龍と呼ばれた彼女

@hukurou888

第1話

死体のように生きていた俺の日常は、その夜、本物の死体の山(になりかけたもの)の上で、終わりを告げた。


相川祐樹。二十歳。大学二年生――のはずだが、この春から休学中だ。


高校を卒業し、とりあえず地元の私立大学に入学したものの、モチベーションも目標もないまま過ごしていた俺は、一年が経った頃には完全に心が燃え尽きていた。


退屈な日々。無為な時間。空虚な自分。


俺はそれに耐えられなくなり、「しばらく休む」という名目で大学から逃げ出した。そして、アルバイトと家でのニート生活を繰り返す、自堕落な日々が続いていた。


親は呆れ顔だ。高校の同級生たちとの連絡も自然と途絶えた。

友人と呼べる存在もいない。恋人なんて、願っても叶わない夢のまた夢だ。


そんな俺が、いつものようにコンビニで酒とつまみを買い、ボロアパートに帰る途中で見つけたのは、路地裏で倒れている一人の少女だった。


月明かりに照らされた少女は、まるで桜の花びらが舞い散るような、幻想的な美しさだった。


真っ白なワンピース。すらりと伸びた手足。肌は氷のように冷たく白い。

血の気のない顔は、まるで磁器人形のようだ。


だが、彼女は微かに息をしていた。


(……助けないと)


俺はそう思った。

いや、そう思わされた、と言うべきかもしれない。


少女の周りには、茶色く乾いた血痕がべっとりと付着していた。

まるで、ここで誰かが斬り殺されたかのようだ。


見れば、少女の身体にも、無数の傷跡がある。

だが、どれも致命傷とは思えない。むしろ、彼女の身体からは、生命力がみなぎっているように感じられた。


(一体、何があったんだ……?)


状況が飲み込めないまま、俺は少女に手を伸ばした。

その時だった。


「動くな」


冷たい声が、俺の背後から響いた。


振り返ると、そこには黒装束に身を包んだ、十数人の男たちの姿があった。

いつの間にそこに……。


「少女を渡せ。余計な真似はするな」


そう言って、男たちは俺に向かって歩み寄ってきた。

一歩、また一歩と、じりじりと距離を詰める。

男たちからは、殺気のようなものを感じた。


このままでは、俺も少女も危ない。

そう直感した俺は、咄嗟に少女の身体を抱き上げると、全速力で路地裏を駆け抜けた。


「待て! 逃がすな!」


男たちの怒声が、背後から追ってくる。

だが、俺は走るのを止めない。

ただただ、少女を連れて、ひたすら走り続けた。


どれだけ走っただろうか。

ようやく、人気のない河川敷にたどり着いた時には、俺はすでに息も絶え絶えだった。


「はぁ……はぁ……。逃げ切れた、かな……?」


汗だくになりながら、俺は少女を下ろした。意識はないようだ。

見れば、少女の傷からは再び血が滲んでいる。


「くそ…どうすれば……」


途方に暮れていると、再び背後から声が聞こえた。


「じゃじゃーん!」


その声は、さっきの男たちとは明らかに違う。

まるで悪戯っぽいような、楽しげな声音だ。


そして、声の主を見た瞬間、俺は目を疑った。


少女が立っていたのだ。

さっきまで気を失っていたはずの、あの少女が。


「よっ。助けてくれてサンキュー。アンタ、いい度胸してるじゃん」


満面の笑みを浮かべながら、少女はそう言った。


「え……? あ、ああ……」


状況が飲み込めず、俺は言葉に詰まる。

すると少女は、不敵な笑みを浮かべてこう言った。


「アタシは龍華(ロンファ)。李龍華(リ・ロンファ)って言うの。で、アンタは?」


「あ、相川祐樹……」


「そーか。じゃあ祐樹、これからよろしくね!」


そう言って、龍華と名乗った少女は、人差し指を俺に向けた。

その指先からは、かすかに青白い光が放たれている。


「えっ? ちょっと待っ……」


俺が制止の言葉を発しようとした時には、もう遅かった。

爪先から放たれた光の矢は、一瞬にして俺の額に命中し、俺の意識を闇に沈めていった。


最後に見たのは、不敵に笑う龍華の顔だった。


そして、気がつけば……。


俺は自分のボロアパートのベッドの上にいた。隣には龍華が座っている。

どうやら意識を失っている間に、彼女に連れてこられたらしい。


「……龍華さん。アンタ、一体何者なの?」


「フン。アタシか? アタシは『龍』と呼ばれる凄腕の武闘家にして、武林の頂点に立つ者……『龍牙幇』の次期当主候補、李龍華(リ・ロンファ)だ!」


「は?」


俺の頭は、混乱に包まれた。

これが、俺の日常の終わりの始まりだったことを、この時の俺はまだ知る由もなかった。


目の前の少女は、俺の退屈な日常を切り裂き、新しい物語の渦に巻き込んでいくことになる。


そして俺は、彼女と出会ったことで、自分でも予想できない、型破りな運命をたどることになるのだった。


*****


龍華という少女は、とにかく常識から外れていた。


「おい祐樹、飯は? まだなのか?」


大の字でゴロゴロとベッドの上で転がりながら、龍華はそう言った。


「……作ってるところだよ。てかアンタ、ここがどこだかわかってるのか? 勝手に上がり込んで、勝手に住み着いて……」


「ああ? 舎弟の家は舎弟の家。アタシのものはアタシのもの。文句あっか?」


納得のいかない顔で、龍華は言う。この手の押し付けがましさは、もはや日常茶飯事だ。


「舎弟じゃねえ。少なくとも、そんな契約書にはサインしてねえよ」


「まあまあ。細かいことは気にすんな。大事なのは、アタシとお前の仲だろ? な?」


上目遣いで見つめてくる龍華に、俺は溜息をついた。


(マジでこの娘、わけわかんねえな……)


数日前に出会った時から、彼女の行動は非常識の塊だった。


突然家に上がり込み「これからはここで暮らす」と言い出したのも、「お前はアタシの舎弟だ」と一方的に宣言したのも、彼女なのだ。


説明も聞かずに暴れ回っては、何度もトラブルを起こす。


武術の達人だとか言って、常にケンカを売りたがる。


挙句の果てには、見ず知らずの男連中にいきなり懐柔されたりもしていた。


そのくせ、ちょっと優しくすれば簡単にデレてしまうのだから、もう……。


(いや、それはそれで可愛いんだけどな)


ぼんやり龍華のことを考えていると、キッチンから良い香りが漂ってきた。


「お、もうすぐ出来上がりそうだな。龍華、ちょっと手伝ってくれ」


「は? アタシに料理を作れだと? 舎弟の分際で生意気……」


「違う違う。味見してくれって言ってるの」


小さな鍋を差し出すと、龍華はわけがわからないといった顔をしながらも、おずおずと口をつけた。


「……美味い! この味は……まさか、伝説の隠し味、『龍涎酒』を使ったのか!?」


「龍涎酒? なんのこっちゃ。それより、味はどう?」


「うむ。上出来だ。さすがアタシの舎弟……ではなく、祐樹よ。見直したぞ」


そう言って、龍華は柔らかな笑顔を見せた。 それを見た瞬間、俺の胸がきゅっと締め付けられる。


(……可愛い。この笑顔を守りたい)


龍華のワガママに振り回されながらも、そんな気持ちが日に日に大きくなっていくのを感じる。


このままこの日常が続けばいいのに。

そう思った、そのすぐ後だった。


「お二人さん、楽しそうですねぇ」


突然、聞き覚えのある声が響いた。


振り向くと、そこにはあの時のコンビニ店長……『時任』さんの姿があった。


「お、時任さん。どうしたんですか、急に。それに、どうやって入ってきたんです?」


「呵呵。扉のロックなんて簡単に外せるじゃないですか。それより……」


そう言うなり、時任さんの視線はピタリと龍華に定まった。


「龍華ちゃん……じゃないですか。まさか、ご一緒にいるとは驚きました」


「……アンタ、アタシのことを知ってるのか?」


怪訝そうな顔をする龍華。


対する時任さんは、ニヤリと笑みを浮かべた。


「知ってるも何も、私はあなたのお爺さんの親友ですよ。龍牙幇と私は、長いお付き合いでして……」


「えっ? それって、アタシが探してた人……?」


「そうです。そして今、あなたを追っている連中の正体も知っています」


凛とした面持ちで、時任さんは言った。


「話は長くなりそうですが……覚悟はいいですか? 祐樹くん、龍華ちゃん」


時任さんの言葉に、俺と龍華は顔を見合わせる。


大きく頷くと、龍華が言った。


「……話してみなさいよ、時任さん。それに、覚悟はとっくの昔にできてる」


「まったく懲りない性格だ。まあ、それがお前の良いところでもあるんだがね」


苦笑しつつ、時任さんは話し始めた。


龍華の抱える事情。彼女が追われている理由。

龍牙幇と呼ばれる武林の存在。

そして、『龍玉』と呼ばれる秘宝のこと……。


それらを聞いた俺は、自分が巻き込まれた事態の大きさに、改めて圧倒された。


(……まさか、こんな世界が隠れていたなんて)


想像を絶する話の数々。

常識では考えられないような事実。

それを聞かされた俺の頭は、ジンジンと痛んだ。


だが同時に、俺の中のある感情……龍華を守りたいという気持ちが、急激に募っていくのを感じた。

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