春風にアイ
霜月れお
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春は今までとこれからの自分のように、過去と未来が交わって分かれて進んで行くような季節。
中学校のクラスメイトは別の高校の生徒になり、わたしの知らない別の誰かと生活が始まる。わたしはと言えば、中学校をなんとか卒業し、少し離れた隣町の高校で今までとは違う別の誰かと同じ時間と空間を過ごすことになるだろう。まだ見慣れない同級生たちは、わたしが寝過ごした駅をきちんと降りて、教室に集まっている頃だろうか。
公園のベンチにどさりと腰を掛け、膝の上に乗せた通学鞄に頬杖をつき、満開の桜から風で舞い上がる花びらが深緑の芝生の上にはらりと落ちていくのを眺め、眠たいままの目をこする。ベンチから見える位置にわたしの母校である小学校の正門があって、花畑のようにカラフルなランドセルを背負った小学生が通学しているのが見えた。みんな次々と学校に吸い込まれていく様子に胃がキリリと痛む。まるで巣に帰るミツバチみたい。
「入学式は時間通りに起きて行くことができたのだから、一日くらい行けなくてもいいじゃない」
誰かに言いたいわけではなくて、ただ言葉に出して確かな何かを得たいだけ。そんなわたしの独り言は、制服のスカートの上に桜の花びらをひとつ呼び寄せた。
一度眠りについたら自力で起きられず、近所迷惑甚だしい音量の目覚まし時計も母の大声も寝ているわたしには届かない。母が無理やりスライムのようになった身体を布団から引きずり出している感覚と温かいホットタオルで徐々に深い海のような眠りから覚醒してくる。
そうやって急げば間に合うような遅刻するような時間になり、起きられるわけもないのに電車で眠りにつき近所まで戻ってきた。スマホを取り出し、母に学校は休むと連絡を入れると、待たずに了解のスタンプと一緒に学校に伝えておくとメッセージが届く。当然のように朝起きられる人には怠惰とか甘えとか言われるけど、母と新しい高校は、とんでもない寝坊癖のわたしに不思議と何も言わず、ただ受け入れてくれる。
芝生に咲くタンポポのような黄色い帽子とランドセルカバーが目に留まる。慣れない登校で寄り道でもしているのだろうか。なんだか気になって、しゃがみこんでいる彼女に近寄り隣で一緒に並ぶ。春の日差しに温められた芝生の生温い匂いがする。
ランドセルカバーで隠れて見えていなかったけど、わたしのランドセルと同じ色。当時はせいぜいピンクとか水色とか紺、茶くらいのもので、どうしても真珠のような艶のある白いランドセルが欲しいと願い母を困らせた。
「ねえ、何してるの? 学校は?」
「四つ葉のクローバー探してる」
彼女の前には三つ葉ばかりのクローバーが広がっていて、わたしだったら見つかるわけないと秒で諦めてしまいそう。
「どうして?」
「ママはアイちゃんのランドセルの願い事を叶えてくれたから、今度はママの番なの」
「そう。おねえさんも探してみるわ」
とは言ったものの、重なり合っている三つ葉を眺めるだけでは見つかりそうにも無くて、両手でひとつひとつ分けながら探すことにした。アイちゃんの膝に付く芝生の草、彼女の黒い瞳が見つめる三つ葉ばかりのクローバーの群れ。学校よりも大事な四つ葉。
「おねえちゃんは学校いいの?」
アイちゃんの不思議そうな顔に鼓動が勝手に大きく返事をする。
「うーん、実は電車で寝ちゃって、降り過ごしちゃったから戻ってきたの。別に夜更かしをしてたわけじゃないんだけど。だから、今日は行かなくても良い日にしちゃった」
作り物の笑顔を貼り付け、わざと明るいトーンで声に出す。特に朝は、どう頑張っても起きれないのだから。
「四つ葉のクローバー見つからないし、アイちゃんはそろそろ学校行ってくるよ」
彼女はわたしの繕った笑顔なんか気にならないような感じで、四つ葉探しを切り上げる。重たそうなランドセルに彼女は両手を添えて立ち上がり、こちらを気にすることもなく、すたすたと学校の正門に向けて歩き出す。そんなアイちゃんの、黄色いカバーが大半を占める背中を見ていたら、春の風に声が流されないくらいの音量で「いってらっしゃい、またね」と自然に声をかける。良きおねえさん風。
さて、今日も頑張れば始業に間に合う時間に起きれたけど、必死になるのもなんか気乗りしなくて、すっきりしない空模様のような気分のまま公園に向かうことにした。小学生の通学にはまだ早い時間なのにアイちゃんは公園にいて、四つ葉のクローバーを探している。わたしの心の薄い雲が晴れて一生懸命になれたら、寝坊癖は治るのだろうか。
アイちゃんの隣にしゃがみ込み、声をかける。
「四つ葉のクローバー見つかった?」
「ううん、まだ」
やっぱり見つけるのには時間がかかりそう。今日も三つ葉の群れは風に揺られている。
「学校の給食の話をしよう? 昨日の給食は何が出たの?」
「ニンジンと何かのお肉の炒め物。アイちゃん、ニンジン嫌い」
彼女の唇が数日前までの年長さんを彷彿とさせるように控えめに尖っていて、幼さを感じ自然と笑みが出てしまう。
「ふふふっ、おねえさんも嫌いだったなー。でも、気が付いたら食べれるようになったよ」
「嫌いなのに、食べれるようになるの?」
信じられないといった表情のアイちゃんがこちらを向く。クローバー探しの手が止まった。
「なるよ。嫌いなニンジンもいつか食べてみようって思う日が来るよ」
「えー、ムリだと思う」
そう言ってアイちゃんは視線を地面に落とし、クローバー探しを再開した。
わたしも足元の三つ葉を手で撫でる。
「アイちゃんは今日も学校に行くけど、おねえちゃんは今日の学校は行くの?」
「うーん、また電車で寝ちゃって起きれないの嫌だなぁって思ったらさ、なんか行きたい気分がタンポポの綿毛みたいにふわっと飛んでしまって。それに、おねえさんは一度寝たらなかなか起き上がれない人でさ。いつかひとりで起きてみたい」
「そうなるといいね」
本当にそんな日が来て欲しい。
芝生の上を走る風がわたしと彼女の間を抜け、わたしのささやかな本音を押し流し、アイちゃんはいつもどおり小学校に吸い込まれていった。
さすがに毎朝必死に起こしてくれる母に申し訳なくて、夜の食卓を囲んだときに、アイちゃんの四つ葉のクローバー探しのことを伝えてみた。娘が犯罪に手を染めてないなら、構わないのよといった風の母は「あら、そうなの」と返しただけ。娘が他の誰かのお嬢さんと健全な交流をしていることを知らされたら、親的には「あら、そう」なのかも。
「そういえば昔のことを思い出したのだけど、マナミの『マナ』は『愛』って書くのよって教えたら、マナミったら自分のこと『アイちゃん』って呼んでいた時期があったのよ、懐かしいわね」
母の努力の甲斐あって、珍しく母と一緒に朝食をとっていると、ふいに母が言う。ちっとも記憶にない。
「確か小学校に入ったくらいだったと思うのよね、話にあったアイちゃんくらいの」
懐かしむような瞳の母は、わたしを透かして遠い記憶を眺めているよう。
わたしと同じランドセルの色、わたしと同じようにニンジンが嫌い、自分のことを同じように『アイちゃん』と呼ぶ。まさかね。
「でね、同じように四つ葉のクローバーを探してたのよ。わたしに内緒にして」
大切にしている思い出をそっと取り出すように優しい母の笑み。
もしかして。
わたしは慌てて家を飛び出し公園に向かった。
走りながら朦朧とする頭のなかで、息を吐くたびに遠い記憶が蘇る。
四つ葉のクローバーを探していたこと。手伝ってくれた制服の子がいたこと。母は見ず知らずの人と一緒に遊ぶわたしのことを心配して来たこと。
公園ではアイちゃんはしゃがみ込み、いつもどおり四つ葉を探している。
「アイちゃん!」
走り込んできたわたしの呼び声に、アイちゃんは振り返り、手を振る。
「おねえちゃん、おはよう。走ってきてどうしたの?」
「たぶん今日で、一緒に四つ葉を探せるの最後になっちゃうから」
そう、たぶん今日だ。アイちゃんには信じてもらえないかもだけど。
アイちゃんの隣に並び、今日はひと葉ひと葉確認しながら四つ葉を探す。アイちゃんの側の身体が仄かに暖かく感じる。
「あのね、アイちゃん。これから朝起きれなくなって、大好きな学校に遅れることになっても自分を責めないでね」
アイちゃんからの返事はない。
「それにニンジンは食べられるようになるから、心配することはないよ」
「なんで、わかるの?」
たぶんそれはと言い淀む。
「マナミ!」
わたしの名前を呼んだ声は、間違いなく母の声だけども聞き慣れている声よりも若い。毎日聞いているのだから間違いようがない。
けど、これはアイちゃんを呼ぶ声だ。
「おねえちゃん、ごめんね。もう行かなきゃ」
四つ葉を探していたアイちゃんは、立ち上がり呼ぶ声の元に走っていく。
振り返るまいとして握った拳に力が入る。鼓動の音だけが聞こえてきて、春らしい冷たい風がたなびき、握った拳がひりりとする。「おねえちゃん、また会おうねっ!」とアイちゃんの声が聞こえた。
うん、また会おう。
風に吹かれる髪を耳に掛け、振り返る。アイちゃんは、もういない。
ポケットの中のスマホが震える。取り出し確認すると、母から朝食をほったらかし、急に飛び出して行ったことへの小言と「睡眠外来の予約取れたから、病院行こう」の文字。
手に持つスマホの向こうに、あれだけ探していた四つ葉のクローバーと視線が合い、駆け寄る。
見つけた四つ葉を手折ることなく、スマホで写真に収め「ありがとう。それと、やっと見つけたよ」というメッセージを添えて母に贈る。
母から「きっと朝起きれるようになる!」の言葉と力こぶのスタンプ。
春風が運んだ過去と未来。
わたしにも新しい季節を届けてくれたような気がする。
春風にアイ 霜月れお @reoshimotsuki
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