第一章第一節:夜明けの神託

 

「――――っ!」

 

 瞼が強ばったまま、はじけるように開く。そこにあったのは、ただ黒く沈んだ闇。

 見えるものなどないはずなのに、私の緑色の瞳は怯え、虚空をせわしなく彷徨っていた。

 目だけが冴えていて、体が追いついてこない。

 

「……っ、あ……はぁ、はぁ……っ!」

 

 息を呑み、寝具をはねのけて跳ね起きる。

 呼吸が苦しい。肺がうまく動かない。

 耳の奥では、荒い呼吸と、心臓の音だけが不気味に反響していた。

 

 まだ日も昇らず、夜は深いまま。部屋は静まり返り、闇に包まれている。

 それがかえって、夢の続きのように思えて仕方がない。

 

 ――違う。そう、ここは私の部屋……決して、あの大広間……なんかじゃない。

 小さな机と、乱雑に積まれた本棚。それに寄り添うベッド。

 その傍らで、寝具が床に投げ出されている。

 一切の装飾もない、ただただ静かな部屋。

 でも、今その静けさが、逆に私を締め付けてくるようだ。

 

「―――っ!」

 

 頬を撫でる、ひやりとした感触に再度息をのむ。

 汗……だと思う。血じゃない、はず。

 だが、ぬるりと首筋を伝う雫が、衣の内側を這うたびに、背筋を冷たいものが貫いていく。

 あの感触を思い出す。骨を砕き、心臓を潰した、あの――

 

「――っ、また……また、あの夢……」

 

 ぎゅっと瞼を強く閉じ、恐る恐る震える指先を、そっと胸元に添える。

 決して穴が開いていたりは……しない。

 なのに、肌を通じて手に伝わる鼓動が、何かの“余韻”のように響いてくる。

 

 夢の中で、私は誰かと戦っていた。

 それは祈りの舞のようでもあり、剣を交える戦いのようでもあった。

 誰かのために。何かを守るために。

 でも、その結末は――

 

「胸を……貫かれて……死んだ」

 

 突き刺さる痛み。焼けつくような熱。

 そして、そのあとに訪れた、底のない“無”。

 ただ世界が終わっていくのを、静かに受け入れていた。


 全部、夢だった。

 ――そう、夢だったはずなのに。


 ……でも、夢の中で感じたあの痛みは、あまりにも現実的だった。

 

 鋭い拳が柔肌を裂き、骨を貫く感覚。

 心臓を押し潰されるような激痛が、何の前触れもなく私を襲って――


 息が止まり、全身が冷たくなっていった。


 なら、なぜ私はいまこうして生きている?

 それなのに、こうして目覚め、息をしている。

 生きているはずなのに、体のどこかが“死んだまま”のような感覚が拭えない。

 まるで、夢の中に置いてきた“私”が、いまだに何かを訴えているみたいだった。

 

 「ふぅ――……」

 

 吐き出した息が、静かな部屋の空気に溶けていく。

 それだけで、胸の奥に絡みついていた不安が、ほんの少しだけ息とともに解けていくようだった。

 

 私はゆっくりと立ち上がる。

 足元がまだ少しふらついて、さっきまで見ていた悪夢の余韻が、体の奥にへばりついて離れない。

 それを振り払うように、寝間着の紐へと手を伸ばした。

 はらり、寝間着が肩を離れる。

 月明かりが肌を撫で、静かな光の中に私の輪郭を浮かび上がらせた。

 夜の冷気が、素肌にそっと触れた。

 小さく震える身体を包むように、腰まで流れる青い髪が、背中を優しくなでる。

 その髪は、まるで静かな湖面のように、わずかな光を受けては柔らかく揺れている。

 

 私は神官としての身体を持っている――祈り、舞い、時に剣をとる者として。

 無駄のない筋肉がしなやかに付き、それでも女性らしさを削ぎ落とすことはなかった。

 特に、胸元は意識しようとせずとも、衣服の布地がそこだけ膨らみを孕む。

 舞うときには布が乱れぬよう、いつも工夫が必要だった。

 祈りを捧げる者にとっての“清らかさ”と、女としての形が交差する場所。

 私にとってそれは、誇りでもあり、少々の重荷でもある。

 

 畳んでおいた清めの白衣に手を伸ばす。

 白く白く漂白されたそれは、触れるだけで心が静まるようだった。

 

 袖を通すたびに、自分が“誰なのか”を思い出す。

 肩にかけ、そっと腕を通す。

 布が胸元を撫でると、そこだけ少しだけ張りつくような感覚がある。

 包み込まれるその重みと温度が、現実を告げるようで、私は小さく息を飲んだ。

 腰紐を締める手つきも、気がつけば祈りのように丁寧になる。

 一つ一つの所作が、乱れた心を少しずつ鎮めてくれる。

 深く呼吸をしながら、胸元の布を整える指先は、まだわずかに震えていたけれど

 

 窓から差し込む夜風が、頬を撫でていく。

 その風に揺れる自分の髪と、緑の瞳の奥に残る夢の影。

 まだ消えきらない闇を抱きながら、私はそっと蝋燭に火を点けず、部屋を出た。

 衣の裾が揺れ、夜の静けさに吸い込まれていく。

 私は歩き出す――夢の熱と痛みを、この冷たい空気にゆだねながら。

 

 神殿の回廊は、静まり返っていた。

 歩く音も、呼吸も、すべてが吸い込まれていくような無音の世界。

 ただ、自分の存在だけが浮き上がっている。

 あまりにも澄んだ静けさが、かえって不自然に思えるほどだった。

 

 私は、何度か足元に視線を落とした。

 石の床の感触は冷たく、乾いていて、確かに“現実”のものだった。

 それでも、この感触すらも、どこか借り物のような距離感がある。

 この身体が、本当に私のものであるという実感が、いまひとつ掴めない。

 

 一歩踏み出すたび、胸の内側に、冷えた棘が刺さる。

 それは傷ではなく、夢に置き去りにされた感情だった。

 まるで、“何か”が未だ私の中で終わっていないようだった。


 それが何を意味するのか、はっきりとした答えは見つからない。

 ただ――悪夢が、耽る思考の隙間に入り込んでくる。

 

 私は死んだ。けれど、目覚めているということは――

 しかし、あれは本当に夢だったのか?それとも、死という事実のあとに、私は“別の何かとして“戻ってきた”のか。

 

 そんな荒唐無稽な考えに、思わず苦笑しかけた。

 理屈では説明できないことに思考が傾くのは、きっとまだ心のどこかが混乱している証拠だ。

 

 ――だが、理屈だけで片づけられるほど、あの夢の感覚は薄くはなかった。 

 

 ――あの熱、あの冷たさ、あの声、あの絶望――


 どれもが、夢にしては鮮明すぎた。

 幾度となく見せられた悪夢の中で五感に刻みつけられた感覚は、通常の夢とは明らかに異なる。


「私は……本当に、生きているの?」

 

 口に出したその言葉に、意味はない。

 けれど、声にすることで、少しだけ心が落ち着いた気がした。

 現実感を手繰り寄せるための、ひとつの手段。


 まだ、答えは出ない。


 だが、少なくともこの疑問が、今の私を確かに形づくっている。

 ならば、それを否定せず、受け止めてみよう。

 すべてを言葉にできなくても――

 私は、考える。感じる。そして、歩いている。


 たとえ“本当の意味”での生が、まだどこかに置き去りにされているのだとしても。


 考えがまとまらぬまま、一人、祈りの間へと足を運ぶ。


 そこは岩と石で形作られた、質素で静謐な礼拝の空間だった。

 華美な祭壇も、神像もない。ただ、中央には清らかな水をたたえた水盤が置かれ、

 天井の開口部――天窓から、淡く揺れる神光が差し込んでいた。

 

 この場は、言葉で祈る場所ではない。

 水に身を預け、己の魂を澄ませることで、神と静かに向き合うための場所。

 

 私はそっと足を踏み入れる。

 冷えた石床が足裏から伝わり、空気は張りつめたように澄んでいる。

 ちゃぷ……と、小さく水面を破る音が、広がる静寂の中に染み渡った。

 白衣のまま膝を折り、水盤に身を屈める。

 手を胸の前で重ね、静かに瞳を閉じる。

 

 無になりたい――

 

 ただ、心の奥に巣くう闇を、静かに洗い流したい。

 けれど、閉じた瞼の裏に浮かぶのは、何度も見たあの夢。

 

 私は夢の中で、死んだ。

 痛みと血の気の引く感覚までもが、はっきりと残っている。

 夢にしては、あまりに生々しすぎる。

 ――夢なのか、それとも。

  

「……神よ。なぜ、私は……」

「何度も“死ぬ”夢を見せられるのでしょうか」

 

 誰もいないこの空間で、思わず自然と口からこぼれた声。

 

 その時だった。

 

 風の通わぬ石の空間に、あり得ぬ変化が訪れる。

 水面が、音もなく――けれど確かに――震えた。

 ただの波紋ではない。

 それは、見えない何かが水の表皮を“触れた”かのような、異質な揺らぎ。

 空気が、静かに震える。

 氷のような冷気が、透明な幕となって祈りの間を包み込む。

 息を吸うたび、肺の奥まで澄んでいくような感覚――だが、どこか現実ではない。

 

 感じた。聞こえた。

 “耳ではない何か”が震える。

 音ではなく、熱でもない。けれど、確かに心の奥へと届く震え。

 魂の深淵に、滴のように落ちてきた。

 

  《……だ……》

 

 ――!?

 

  《……旅に出よ……》

 

 ――声。否。それは、言葉という枠組みすら超えた“告げ”

 

 否応なく身体の奥へと入り込み、思考を貫く光のようなもの。

 きっとそれは“啓示”としか呼べない――圧倒的な、神の意志。

 

 その瞬間――祈りの間に“音”が落ちた。

 

  ―――シャリン……っ

 

 清らかで、鋭く、澄み切った音。

 まるで何かが砕けるような音だった。

 現実に響いた音なのか、内なる世界の崩落だったのか――それさえ曖昧になる。

 

 そして、光がはじける。

 

 それは白銀の羽根が舞い降りるように――

 無数の光の粒が、空から降りた。

 

 けれど、はっきりとわかった。

 

 ――世界が、変わった。

 

 呆然と立ち尽くす。

 

 「――……これは……神託……?」

 

 囁きにも似た声が、静けさの中に溶けていく。

 

 そして、天窓の向こう、東の空が紅に染まりはじめる。

 朝日が昇るその瞬間、太陽の光が祈りの間に差し込み、私の顔を照らし出していた。

 

 その表情は歓喜のものか、恐れのものか、私にはわからない。

 だが、確かに――その瞳は、遥か遠くを見つめていた。

 静かに、しかし揺るがぬ意志を湛えながら。


 

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