引っ張られるように柵をすり抜けて、屋上から落下していく。
そして、ゴツンと音が聞こえた。
「は…?おい!」
麻斗が柵に駆け寄るって下を見ると、少女の姿はなかった。
「ここだよ」
麻斗が振り返ると、少女の霊が立っていた。当たり前だが、その体は傷一つない。そして、麻斗がふと浮かんだ疑問。
「幽霊なのになんでぶつかる音がしてるんだ?」
「わからないよ…私が落ちるときに鳴るの」
少女はぽつりとつぶやいた。まるでそれが、自分にもどうしようもない“呪い”であるかのように。
「毎晩、同じ時間に落ちるの。やりたくなくても、気がついたら、落ちてる」
「止められないのか?」
麻斗が眉をひそめる。少女は小さく首を振った。
「気づいたら、もう下にいるの。でも……本当に、私、死んでるのかな。ねえ、お兄ちゃんたち、私、どうなってるの?」
その問いに答えられる者はいなかった。
「……優斗」
麻斗が視線だけで兄に問いかける。
「魂が……ズレてる。死んでるようで、死んでない。“死ぬ瞬間”だけを繰り返してる。いわば……終われないバグみたいなもんだ」
「……最悪じゃん」
麻斗は少女を見たら、少女は笑っていた。
「怖くないよ、慣れちゃったから」
その笑顔が、麻斗には一番怖かった。
その間、じっと黙っていた柊が口を開いた。
「この廃ビル、術式の気配がするな…1、2…それ以上か…この霊が落ちる時と、落ちた瞬間に音が鳴る時で少なくとも2つ術式が発動した」
「術式……?」
麻斗が眉をひそめた。
「その“音”と“落下”は、ただの霊的現象じゃない。誰かが術でこのビルに残した“型”……まるで、お前をループさせるための装置みたいだ」
柊はしゃがみ込み、床に手をつけた。すっと指を這わせて、灰のような埃をすくい上げる。
「……この灰、線香じゃない。これは“符の燃えカス”だな。夜に合わせて術が起動するように組まれてる。完全に誰かが仕組んだもんだ」
「じゃあ、この子は……」
優斗が小さく息をのむ。
「そうだな」
柊が立ち上がり、少女を見た。
「この子は、自殺したんじゃない。させられてるんだ」
少女の目が、わずかに見開かれる。記憶の底に、何かが波紋のように揺れる。
「……わたし……誰かに……」
その瞬間、ビル全体がギシリ、と低く唸った。
「っ……!また術式が起動するぞ!」
柊が叫ぶと同時に、空間が歪むような嫌な気配が廊下の奥から漂ってくる。
「ねえ、教えて、みんな私のこと見えてるの?」
「みんな見えないって言って帰っていくの」
少女の虚ろな瞳は絶望に染まりきっていた。
「私は誰?私の家族の顔はどんな人?思い出は?辛かったことや楽しかったことや悲しかったことも全部思い出せないの」
少女は優斗に、まるで花に吸い寄せられる蝶のようにふらりと近寄った。
「何も分からないの…たすけて…」
少女が優斗の前に立ち止まる。けれどその目は、彼を見ているようで見ていない。自分自身の内側に、沈んでいくようだった。
優斗はしばらく黙って彼女を見つめていたが、そっと言葉を紡ぐ。
「……君の存在は、確かに“ここ”にある。少なくとも今、僕らには見えている。声も、届いてる」
少女の肩が、小さく揺れた。
「名前も、記憶もなくて……誰にも気づかれずに、落ち続けて……君は今、“人間”であることさえ、壊されかけている。でも、それは君が“消えていい”理由にはならない」
「……でも、私は……本当に、生きてたのかな……?」
その問いは誰に向けたものでもなく、ただ夜の空気に溶けていくようだった。
「優斗」
麻斗が低く呼びかける。
「この子の魂、まだ“死後”に行ってない。完全に壊れる前に、何か手がかりを見つけないとマジでやばい」
柊は懐からくしゃくしゃの煙草を取り出しながら、苦い顔で言った。
「術式を張ったやつが、この子の記憶を封じて、霊として固定した。それもかなり強引にな……この子の名前も、思い出も、全部“鍵”の中だ」
「鍵……?」
優斗が振り向く。
「ああ」柊が煙草に火をつける。
「つまり、“この子が誰だったか”が鍵だろう。そんで術式も壊さないといけねえな」
柊が目を細めた。
「えっと、じゃあ女の子を落とす術式と、音が鳴る術式、んで女の子の記憶を奪う術式最低この3つの術式があるってことだな?」
麻斗の声はすでに怒りを孕んでいた。
「その通りだ」
柊は煙草を吸い込み、煙を吐き出すと静かに続けた。
「そして、それらの術式が連動して、このビルの中で少女を“繰り返し落とす”ことを目的としている。お前の言う通り、このビルの周囲には少なくとも三つ、いや、もっと隠れた術式が埋め込まれている」
麻斗は顔をしかめ、拳を握った。
「だから、ってわけか……?この子がただ死ぬまで、繰り返し、繰り返し、落ち続ける。誰も彼女の存在を気にかけないまま、泣き叫びながら?」
その声に、かすかな震えが混じった。
優斗が静かに、麻斗の肩に手を置く。
「今は、冷静に考えよう。感情的になれば、術式に引き寄せられるだけだ」
しかし、麻斗の怒りは収まらなかった。
「冷静になんてできるわけねえだろ! あの子はただ、記憶も何もかも奪われて、ただ一人で放置されてるだけなんだぞ! 誰かが何かをしている、それを見逃せねえよ!」
その瞬間、ビルの中で不気味に音が鳴り響いた。
「また、か……」
柊が鋭い目で周囲を見回す。
「これ以上何か動きがあれば、俺が術式の元をつぶすしかない」
優斗が思案した後、深いため息をついた。
「僕たちが動けば、また状況が悪化するかもしれない。けど、もう一度少女に直接話してみる。記憶を取り戻す手がかりがあるかもしれないから」
その言葉に、麻斗は一瞬だけ静かになった。
「俺はこの廃ビルを調べて術式がないか探してくるぜ」
柊が言うと、麻斗は頷いた。
「俺は術式とか全然わかんねーから優斗とこの女の子についとくわ…気をつけろよ、柊のおっさん」
麻斗が軽口を飛ばすと、柊はふっと笑って手をひらひらさせた。
「任せとけ。術式潰すのは得意なんだよ。……お前ら、変なの出たら即叫べよ」
煙草の火を指先で弾き消すと、柊は階段の奥へと姿を消していった。
廃ビルの屋上に残された優斗と麻斗、そして少女。
少女は麻斗を見つめていた。怯えるでもなく、ただ“存在している”という重さだけがそこにあった。
「君さ、」
優斗はぽつりと話しかける。
「本当は、覚えてたりしないかな?……一番大事なことだけ、なんとなく」
少女は黙ったまま、首を小さく横に振る。
「……覚えてるなら、どれだけよかったか。でも、怖いの。思い出すのが。だって――思い出したとき、私、本当に“死んだ”って気づくかもしれなくて、」
麻斗は少しだけ目を細めた。
「そんなこと、させねえよ…!」
少女の目が少しだけ揺れる。
「……優しいね」
「いや、俺は怒ってんだよ。こんなクソみてえな術仕込んだやつがさ、許せねえんだよ」
麻斗は拳をぎゅっと握る。
「だから、全部ぶっ壊してやる。お前が落ちなくてもいいように。――そんだけ」
少女の目に、ぽつりと涙が浮かぶ。けれどそれはすぐに消えて、彼女は小さくうなずいた。
その瞬間――
「……ッ!」
麻斗の背筋がゾクリとする。空気が一瞬だけ重たくなった。
少女が、うつむいて呟いた。
「……だめ、来る。わたし……また、落ちる――!」
(優斗……なんか、なんかできないか!?)
麻斗の必死の思念が、双子の間を走った。優斗は目を細めて急いで辺りを見渡す。
屋上に鳴り始める“空気の歪み”――まるで見えない手が少女をまた柵の外に引っ張ろうとしている。少女の足が浮く。宙に引き上げられるように。
(……っ、クソ!)
麻斗が手を伸ばす――が、届かない。
その瞬間。
(見えた……麻斗、そいつの足元!)
優斗の思念が返ってくる。
(足元にうっすら浮かんでる、“紙”だ。符じゃない。あれは“記録式”……記憶を回収する術式だ!)
「はぁ!?そんなのどこに――」
(真下だ!少女の足が浮くと同時に起動してる!“落ちる”こと自体が術式の一部……記憶を落下と同時に削ってるんだよ!)
優斗のテレパシーに麻斗の目が地面に走る。微かに、薄紙のようなものが少女の足の影の中で歪んでいた。
(“落とす”んじゃねぇ……“削ってる”のか)
麻斗が唇を噛む。
(優斗、やるしかねぇな……!)
(ああ――やってくれ、麻斗。お前の“波長”でその式、破壊しろ!)
「退魔の波長、展開ッ……!」
麻斗の体から、鋭い“圧”のようなものが解き放たれる。一瞬で空気が震え、少女の足元の紙片のような術式がビキビキと罅割れた。
「ッ、喰らえッ!!!」
麻斗が拳を叩き込むように、空中に波長を解き放つ。退魔の波長は怪異や霊を祓う以外にも、霊気で構成された術式の構成要素――“神性”や“記憶”という、非物質的な部分にも直接干渉する。
一瞬の沈黙の後、少女の体がふわりと元に戻った。
落ちない。
崩れ落ちるように、その場にしゃがみ込む少女。
「は、…よかったな」
麻斗が呼吸を整えながら少女に笑いかけると、少女は、しゃがみ込んだまま、ぽかんと麻斗を見上げていた。
その目には、ほんの少しだけ光が戻っている。
「……うん」
小さく、震える声で少女が答えた。
「落ちなくて済んだ」
ぽつりと、嬉しそうな、でも泣きそうな笑顔を浮かべる。
麻斗はその表情を見て、ふっと息をついた。
「は、……よかったな」
言いながら、膝に手をついて大きく息を吐く。
「なーんか知らねぇけど、無茶苦茶疲れるんだよな、こういうの」
苦笑しながらも、どこか誇らしげに笑ってみせる。少女がそっと麻斗の袖をつまむ。
「ありがとう、名前も……思い出せないのに、名前呼んでくれてるみたいだった」
「名前、思い出せたらまた教えてくれよ」
麻斗がそう言うと、少女はこくんと頷いた。
その瞬間、スマホに連絡が来て、でてみれば柊だった。
『おーい、お前ら大丈夫か?』
『おう、今術一個見つけて潰したとこだ』
『そうか…こっちはちょっと面倒くさいもんを見つけちまったぞ。……どうやら、まだ終わりじゃねぇ。いったん来い』
麻斗は眉をひそめ、優斗に視線を送る。
「また面倒なの来たな」
優斗は頷く。
「予想通りだ。術式の根はまだ残ってる――こっちも急ぐぞ」
少女の頭を優しく撫でてから、麻斗は立ち上がった。
「……ちゃんと、終わらせてやっからな」
麻斗と優斗が柊のもとに向おうとした時だった。
「待って! 行かないで!! 私……怖いよ…!」
少女の声は震えていた。
麻斗と優斗が背を向けたその瞬間、不意に少女の手が優斗の制服の裾を掴んでいた。
優斗は驚いて振り返る。少女の顔は真っ青で、唇がわなわなと震えている。
けれど、優斗と目が合った瞬間――その手は、そっと離された。
「……ち、ちがうの……ちがう……」
少女はうわ言のように繰り返す。手のひらを見つめながら、足元をよろめくように後退した。
「……私、誰かを……」
少女の声がかすれる。
優斗が、そっとその肩に手を添えた。
「……“思い出しそう”なんだな」
少女は小さく頷く。
「怖いの、思い出したくないのに……思い出さないといけない気がして……でも、きっと、それが一番……つらいことなんだって……」
麻斗が小さく舌打ちした。
「……クソ、どんだけひでえ術式組んでんだよ。忘れさせて、思い出させて、また消して……」
少女の手が、ぎゅっと胸元を握る。
「……優斗くん、麻斗くん……行かないで……でも、お願い、私のこと……ちゃんと終わらせて……」
優斗は、少女の目をしっかりと見たまま、真っ直ぐに頷いた。
「必ず。君をここから出す。それが俺たちの仕事だ」
麻斗も拳を握り直す。
「だからもう一回だけ、ちょっとだけ、頑張って待っててくれよ」
少女は、涙をこらえるように、精一杯の笑顔を作った。
「……うん……」
そして双子は、階段を駆けて柊のいる下の階へと向かっていく――少女の記憶の奥にある“本当の真実”と、“術式の核”を暴くために。
優斗と麻斗が柊の元にたどり着くと、ペンライトを口に咥えて、壁に書かれた術式を紙に書き込んでいる柊の姿だった。
「来たか坊主共。この術式は初めて見たが…推測すると、おそらく、魂が成仏した時に発生するエネルギーを回収する術式だ」
柊は紙を折りたたんでポケットに直すと、ペンライトを片手に持った。
「つまり?」
麻斗が尋ねると、柊が腰に手を当てた。
「恐らく…あの霊はまだ、死んでない」
麻斗が目を見開くと、柊は話を続けた。
「生きたまま身体と霊体を分離させる術式、記憶を消す術式、女の子を落とす術式、音が鳴る術式が見つかったわけだ」
柊が目を閉じて、湧き出る感情を逃がすようにふうっと息を吐いた。
「生きてる人間の魂を剥ぎ取って、記憶を消して…本当はまだ死んでないのに、死んだのだと錯覚させることで肉体は生きたまま魂だけ成仏させ、そのエネルギーを回収するためのビルだったんだ」
柊が、優斗と麻斗に説明するように口を開けた。
「魂の成仏ってのはな、本人の納得と、それに伴うエネルギーの放出で起きるんだ。逆に言えば――納得“したつもり”でもエネルギーは出る」
柊はビルの壁を軽く叩く。
「ここの術式は、その“つもり”を作るために組まれてる。肉体はどこかに眠らされてて、魂だけ切り離されてこの屋上にループさせてんだ」
「……つまり、あの子は今もどっかで“生きてる”ってことかよ」
麻斗の声がわずかに震える。
「ああ。だが――麻斗、お前が波長をぶつけたことで、記憶のフタがこじ開けられた。おかげで、術式が崩れかけてるようだ」
優斗が腕を組む。
「術式の崩壊はまずい。仕組みの大元を見つけないと、あの子の魂が中途半端な状態で引き裂かれる」
「だろ?だから俺が今追ってるのが“中枢”……このビルに散らばった術式を繋いでるコアが、どこかにあるはずなんだよ」
柊が口元でペンライトを咥え直すと、優斗が静かに問いかけた。
「そのコアを壊せば、少女は元の身体に戻れる可能性がある?」
「条件次第だが、可能性はある。問題は、“誰がこれを仕組んだか”だな」
柊が懐から一枚の、焦げた紙片を取り出す。
そこには、僅かにだが名前のような文字列が残っていた。優斗がそれを目を凝らして読む。
「……“葵”……?」
麻斗の表情が動く。
「……あの子の、名前か?」
「あるいは術者の名かもな」
柊が唇を歪めるように笑う。
「どちらにせよ、確かめなきゃな――地下一階の封鎖された空間が、やけに臭うぜ」
麻斗は柊の話を黙って聞き、俯いたまま、拳を握りしめた。震える手が、感情の激しさを隠しきれていない。
(……優斗……)
無意識のうちに、怒りと憤りの念が優斗にテレパシーで流れ込んで、優斗は一瞬、眉をしかめた。
重く鋭い“何か”が、麻斗の中で煮えたぎっているのが分かる。
(ああ……これは、“許せない”って感情だ)
麻斗の脳裏には、何度も屋上から落下していく少女の姿がこびりついていた。
助けを求める声もなく、無音で――ただ落ちていく。その繰り返し。
忘れることを強いられて、忘れられることに怯えながら、誰にも見られず、気づかれず。
(現実じゃ人を殺せないから、魂をバラして“殺すフリ”してんだろ……クソが)
(忘れさせて、気づかれないようにして、“なかったこと”にしてんじゃねぇよ……ッ!!)
麻斗の中に、退魔の波長が微かに滲む。
強い怒りに呼応するように、空気がビリ、と震えるような感覚。
柊がそれに気づいたのか、視線を向けたが、あえて口に出さない。優斗はそっと麻斗の肩に手を置く。
無言で、ただ我が身の片割れの、その怒りの熱を受け止めるように。
「麻斗」
優斗の声が静かに落ちる。
「……だから、終わらせよう。絶対に」
麻斗はその手を振り払わず、深く、深く息を吐いた。
「……ああ、わかってる。やるしかねぇんだ」
その声には、怒りと決意と、何よりも“人としてのまっすぐさ”が滲んでいた。
3人は急いで廃ビルの地下へ向かう。
地下に降りると、そこには本棚や机があり、机の上には雑多な資料の山と、壁には幾つかの術式が書かれていた。
「ここか」
麻斗は呟いた。ふと、麻斗の目にとまった書類の一つを見るとそこには、
"噂は広まることでより幽霊であるとの自覚がみられる"
"あえて立ち入り禁止とし、野次馬たちが実際には容易に侵入できるようにすることで、少女に幽霊であるとの自覚を持たせる"
などと書かれていた。
「こんな……ふざけた研究……!」
麻斗の拳から放たれる退魔の波長が、書かれた術式にじわじわと干渉していく。
チリチリと、まるで焼け焦げるような音。術式のインクが滲み、霊的な糸がほどけていく。
優斗がすぐ隣に近寄り、残された資料を手早く読み込んでいく。
「……術式の構成要素、補助印、条件……全部記録されてる。おそらくこれ、“研究用”に組んだ実験施設だ」
優斗の手が止まる。
「この子ひとりじゃない。複数人……過去にも対象がいた可能性がある」
「ふざけんな……!」
麻斗の退魔の波長がさらに膨らみ、壁の一部がバチン、と音を立てて爆ぜた。
柊が少し遅れて地下に入り、残った壁の術式を見るなり眉をしかめた。
「……これは陰陽連の中でも、禁術指定されてる“魂の誘導式”……しかも強制型だ。かなり深い筋が動いてるかもな」
柊の顔から、いつもの飄々とした笑みが消えていた。
「なあ、柊」
麻斗が奥歯を噛みながら言う。
「この術式の核――ぶっ壊したら、全部終わらせられるのか?」
「終わらせられる。ただし……その瞬間に、魂と肉体の間にある“隙間”が一気に塞がる。つまり、あの子が戻るチャンスは一度きりだ」
柊が真剣な目で麻斗を見た。
「その時、ちゃんと“名前”を呼んでやれ。魂を引き戻すには、“自分が誰だったか”を思い出させる必要がある」
優斗が隣でポケットから少女が屋上で書き残した落書きのような紙片を取り出す。
そこに書かれていた、たったひとつの文字――
「“葵”。たぶん、これが鍵だ」
柊が頷き、術式の中枢を示す魔法陣の中心に指を向け、術式を解除すべく式を展開する。
「準備しろ。全部終わらせる時だ」
その時、カツン、と足音がした。
「困りますねぇ!勝手に術式を弄ってもらっては!画期的な発明なのに!」
男の声がする。3人が振り向くと白衣を着た男の姿。白衣の胸元には逆さの三日月が浮かんでいた。
「引き戻すだなんて…お前たちはあの女の子ののことを知っているのか?」
男が囁くように、説き伏せるように、静かに言う。
「その子は生まれつき盲目だ。見えないなんて苦しい、寂しいと言っていたから魂の状態にしてやったのさ」
男は、大きく笑って手を広げた
「ご希望どおり!屋上の景色を毎日見れてさぞよかったことだろうね!だーいすきなお母さんの顔は見えなかったけどねえ!」
麻斗怒りでの退魔の波長が爆発し、麻斗は拳を男に振るうが、男は拳を受け止めた。
「退魔の波長なんて無駄だ、正真正銘人間だよ?私は」
麻斗の拳は震え、顔は怒りに歪む。
「お前はそれで女の子のためでしたっていうのかよ!」
麻斗が叫ぶと、男は高笑いした。
「世の中に慈善事業なんて無いんだよガキ!私は新しい術式を試す、彼女は見える世界を見れる、そういうことさ!」
男に押され、弾かれたように距離を取った麻斗は男を睨みつける。
「……ふざけんな」
麻斗の声は低く、押し殺された怒りが滲んでいた。
「見たかった“景色”ってのはな……!こんな風に何も分からないまま、毎日落ちてく景色じゃねぇんだよ!」
男がニヤニヤと笑うその顔に向かって、麻斗はもう一発拳を放つ。
男はまた受け止めようとした――が。
「無駄だって言っただろ?」
――その瞬間、男の腕がビリ、と震えた。
優斗が呪文を唱えて、弟の拳に呪力をのせる。
「お前は人間かもしれない。でも、やってることは人間じゃねぇ!」
男が苦悶の表情を浮かべ、麻斗の拳が炸裂した。壁際まで吹き飛んだ男が咳き込みながら笑う。
「クク……クハッ……やるねぇ……!でも遅いよ。術式はもう起動してる。あの子の魂は“今夜”成仏する。戻る道は閉じられるんだ」
優斗が資料をすばやく拾い上げ、術式の再構築ルートを読み取っていた。
「……まだだ。やれる手はある。麻斗」
優斗が麻斗に目を向ける。
「“葵”を呼べ。お前の声で、あの子に“帰る理由”を思い出させろ」
柊も頷く。
「この術式は“自覚”と“名前”が揃えば、魂は戻れる。急げ、“鍵”はお前たちにしか開けられねぇ」
麻斗は拳を下ろし、歯を食いしばった。
そして――
「葵!!」
地下に、響き渡るような声が放たれた。
声という音は地下から屋上に聞こえることはない。しかし、怒りと願いで放たれた麻斗の退魔の波長は、増幅し、そして無意識に、女の子の霊を祓わずに、魂だけを撫でる。
「麻斗くん…?優斗くん…?」
その声は――確かに、彼女の“内側”に届いた。屋上の風が止まったように静まり、
落ちる寸前の時間が、不自然に引き延ばされた。
「感じる……」
少女――葵は、柵の外に半身を預けたまま、空を見つめていた。けれど、今までのような恐怖はなかった。
「麻斗くん……優斗くん……なんで……」
涙が頬を伝う。
「私の名前、言ってくれた……?」
記憶という霧が、少しずつ、晴れていく。
――放課後の帰り道、
――誰かに渡されたハンカチ、
――温かい手、
――見えなくても伝わる“優しさ”。
優斗と麻斗と話した、あの瞬間も、くっきりと彼女の中に刻まれていた。
「そうだ……私、知ってる……。あの二人、私を呼んでくれた。私を、“見て”くれた……!」
涙が止まらない。
魂が震える。
屋上に、もう風は吹いていなかった。
「戻らなきゃ……。帰らなきゃ……!」
葵の霊体が、微かに光を帯びはじめる――
揺らぐように、ゆっくりと。
その時、地下にいる麻斗の胸の中にも、ほんのりと温かさが広がった――繋がった、と、確かに感じた。
白衣の男は追い詰められ、咳き込みながらも笑いながら麻斗を挑発的する。
「バカかお前は!ここは地下室だぞ!声が屋上まで届くわけがないだろう!?」
麻斗は白衣の男を睨みつけたまま、静かに、しかし怒りを押し殺した声で呟いた。
「声じゃねぇよ。魂に届いたんだよ」
その言葉を聞いた男の笑みが、一瞬だけ引きつった。麻斗はさらに一歩、踏み出す。
「お前にはわかんねぇだろうけどな――あの子と繋がったんだ。あの子は、俺の波長を感じて“思い出した”んだよ。自分が誰かって、ちゃんとここに帰る場所があるって!」
その瞬間、ビルの中に柔らかな風のような気配が満ちる。地下の壁に刻まれていた術式の文字が、じわじわとにじみ、まるで燃えるように光り始めた。
「……! こ、これは……」
白衣の男が一歩後退した。
優斗が資料を見つめながら、冷静に言い放つ。
「術式が崩壊を始めた。魂の“帰還”がトリガーだったんだな。……これで魂の回収はもう不可能だ」
柊がニヤリと笑った。
「せっかくの画期的発明とやらがパァだな?なぁ“人間”さんよぉ」
男は言葉を失い、歯ぎしりしながら睨みつけるも、その視線の先――術式の中央に置かれた水晶球がパリン、と音を立てて砕けた。
同時に――屋上から、ほんの微かな、けれど確かに温かな“気配”が、地下へ流れ込んでくる。
それはまるで、
「ありがとう」
と、風に溶けた少女の声のようだった。
「クッ…!」
男は懐から呪符を出すと、呪符が燃え、白衣の男の身体は煙となって消えた。
術式の解除をしていた柊が顔を上げ舌打ちをした。
「逃げやがったか……くそっ、結界でも張っておくべきだったな」
麻斗はまだ震える拳を握ったまま、白衣の男がいた空間を睨んでいた。残されたのは、焦げた呪符の燃えカスと、男が笑った声の残滓だけ。
優斗が壁に残る術式を一瞥し、眼鏡を押し上げる
「完全に痕跡を消したつもりか……でも無駄だ。ここまでの術式、全部記録した。逃げても無駄」
柊も頷きながらはペンライトをしまい、立ち上がるとたばこの箱を取り出し、の煙草を吸うふりをして――麻斗の目に気づいて煙草を止めた。
「……坊主、お前の退魔の波長、見事だったぞ。あれは祓うためじゃない、救うための力だったな」
麻斗はうつむいたまま、小さく呟く。
「……当たり前だろ。俺は、あんな……あんなの、二度と見たくねぇんだよ……!」
沈黙が地下室を包む。
ふと、上階から微かな風の流れと共に葵の声が再び降ってきた。
「……麻斗くん、優斗くん、柊さん……ありがとう」
その声は、どこかほっとしたように、少しだけ笑っていた。
――少女の魂は、戻る場所を思い出した。
――彼女の“生”は、まだ終わっていなかったのだから。
◆◆◆
葵の世界は物心ついたときから真っ黒だった。そんないつもの世界。身を起こしても何も見えることはない、生まれつきの景色。
屋上の景色はもう見えない。でも、
「葵…?葵!目が覚めたのね」
「お母さん」
お母さんの…間違いなくお母さんの声がして、ふわりと身体があったかくなって、お母さんの温もりと、お母さんの匂いがふわりとした。葵はその温もりに包まれたまま、ぽつりと呟いた。
「……ごめんね、ずっと、怖かった……」
その言葉に、お母さんはぎゅっと抱きしめる腕の力を強めた。
「もういいの、もう大丈夫よ。あなたが生きてて、本当に……ありがとう……!」
涙交じりの声。
葵の瞳からも、自然と涙がこぼれていた。景色は相変わらず何も見えない。けれど、その中で――
(……白い光が、見えた気がした)
頭の奥に残っていたのは、あの廃ビルの屋上で見た空の気配、誰かが名前を呼んだ声、手を取ってくれた確かな感触。
「……麻斗くん、優斗くん……ありがとう」
その名を口にするだけで、心がほんのりとあたたかくなる。そのぬくもりは、暗闇をほんの少しだけ、やわらかく照らしていた。
◆◆◆
柊は肩をすくめて、ポケットからくしゃくしゃのタバコの箱を取り出しながら言った。
「やれやれ、俺もこんなに汗かいたのは久しぶりだ。…ま、煙草は我慢しとくか。お前らの前だしな」
優斗は静かに目を閉じて頷く。
「でも、まだ終わってない。術式を作ったやつは逃げた。つまり、また同じようなことが……」
「起きるかもしれないってことか」
麻斗がぽつりと返し、拳をぐっと握った。
「見つけて、ぶっ飛ばさねぇとな……あいつだけは」
疲労がにじむ声の中に、確かな怒りと、決意が宿っていた。
葵を救えたことは確かに救いだ。だけど――これは、始まりにすぎないのかもしれない。
柊はそんな麻斗の様子を見て、にやりと笑った。
「坊主、ちょっとは頼もしくなったじゃねぇか。ま、おじさんは次の依頼が来るまで昼寝でもしてるけどな」
「おい」
麻斗が疲れ切った顔でそういった。
◆◆◆
とある広い洋館の一室。
白衣の男はうずくまったまま、顔を歪めて笑う。
「実験は失敗しましたが…より良い発見がありました…!」
目の前には、胸の部分に逆さ三日月のマークのある黒いローブの男と、そして液晶画面に映るのは、暗い部屋の中でも逆さ三日月のネックレスが光る黒いドレスの女。
「ふん……本来なら、もう少し実験を重ねるつもりだったが……奴らが動いた。ならば、それもまた“材料”として使わせてもらおう」
黒ローブの男は沈黙のまま、指を一振りすると、白衣の男の背後に黒い影が蠢く。
「惹魔の波長を持つ少年――日吉優斗」
黒ローブの男が、静かにその名を口にする。
「“神の器”としての適性、魂の強度、そして霊的集束率……申し分ない。あとは、どうやって“彼”を黒月の祭壇へ導くか、だ」
白衣の男が口元を拭いながら立ち上がる。
「祭壇なら既に準備は整っている。“彼”のような存在が自ら足を踏み入れたくなるような場所も……な」
「ならば、始めよう。黒月の月が満ちる、その夜に――現世に裁きを」
二人の周囲に刻まれた魔法陣が静かに輝き、黒い月が空虚に笑った。
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