第3話 春風の声と、忘れられた小さな足跡

 風に乗った桜の花びらが、校庭に舞い降りる。優斗と麻斗は、高校に進学してもやっぱり別のクラスだった。

 けれど、


(こっちの担任最悪だわ〜!口うるさそうっぽいおっさん!)


 麻斗は優斗にテレパシーを送る。生まれつき優斗と麻斗の間で交わすことのできる念話は、遠くにいてもまるで近くで話しているかのように会話することができる。


(こんな感じの顔!)


 頭で強くイメージすれば映像も送ることができる。麻斗は目の前にいる中年太りしたいかつい担任の顔を強く念じて優斗に送った。


(……ぷっ)


 優斗の肩がぴくりと震えた。教科書をめくる手を止めずにいるが、その目は明らかに笑いをこらえている。


(ちょっと麻斗、授業始まったばかりだよ。真面目に聞きなよ)


 返ってきたテレパシーの声は、やっぱりいつもの優斗の声。落ち着いてて、でもどこか呆れてる感じがする。


(無理だって!おっさんの声、拡声器みたいなんだぞ!?あとプリント配るとき、息めっちゃかかってきたし!俺、いま結構な修行してると思う!)

(修行は陰陽術の方にしなよ…)


 思わず笑ってしまいそうになる優斗だったが、咳払い一つで何とかやり過ごす。前の席の女子が怪訝そうに振り返ったので、慌てて教科書に視線を戻した。


(で、優斗のクラスの担任はどうなんだ?美人?若い?それとも…ババァ?)


(そういう発言はやめなさいって何度言えば……でも、うちの担任は若い男の先生。たぶん僕たちと年が近いんじゃないかな)


(うわーそっち当たりじゃん!交換してくれ!!てかさ、俺のとこだけ外れとかさぁ…ズルくね!?)

(くじ引きじゃないんだから…)


 優斗は微かに笑いながら、窓の外に舞う桜の花びらを見つめた。心の中では、離れていてもこうして麻斗の声が聞こえてくるのが、少し嬉しくて――


(ねえ、麻斗。高校生活、うまくやっていけそう?)

(さあなー…でも、お前がいるから大丈夫だろ?)


 そんな言葉がふっと流れてきて、優斗はそっと頬を緩めた。

 優斗と麻斗は物心ついてから小学校、中学校…と場所が変わっても、ずっと変わらずテレパシーを使ってこんな風に会話しているが、それでもなお常に成績トップクラスを維持する優斗は化け物だ、と麻斗は思っている。テレパシーを悪用して笑かしたり邪魔しているにもかかわらず、だ。こんな風に。


 (優斗!うちの担任、カツラだったりして!)


 テレパシーで麻斗のクラス担任の髪がカツラで、飛んでいくイメージを送った。


(……ッ)


 優斗のペンが一瞬、止まる。


(麻斗…やめなよ、本当に…!)


 静かにたしなめる声が頭の中に響くが、その声の裏で必死に笑いをこらえている気配が漏れてくるのは、さすが双子。誤魔化せるわけがない。


(今のイメージどうよ!?俺はイメージするプロだよプロ!)

(プロとかじゃないからねそれ…)


 目を伏せて咳払いを装う優斗。ノートに真面目そうな文字を並べつつ、耳までほんのり赤い。


(ていうか、お前が変な妄想送ってくるせいで授業内容全然入ってこないんだけど)

(いやいや、そんなんで崩れないのが優斗のバケモンっぷりだろ?俺なんて集中力5秒持てば奇跡よ。むしろ妨害されてるのにトップ取ってるお前がおかしい)

(ありがたくない褒め方だなぁ…)


 優斗はため息をつきつつも、どこか楽しそうだった。桜が舞う春の教室。違うクラス、違う授業。けれど心の距離だけは、いつだって隣だった。


(…でもさ、そんな優斗だからこそ、俺は好きなんだけどな)


 ふいに投げられた麻斗の言葉に、優斗は不意を突かれてまたペンが止まった。


(……何、今の)

(えっ、なんか言ったっけ俺?)

(…後で覚えてろよ)

(うお、こわっ!兄貴モード入った!?やだやだやだ優斗怖い〜!)


 その瞬間。ふ、と――教室の空気がわずかに冷たくなった気がした。


「……」


 優斗はペンを握る手を止めると、微かに眉を寄せた。背筋に走る寒気。それは季節の変わり目の風の冷たさではない。

 もっとこう…皮膚の内側からじわじわと滲み出すような、嫌な気配。


(優斗…わかったか?)


 脳裏に届いた麻斗の声に、静かに目線だけを窓際へ向ける。校庭には、まだ風に舞う桜の花びらがちらちらと舞っていた。が、その合間を、まるで煙のような、けれど獣のように蠢く黒い影が一瞬、横切った。


(……見えた。四つ足、だったな)


 テレパシーで返すと、すぐに麻斗の気配が鋭くなるのが分かる。ふざけてばかりの彼が、真面目な時――それは怪異や霊が絡むときだ。


(あれ、俺らに気づいてると思うか?)

(……いや。まだ“こっち”を見ていない。けど……)


 “あっち”の世界のものが、こちらを覗き込もうとしている――そんな気配。

 優斗は眼鏡の奥で静かに目を細め、前に立つ教師に悟られぬようにそっと指先をノートの上で滑らせる。術式を練るのではない。ただ、その存在を見誤らぬよう、自分の霊感を研ぎ澄ますために。


(麻斗。昼休み、屋上だ。あの影の正体を見極める)

(了解。ぶん殴れる準備、しとく)


 冗談めいた声の裏に、確かな気合いがあった。ざわり――と、風が吹き抜ける。

 桜の花びらが、ひとひら窓をかすめて舞い込んできた。春の陽気にまぎれて、忍び寄る影が、確かにそこにあった――。

 そして昼休み、麻斗は、腹ペコの勢いで購買部に突撃していた。

 人気のパンを手に入れた後、レジの前でエプロン姿の購買のおばちゃんがにっこり笑う。


「今日も元気ねえ、あんた」

「まーな!食ってまた食って!が俺のライフサイクルだからな!」

「なに言ってんのかさっぱりわかんないけど、まぁ元気なら良し」


 そんな軽口を交わし、パンの袋を受け取って購買の外へ出ようとした時――

 背後の窓越し、建物の裏手の方に、ふと何かの気配がした。


「……ん?」


 麻斗は足を止めて、そっと目を細める。

視界の隅、購買部の裏の植え込みのあたり。

一瞬、黒い影のようなものが、風に紛れて揺れた気がした。校庭で見た四つ足の影はふらりふらりと校庭へ向かっていった。


「あれ?何かいたの?」

「いや、気のせいだった!」


 購買のおばちゃんの言葉に首を振る。ここで見えると思われると変な生徒だと思われるし、見えると話をしたって見えない人には信じてもらえない。

 麻斗はパンの袋を握りしめたまま、屋上への階段を駆け上がった。校舎の屋上に出ると、少し強めの春風が麻斗のシャツの裾をはためかせた。


「……風強いな!」


 麻斗はそうぼやきながらも、器用に菓子パンの袋を破ると、がぶりと一口食らいつく。その傍ら、すでに屋上にいた優斗は柵に寄りかかりながら校庭を見下ろしていた。校庭――生徒たちが弁当を広げ、談笑し、走り回る平和な光景。

 だがその中に、"それ"は確かにいた。

 黒く、ぼんやりとした四つ足の影。

 一般生徒たちにはやっぱり見えていないらしく、誰もその異物に反応しない。


(入学早々変人呼ばわりされたくねえんだけどな…)


 もぐもぐと口を動かしながら、麻斗がテレパシーを送ってくる。その声音には、心底イヤそうな気配が滲んでいた。


(まあ、僕も嫌だな。進学してがいきなり「変なもん見た!」とか言ってたら距離取られるだろうし)


 優斗も苦笑混じりに返す。

 二人は、何度もこういう場面をくぐってきた。

 小学校でも、中学校でも――いつだって“普通”に馴染む努力をしながら、それでも"あっち"の世界に引きずられ続けてきた。


(優斗、あの犬購買付近もウロウロしてたぞ)

(……購買?)


 視線を向けると、確かに黒い影は、校庭から購買部のある建物へとふらふらと移動していた。まるで、何かを探しているような、あるいは――


(食べ物を探していたのかもね。もしくは、……)


 優斗のテレパシーに、麻斗がパンを咀嚼しながら、ちらりと優斗を見る。


(……俺ら、狙われてんのか?)


 風が、ふわりと二人の間を吹き抜けた。桜の花びらがまた一枚、空に舞う。怪異の匂いを、確かに春風が運んでいる。


「……さて、どうするか」


 優斗がぽつりと呟いた声は、春の陽気に溶けることなく、重く、鋭く屋上に残った。

 すると、その影は突如優斗と麻斗に振り向き、その穴の開いたような目を向けた。


「……っ」


 優斗は、ぞわりと肌に粟立つ感覚を覚えた。

購買付近をうろついていた黒い影――その四足の存在が、ふいにこちらを振り返ったのだ。

 穴の開いたような目。

 空洞だけがぽっかりと空いた、その瞳。


(麻斗……見たな?)

(ああ、見た。……アレ、ヤバいタイプじゃねぇか?)


 麻斗の声にも、わずかな緊張が滲んでいた。

――そのときだった。


「キーン、コーン、カーン……」


 昼休み終了を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。その瞬間、影は――まるでその音に諦めたかのように、しゅるり、と輪郭を溶かしていった。


(……え?)


 麻斗が、ぱちくりと瞬きをする。


 影は、どことなくがっかりしたような、

いや、もっと――寂しそうな、そんな雰囲気を残して。ふっと。春の陽光に飲まれるように、完全に消えてしまった。


「…………」

「…………」


 二人して、無言になった。


(…なあ、優斗。)

(ああ、分かってる。普通の怪異じゃない。)


 もし"ただの"悪意ある怪異なら、チャンスとばかりにこちらに飛びかかってきたはずだった。だが、あれは――どこか、未練とか、哀しみのようなものを纏っていた。


(もしかして……俺ら、呼ばれてんのか?)


 麻斗の問いに、優斗は小さく頷いた。

 春風に吹かれながら、薄く開かれた扉の向こう――"あっち"の世界から、何かが、ふたりを見つけている。


「……戻ろうか。」


 小さく囁き合って、ふたりは屋上を後にした。教室へ戻る背中に、ほんのりとまだ、あの影の残滓が、まとわりつくように漂っていた。

 そして放課後。静かになった校舎の中、まだどこか新しさの残る教室に、麻斗がひょこっと顔を出した。


「おーい、優斗〜」


 声を出すわけでもなく、教室の後ろから近寄ってきて、優斗の机の隣に立つと、ちらりと校庭に目を向けながら――


(結局さ、あれからあの影、出て来なかったな)


 麻斗がテレパシーを送ってくる。その声は、昼間よりもいくらかリラックスしていて、けれどどこかまだ肩の力が抜けきらない響きを持っていた。


(ま、消えたら消えたで入学早々変人扱いされなくて済むんだけどな!)

(……それは、そうだね)


 優斗は教科書を鞄にしまいながら、柔らかく笑った。校庭にはもう生徒の姿はまばらで、ほんの数人が部活の準備をしているくらいだった。――黒い影の気配も、今はもう、微塵も感じられない。


(でも、気にはなるよね。)


 優斗は鞄の肩紐を引き上げながら、ふと真剣な気配を送る。麻斗も、パンの空き袋をくしゃりと丸めながら、顔だけ向けた。


(……ま、な。)

(あれは……悪意だけじゃなかった。)

(うん。)


 ふたりの間で交わされる言葉は、声ではない。けれど、音声よりもはるかに深く、正確に、互いの心に届く。だから麻斗も、優斗の言いたいことがすぐに分かった。

あれは――

 単なる怪異ではない。

 あの影がふたりに見せた、あの寂しげな背中。それは、もしかしたら、助けを求めていたのかもしれない。


(……まあ、来るならまた出てくるだろ。優斗、嫌でも引き寄せる体質だし。)

(……だね。)


 優斗も、苦笑いを浮かべた。

 まったく、ろくでもない体質だ、と何度思ったことか。けれど、ふたりはもう知っている。

普通とは違うからこそ、見えるもの、できることがあるのだと。


「さて、と」


 麻斗が背伸びをしながら、にかっと笑った。


「帰るか、優斗!」

「ああ。」


 並んで歩き出すふたり。

 春の夕陽が、長く、二人の影を伸ばしていた。


 ◆ ◆ ◆


 そして翌朝。教室に入った麻斗は、大きなあくびをしながら席に着いた。


「……ふわぁぁぁ……ねみぃ……」


 机に突っ伏そうとしたその瞬間、

 背筋を、ぞくり、と冷たいものが這い上がった。


(……あ?)


 半分眠っていた頭が一気に覚醒する。

 麻斗は、そっと視線だけを窓の外へ向けた。校庭の隅――桜の木の間を、何かが動いている。

 黒い、四つ足の影。

 昨日、消えたはずの、あの異様な気配が――また、そこにいた。


(……復活してんじゃねぇか……!)


 内心ぼやきながら、慌てて優斗にテレパシーを飛ばす。


(優斗!おい、優斗!!)


 すぐに、優斗からの応答が返る。


(……なに、朝から騒がしいな)

(違う違う、あの影!また出てきた!校庭!)


 その言葉に、優斗も窓の外へそっと目を向けた。すると、校庭を横切る影――それも、昨日より少しだけ“濃く”なった黒が、はっきりと確認できた。

 しかも、今朝の影は、ただ彷徨っているだけではない。

――なにかを探している。

――なにかを求めるように。


(……あいつ、俺ら探してんのか?)

(たぶん……ただ、まだ“完全な形”じゃない)


 優斗が淡々と分析を送ってくる。


(昨日消えた時も、なんだか…未練みたいなもん、感じたしな。)

(ああ。だからこそ――下手に近づいちゃ駄目だ)


 声がぴたりと、鋭くなった。

 ただの怨霊でも、ただの迷い魂でもない。

 未練が強すぎる存在は、時に人を巻き込み、引きずり込もうとする。

 そう、例えば――

 "あっち側"に、強引に連れていこうとするかのように。


(優斗……どうする?)

(昼休み、改めて……話し合おう)


 優斗の心が、静かに、しかし強く麻斗に伝わった。それに、麻斗も「へっ、仕方ねぇな」とにやりと笑う。


(オッケー!今日も元気に怪異退治!……ってな!)


 教室の空気は、双子の心境を他所に、いつもの朝と変わらず賑やかにざわめいていた。

 そして昼休み。今日も購買でパンを買おうとする麻斗は、また購買部のあたりをふらふらと歩く黒い影を見た。

 その近くで、購買部のおばちゃんが段ボールを運んでいた。


「……あれ?また風、通った?春なのにちょっと寒いわねえ」


 そう呟きながら、首筋を押さえて小さく肩をすくめる。


(こいつ…購買部と校庭をウロウロしてるみたいだぜ?)

(…何か意図があるんだろうね)


麻斗は優斗とそんなテレパシーを交わしながら再び屋上へと足を運んだ。

 昨日と同じ時間、昨日と同じ場所。だが、今日の風は昨日よりも少し冷たい気がした。

 校庭を見下ろせば、そこに――いた。

 黒く、四本の足を持つ影。

 その気配は、昨日よりもさらに濃く、明確な“存在感”を帯びていた。

 影は、じり…じり…と動きを止めて、屋上にいるふたりを見上げてきた。

 穴の開いたような目。

 何も映さぬその空洞が、真っすぐに、優斗と麻斗を貫いた。

 風が止まる。まるで時間が凍りついたかのような、ひととき――


(……睨んでんなぁ。やる気はあるみてぇだけど、どうする気なんだか)


 麻斗が肩をすくめながら、優斗へとテレパシーを飛ばす。しばらくの間、昼ご飯を食べながら監視しているが、特に大きく動き出す様子もない。


(動く様子はないな……でも、あれ、昨日より明らかに“見てる”。昨日は気配だけだったのに。)

(……進化してるってこと?めんどくさ!)


 そう麻斗が呆れたように思ったその瞬間――


「キーン、コーン、カーン……」


 昼休み終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。すると影はまた――まるでその音が何かのスイッチであるかのように、ふ、と…また消えてしまった。昨日と同じように。ただ、今日は確かに――こちらを“睨んで”いた。


(こいつ、ずっとこれを繰り返してんのかね?)


 麻斗が、呆れたようにテレパシーを送る。しかし、笑ってはいない。その顔には、確かに緊張が浮かんでいた。


(繰り返してるのは、きっと――誰かに“見つけて欲しい”からだよ)


 優斗のその言葉に、麻斗はパンの袋をくしゃっと握りしめた。


(見つけてほしい、ねぇ……じゃあ、今日こそ見つけてやるか)


 放課後、ふたりは、決意を胸に校庭へと向かう。今度こそ、その影の正体を暴くため、夕暮れに染まり始めた校庭を、優斗と麻斗はゆっくりと歩いていた。

 部活帰りの生徒たちの声が遠くに聞こえる。

だけど――この場所だけ、まるで別世界のように、静かだった。


「……」


 立ち止まり、麻斗はふっと目を閉じる。

 霊視――

 生まれつき持っている、この世界と“あっち”をつなぐ力を研ぎ澄ませる。

 すぐに、校庭に微かに残る気配が引っかかった。風に溶けそうなほどに淡くなっているが、確かにそこに"何か"がいた痕跡だ。


(朝、昼だけ限定で出るみたいだな、あの影)


 麻斗はそっと優斗にテレパシーを送った。

 するとすぐに、優斗からも反応が返ってくる。


(……太陽の光に引き寄せられてる?それとも、昼の時間にだけ縛られてるのかも)

(なんだそれ……めんどくせぇなぁ)


 麻斗は額に手を当て、ため息をつく。

 ふだんなら、昼でも夜でも、出る怪異は出る。けれど、あの黒い影は違った。時間に縛られるように、朝と昼休みだけ姿を現し、そしてチャイムと共に消える。


(……なあ優斗。もし、あいつが"時間"に縛られてんだったらさ)

(うん)

(もしかして……生前、そういうルールみたいなの、持ってた奴だったりして)

(……例えば、朝と昼しか自由がなかった、とか……か)


 互いの考えが、すっと重なる。

 麻斗はもう一度、残滓が揺れる校庭を見つめた。それはまるで、今にも消え入りそうな、春の幻みたいに淡かった。


(……だったら、助けてやるか。)


 麻斗が、にやりと笑う。


(もちろん。そのために僕らがいるんだろ?)


 優斗の声もまた、春の夕暮れに溶けるように、優しく響いた。麻斗はひとり頷くと、霊視を解かず、ゆっくりと歩を進めていった。

 まるで、空気の中に漂うかすかな匂いをたどる警察犬のように、すん…すん…と、痕跡を嗅ぎ取るような感覚だった。

 普段の霊視よりも深く、“あっち”の世界に感覚を浸す。すると、現実の景色の上に、かすかな靄のような、淡い道が浮かび上がる。

 校庭の桜並木を抜け、

 購買部の前を横切り、

 生徒たちが立ち寄る売店の裏手へ――

 そこは普段、誰も気に留めないような、人通りの少ない場所だった。雑草がぼうぼうに生えた植木の溝が続いている。

 麻斗は足を止めた。


(ここ…)


 優斗も感じたのであろう、優斗のテレパシーが麻斗に伝わる。重たく、湿ったような気配が、そこに濃く沈んでいた。慎重に溝の縁を辿っていくと――ぬかるんだ泥の中、雑草に半ば隠れるようにして、白く乾いたものが覗いていた。


「……っ」


しゃがみ込み、泥をそっと払う。

現れたのは――小さな、小型犬ほどの大きさの、白骨化した死体だった。


(……犬だ)


 テレパシーを飛ばすと、優斗からもすぐに応答が返ってくる。


(……あの四つ足の影の正体、これだ)

(……ああ)


 麻斗は、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。この犬は、こんな泥の中で――誰にも気づかれず、誰にも看取られず、ここでずっと……。だから、あんなにも必死に探していたのか。誰かに、見つけてもらいたくて。

 ただ、それだけを――。


(優斗……この子、どうする?)


 夕暮れの光が、骨の上に儚く降り注ぐ。

麻斗はそっと、その小さな骸に手を伸ばしながら、優斗に問いかけた。すると、優斗のテレパシーの返事を待たずに背後から声をかけられた。


「あぁ、その子…」


優斗と麻斗はびくりと肩を跳ねさせた。

慌てて振り返ると、そこには購買部のおばちゃん――白髪混じりの柔らかな髪を後ろでまとめた、ふくよかな女性が、どこか困ったような笑みを浮かべて立っていた。


「……知ってんのか?」


 麻斗が思わず口をつくすと、おばちゃんはゆっくりと麻斗の隣にしゃがみ込み、溝にある小さな白骨をじっと見つめた。


「昔ね、ここは購買部じゃなくて、給食室だったのよ。……随分前の話だけどね。」


 懐かしむような口調だった。


「そのころは、給食の残りを……この子に、こっそりあげてたの。」


 ふわり、と風が吹く。

 おばちゃんのエプロンの裾が、静かに揺れた。


「でも……給食室が廃止になって、購買部に変わったとき、残り物なんて出なくなっちゃって。……それから、あの子も、ふらっと姿を見せなくなってね。」


 おばちゃんは、手を合わせるでもなく、ただ、しんとした目で白骨を見つめ続けた。


「いなくなっちゃったと思ってたけど……こんなところに、いたのね。」


 少しだけ、声が震えていた。

 麻斗は言葉に詰まった。


(優斗……)


 テレパシーで優斗を呼ぶと、すぐに落ち着いた声が返ってくる。


(……この子は、最後まで、誰かを待ってたんだね。)

(……あぁ。)


 そして――

 誰にも見つけてもらえず、誰にも気づかれずに、ずっと、ここにいた。優斗の言葉が、麻斗の胸の奥に静かに染み込んでいった。

 おばちゃんは、そっと小さな溝に向かって、優しく囁く。


「ごめんね、ずっと気づいてあげられなくて……」


 その言葉に応えるように、ほんの一瞬、春風がふわりと二人を撫でた。白骨の傍らに、一枚だけ、桜の花びらが落ちる。優斗と麻斗は、顔を見合わせた。そして、心に決めた。

 ――この子を、ちゃんと、還してやろう。

 麻斗は、白骨を見下ろしながら、そっと手を握った。目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。


(優斗、明日の昼休みにアイツに会いに行こうぜ。)


 静かに、だけどはっきりとした意志を込めて、優斗にテレパシーを飛ばす。


(多分ここで待ってたら……来る気がするんだよ。)


 言葉にすると、確信のようなものが胸に宿った。ただの勘じゃない。ずっと、ここで、誰かを待ち続けていた小さな存在の――その願いが、麻斗にも伝わってきたのだ。

 少し間をおいて、優斗から返事が届く。


(……分かった。)

(……絶対、ちゃんと見つけてやろうな。)

(うん。)


 ふたりの心が、静かにひとつに重なった。

 校庭を渡る風は優しく、どこか温かかった。

 購買のおばちゃんは、慈しむように目を細めると「あの子のこと、よろしくね」とだけ言い残して、静かに購買部へ戻っていった。

 麻斗は、白骨の上にそっと手をかざすと、小さく呟いた。


「明日な。……ちゃんと、会いに来いよ。」


 ほんの一瞬、溝の奥で――風に攫われるように、見えない誰かの気配が、ふわりと微笑んだ気がした。


 ◆ ◆ ◆


 そして翌日、朝からソワソワしながら昼休みを迎える。


「キーン、コーン、カーン……」


 昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、

麻斗は、勢いよく席を蹴って立ち上がった。


「よっしゃ……!」


 小さく気合を入れ、迷わず駆け出す。

 向かう先は、購買部の裏――あの、小さな命が待っている場所。


(優斗、先行くぞ!)


 麻斗は走りながらテレパシーを飛ばす。すぐに、落ち着いた声が返ってきた。


(分かった、すぐ追いつく。無理すんなよ)

(なぁに、俺に任せろって!)


 麻斗はそのまま校庭を突っ切った。

 春の風が、桜の花びらを散らし、購買部のあたりに、ほんのり甘い匂いを運んでくる。

 購買部の裏手にたどり着くと――

 いた。

 そこに、いた。

 昨日までよりも、はっきりとした輪郭を持つ黒い影。四つ足の獣の姿を取り、穴の開いたような瞳で、じっと、こちらを見上げていた。


「……やっぱ、来たな」


 麻斗は、息を整えながら影と向き合った。

 昨日、決めたんだ。この子を、ちゃんと“見つける”って。

 影は、静かに、麻斗の一歩前へ進んだ。そして、撫でようと伸ばした手は、止まる。


(退魔の波長を持つ俺が触ると…こいつは消えてしまうかもしれないな)


 麻斗が伸ばした手を下ろした時、その背後に、もうひとつ、軽やかな足音が響いた。


「遅くなった」


 優斗が、麻斗の隣に立つ。その手には、小さな白い布包み。校庭の片隅で摘んだ、桜の花びらと共に包んだものだ。


(準備、できてる?)

(あぁ)


 麻斗と優斗は、互いに頷き合った。

 麻斗は、制服のポケットから、くしゃっとなったパンの袋を取り出した。購買部で買った、まだほんのり温かい菓子パン。


「……ほら、最期までお腹空いてたんだろ」


 そう、そっと声をかけながら、麻斗は袋を開けた。甘い匂いがふわりと広がる。黒い影――

穴の開いた目を持つ小さな獣は、警戒しながらも、ゆっくりと鼻先をパンに近づけた。

 すん……すん……と匂いを確かめる。そして、震える鼻先で、パンにそっと触れる。


(優斗……頼んだ。)


 麻斗が心の中で呟くと、すぐ背後から静かな気配が広がった。優斗は、そっと目を閉じて、手を重ねる。その指先から、見えない糸が紡がれるように、空気に柔らかな波紋が広がった。

 購買部の裏手に、薄く、繊細な光の紋様――

あの世へと還すための術式が、静かに構築されていく。

 風が止み、空気が澄んでいく。まるで、この一瞬だけ、世界がふたりと小さな影のために時を止めたようだった。

 麻斗はしゃがみ込んで、パンを差し出したまま、できるだけ、怖がらせないように、微笑んだ。


「もう、ひとりで寂しくねえよ。……だからさ、行こうぜ。ちゃんと、向こうへ。」


 影は、一度、パンをぺろりと舐め――そして、麻斗をじっと見つめた。その穴のような目に、かすかに、柔らかな光が宿った気がした。


(優斗……いける)

(……うん)


 優斗の術式が、光を強くする。

 黒い影の身体が、ふわりとほころび始め、影の輪郭が、ゆらり――と揺れた。

 黒かった身体は、徐々に透明になり、濁った気配が、まるでほどける糸のように空へ溶けていく。その中から、ふっと、白くやわらかな毛並みをした、雑種犬の姿が浮かび上がった。

 まだ幼いような、小柄な体。

 くしゃくしゃとした耳。

 愛らしく丸い目――本来の、あの子の姿。


「……よかったな」


 麻斗が、しゃがんだまま微笑んだ。

 雑種犬は、ほんの少し尻尾を振るような仕草を見せると、すうっと――光に溶けるように、空へと昇っていった。音もなく、風のように、花びらのように、春の陽射しの中に溶けて消えた。ふたりは、黙って見送った。


(……ちゃんと、還ったね)


 優斗のテレパシーが、柔らかく胸に響く。


(ああ……腹いっぱいになったかな、アイツ)


 麻斗も、少し照れくさそうに返した。

 ふと、足元に一枚だけ、桜の花びらが落ちた。

 もう、あの影はここにはいない。

 けれど、ほんのりと、温かい何かが、そこには残っている気がした。

 静かに流れる昼休みの終わり。

 ふたりだけが知る、小さな別れの物語が、そっと、春の風に運ばれていった――。

 春の光に包まれた購買部裏で、しばらくその場を見上げていた麻斗は、ふっと肩の力を抜いて、大きく伸びをした。


「はー……よかった、よかった!」


 ぱんっと軽く手を叩く。


「なあ優斗、あの犬が校庭までわざわざ出てきてたの、絶対お前の惹魔体質のせいだよな!」


 笑いながら、麻斗は優斗の肩を軽く小突く。

 優斗は、まるで「またか」とでも言いたげに小さくため息をついたけれど、どこか嬉しそうに微笑みながら、静かに返した。


「……まあ、否定できないけどね。」


(“呼び寄せる体質”だもんな。)

(でも、いいじゃないか。今回は……役に立てたんだから。)


 静かに交わされる、心の会話。

 麻斗は鼻を鳴らして、ポケットに手を突っ込んだ。


「ま、たまには悪くねーな。……ちょっとだけ、お前の体質に感謝してやる!」

「……ちょっとだけ?」


 優斗がわざとらしく眉をひそめると、

 麻斗はへらっと笑いながら、校庭を見渡した。

 風に舞う桜の花びら。

 どこか誇らしげな春の匂い。

 ふたりの胸には、誰にも知られない、小さな達成感が静かに宿っていた。


「なーんか、入学早々ちょっと良いことした感じじゃね?」

「……うん。うん、そうだね。」


 ふたり並んで、春の校庭を眺める。

 また新しい日々が始まる。怪異と、人と、そして小さな命たちと。この春も、きっとにぎやかで、特別なものになるに違いない。

――そんな予感が、ふたりにはしていた。


「キーン、コーン、カーン……」


 昼休み終了のチャイムが鳴り響くと、麻斗は慌ててポケットを探り、ぐしゃぐしゃになったパンの袋を引っ張り出した。


「やっべ!!昼めし食ってねえ!!」


 叫びながら、袋を破る勢いでパンを取り出し、がぶっと大きな口で噛みつく。


「んぐっ……!」


もぐもぐしながら、麻斗は購買部の裏から駆け出した。口の中は甘いクリームとパンのふわふわでいっぱいなのに、頭の中では焦りと充実感がぐるぐると回っている。走りながら、テレパシーを飛ばす。


(……俺の退魔の波長じゃあ、結局消し飛ばすしかできなかったし……)


 購買部の裏で小さな命を見送った後の、

 ほんの少しだけ寂しい、でもすごく温かい気持ちを胸に抱きながら――


(優斗、ありがとう。)


 心から、そう思った。


返ってきたのは、少しだけ呆れたような、けれど優しい声だった。


(……麻斗、口に物入れたままテレパシー飛ばすのやめなよ。すごくもごもごして聞き取りづらい。)

(……え、マジで!?テレパシーでもバレんの!?)

(バレるよ。……でも、いいよ。)


 ふっと、微笑みが心に届いた。


(僕も……麻斗がいてくれて、よかった。)


「~~~っ!」


麻斗はもぐもぐしながら、なんだか顔が熱くなるのを感じて、そっぽを向いて走った。


(……へっ、まあな!俺がいなきゃ、優斗はすぐ無理すっからな!)

(はいはい。だから走りながら食べるなって言ってるだろ)

(わーってるよーだ!)


 教室のドアが見えてきた。

 春の光に揺れる桜の花びらが、

まるでふたりをからかうように、ひらひらと舞っていた。

――そして、高校生活はまだまだ始まったばかり。

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