足音のする、帰り道

青居緑

第1話

ふと、足音が聞こえることに気が付いた。


耳を澄ませやっと聞こえるような、静かな足音。その感じから、同じ女性のものと思った。気が付いたのは仕事帰りで、大通りから住宅街へと入った時だった。


かつん、かつん、かつん


意識にするりと足音が入り込んできた。辺りを見回しても、人気はない。夜の住宅街なんて、それほど人は歩いていないのだ。


まるでつけられているような、うすら寒い気分だった。もう一度、辺りを見て、ヒールを履いているのも忘れるくらい走った。部屋に帰り着いた時はぐったりとして、シャワーも浴びずに寝てしまった。


だけど、その足音はその日だけじゃなかった。


毎日聞こえるのだ。音はいつもかすかで、人気のないところでだけ聞こえた。不思議だけど、それだけで取り立てて困ることもなかったので、疲れているのかもしれないとやり過ごし、そのうち足音がすることに慣れていった。


いつもの仕事帰り。やはり同じように足音がしていた。もうすっかり慣れていたので、走って帰ることもしていなかった。


だけど、今日はいつもと少し違った。


『……、ソン……タヨ』


ふと、足音以外の声が聞こえたような気がした。


話し声だった。ぼそぼそとしたそれは、断片的にしか聞こえなかった。


なんだろう。振り返り、見回しても何も誰もいない。点々と設置された街灯が照らす下には、人どころか猫の姿さえなかった。


声なんて聞こえることはなかった。今まで忘れていた恐怖が蘇ってくる。走って帰ろうかと思ったその時、カバンの中のスマホが鳴った。慌てて取り出して見ると、地方に住む母からだった。


無視しようかと思ったが、最近体調の悪い父のことかもしれない。出た方がいいだろう。


「もしもし」


「ああ、瑞絵。今日、あなたに荷物を送ったのよ」


「なんだ、そんなことか。驚いたよ」


「ええ?どうして?」


「実は、今、外なんだけど……」


そこまで言いかけて気が付いた。


さっき聞こえた声。


ぼそぼそと聞き取りにくかったが、こう言ってはいなかっただろうか。


『ナンダ、ソンナコトカ。驚イタヨ』


記憶があいまいではっきりしないが、そうだった気がする。


呼吸が詰まりそうだった。どう息を吸っていいのかわからない。


「ごめん。また後でかけなおす」


母の返事を聞く前に、通話を終えカバンにスマホをしまう。


息をのみ、いつもの道の向こうに視線をやる。見慣れたはずの道が、いつもと違って見えた。その暗さも両脇の住宅もなぜか異様に思えた。息を整えながら、後ろを振り返る。やはり何もない。車さえ通らない。


今までずっとこの足音がしていたが、特に困ったことなどなかった。それだけが拠り所だったのに、今の声で崩された気分だった。ただ、声がしただけじゃないか。自分の声だったように思うのは気のせいだ。だいたい、ぼそぼそとしていてよく聞き取れなかったじゃないか。必死に自分に言い聞かせる。


緊張に握った手が汗ばむ。アパートの部屋に入ったときにはぐったりと疲れていた。


そうして足音が聞こえる日々は続いた。声が聞こえることはもうなかった。それは歩きながら電話をすることがないからかもしれないが、考えないようにした。だが、この足音の正体について、私はひとつの考えがあった。


かつん、かつん……


足音が止まった。そしてその時、まさに立ち止まったら足音が止まるのではないかと考えていた。


足音は、立ち止まろうと思うよりも先に止まってはいなかったか。


これは、数秒後の私の足音なのではないか。


考えが混乱する。どちらが思考でどちらが現実なのかがわからない。


やがて足音がまた聞こえ始め、私もまた歩き始めていた。自分の意思なのにまるで自分の意思ではないようだった。まるで、決められているような。


踵を返し、どこかに行こうかとも思うが、実家は地方だし行くあてもない。それに駆けていく私の足音も聞こえないから、未来の私はそのまま帰るのだろう。だったら、今ここから逃げ出したい私はいったい何なのだ。


思考がまとまらない。


とにかく早く帰りたい。


気が付けば呼吸が乱れていた。気のせいか聞こえてくる足音にも、ふうーふうーという呼吸が聞こえるような気がする。


大丈夫だ。部屋に入ればもう足音は聞こえない。そう思いながらエレベーターに乗り込む。身を守るようにカバンを抱きしめて、部屋のある階に着くのを待つ。チャイムが鳴って、エレベーターが開いた。部屋に入ればいつもの通りだ。早くゆっくりしたい。この嫌な汗をシャワーで流したい。


カバンから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。その時、確かに私は聞いた。


引き裂くような、悲鳴。


それは、きっと


未来の私のものなのだろう。


ガチガチと歯が鳴った。


だが、私はまるで決められているように鍵を回し、ドアレバーを押す。


しかし、ガタンと音が鳴るだけで、ドアは開かない。


鍵が、かかっているのだ。


私は鍵を開けたはずだった。


その意味がわかっているのに、私は再び鍵を回す。


おそらく未来の私がしたように。


その向こうに何が待っているのか、私は知っている。


それでも私は抗えない。


そこに何が待ち受けているのか、うっすらと理解しながら。


ドアが開いたとき、その向こうに黒い影が、見えた。

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足音のする、帰り道 青居緑 @sumi3_co

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