第七話:別れ道と新たな旅路

バルガスが洞穴にやってきてから、十日ほどが過ぎた。彼の左腕の傷は、驚くべきことに、もうほとんど跡形もなく癒えていた。俺が錬成した軟膏の効果もあるだろうが、獣人族特有の治癒力の高さもあるのだろう。彼の動きには以前の鋭さが戻り、軽い鍛錬では俺が全く歯が立たなくなっていた。


その日の夕食後、焚き火の火を見つめながら、バルガスは静かに切り出した。


「アッシュ。世話になったな。傷もすっかり良くなった。…そろそろ、俺は行かなければならない」


その言葉は、いつか来ると分かっていたものだった。それでも、実際に聞くと、胸の奥が小さく軋むような感覚があった。


「…そうか。もう、大丈夫なんだな」


俺は努めて平静を装い、燃えさしをいじる。表情には出さないようにしていたが、バルガスには見透かされているような気がした。


「ああ。お前のおかげだ。この恩は忘れん」


彼は真っ直ぐに俺を見て言った。その真摯な瞳に、嘘はないのだろう。


「…どこへ行くんだ?」

「少し…確かめなければならないことがある。俺が騎士団を追われることになった、あの事件の真相をな」


彼の声には、硬い決意が滲んでいた。多くは語らなかったが、彼にとってそれは譲れない目的のようだ。


「そうか…」


俺はそれ以上、何も聞けなかった。彼の問題に、俺が踏み込む資格はない。


洞穴の中に、沈黙が落ちる。焚き火の爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。


(これで、また一人になるのか…)


七年間の孤独は、確かに辛いものだった。だが、一度他者との繋がりを知ってしまった後の孤独は、以前よりもずっと堪えるかもしれない。


「…アッシュ」


バルガスが再び口を開いた。


「お前は、これからどうするつもりだ? このまま、この森で一人で生きていくのか?」

「…分からない。俺には、知りたいことがある。この力のこと…錬金術のこと、そして…」


言いかけて、口ごもる。『情報奔流』の呪いのことだ。この呪いを解く方法を見つけなければ、俺はいつかこの力に呑まれてしまうだろう。だが、それをバルガスに話すべきか…?


俺が迷っていると、バルガスは意外な言葉を口にした。


「…もし、お前さえ良ければ、俺と一緒来るか?」

「え…?」


予想外の提案に、俺は顔を上げた。


「お前のその力は、確かに危険かもしれん。だが、使い方次第では大きな助けになる。それに、お前ほどの知識と才能があれば、外の世界でもきっと何か道が見つかるはずだ。このまま森に埋もれさせるのは惜しい」


彼の言葉は、魅力的だった。外の世界への強い興味。錬金術の知識を深めたいという欲求。そして何より、バルガスという初めて得た「仲間」のような存在と一緒にいられること。


だが、同時に不安もあった。外の世界の危険。錬金術が禁忌とされていること。そして、俺が抱える「呪い」という爆弾。バルガスを巻き込んでしまうかもしれない。


「…いいのか? 俺は、あんたの足手纏いになるかもしれないぞ。それに、この力は…」

「足手纏いかどうかは、やってみなければ分からんだろう。力についても、お前が慎重に扱えば問題ない。俺もできる限りお前を守ろう。…まあ、逆にお前に助けられることの方が多いかもしれんがな」


バルガスは悪戯っぽく笑った。


俺は俯いて考え込んだ。森に残れば、安全かもしれない。自分のペースで研究を進められる。だが、得られる情報は限られている。呪いを解く手がかりも見つからないかもしれない。


外の世界へ出れば、危険は増える。だが、新たな知識、新たな出会い、そして呪いを克服するヒントが見つかる可能性もある。そして、バルガスがいる。


(…一人でいるよりは、きっと…)


合理的に考えれば、どちらの選択にもメリットとデメリットがある。だが、俺の心を動かしたのは、合理性だけではなかった。


「…行くよ。あんたと一緒に」


俺は顔を上げ、はっきりと告げた。


バルガスは少し驚いた顔をしたが、すぐに力強く頷いた。


「そうか! 決まりだな!」


彼の表情が、心なしか明るくなったように見えた。


こうして、俺の新たな旅立ちが決まった。具体的な目的地はない。まずはバルガスの「確かめたいこと」に同行し、その先で自分の道を探すことになるだろう。


翌日、俺たちは旅立ちの準備を始めた。俺はこの七年間で洞穴に溜め込んだ、必要最低限の道具や素材を選び出し、バルガスにもらった丈夫な革袋に詰めていく。壁に書き殴った図や文字は、全て頭の中に入っている。


最後に、俺はバルガスのために、一つの小さな錬成を行った。彼が森狼との戦いで少し傷んでいた革鎧の一部。そこに、手持ちの硬い鉱石と獣の骨を使い、防御力を強化する錬成を施したのだ。


《理解》《分解》《再構築》…集中!


完成した鎧の一部は、見た目はほとんど変わらないが、触れると分かるほどの硬度と、微かなマナの守護が付与されていた。


「これは…?」

「気休め程度だけど、少しは頑丈になったはずだ」

「…お前って奴は、本当に…」


バルガスは呆れたように笑い、しかしどこか嬉しそうにその鎧を受け取った。


準備が整い、俺たちは長年住み慣れた洞穴の入り口に立った。朝日が森の木々の間から差し込み、新たな始まりを告げているようだった。


だが、その時。


バルガスが不意に鋭い視線を森の一角に向け、低い唸り声を上げた。


「…どうしたんだ?」

「…いや。気のせいかもしれんが…少し、嫌な気配がする」


彼の獣人としての鋭い感覚が、何かを捉えたのかもしれない。俺も意識を集中させてみるが、特に異常は感じられない。


「…まあ、気のせいならいいんだがな。行くぞ、アッシュ!」


バルガスは気を取り直したように歩き出した。俺も頷き、彼の後に続く。


一抹の不安を胸に抱えながらも、俺の心は外の世界への期待で高揚していた。


七年間過ごした静かな森を背に、俺はバルガスと共に、未知なる世界へと足を踏み出した。その先にどんな運命が待ち受けているのか、まだ知る由もないままに。

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