第12話 夜明けの空。

 福岡に引っ越してからあっという間に時間が流れていく。

 祖父の商店を継いだ両親は、仕事に慣れるまでが大変だったものの、今では笑顔で働いている。


 夏美は高校三年生の夏なんていうほぼほぼ学生生活終わりかけの時期での転入だから、だいぶ珍しがられた。

 けれどクラスメートはみんな気のいい人で夏美は早くクラスに溶け込んでいた。

 毎日学校が終わるとソラと電話して、今日あったことを話すのが日課になっていた。

 ソラの声を電話越しに聞くのは何ヶ月経っても慣れない。離れるまでは毎日隣に居たのに。

 隣に住む幼なじみという環境が、どれだけ幸せだったのかわかる。

 ソラのところに行く日を、卒業の日を心待ちにしていた。


 卒業式を終えたあと、夏美は福岡空港に向かった。

 出発ロビーでスーツケースを引きながら、搭乗案内の電光掲示板を見上げた。


 羽田空港行きの便の出発まで、あと一時間。

 登場前の手荷物検査の列は、満員電車なんて比じゃないくらいギュウギュウになっている。もっと早く来ればよかったかな、なんて後悔してしまう。


「夏美」


 振り返ると、両親が並んで立っていた。


 父が、どこか寂しげな、それでいてどこかおかしそうな笑みを浮かべている。

 母は泣きすぎてハンカチをグショグショにしていた。ハンカチは涙を吸いすぎて色が変わっている。


「お母さん。泣くの、早くない?」

「えっうっ。だってぇ、夏美がついに巣立っちゃうんだもの……」

「もー。別にもう二度と会えないわけじゃないのに。お盆や年末には帰ってくるから」


 そう言いつつ、夏美も胸がじんと熱くなるのを感じていた。

 父が、手に持っていた白い封筒を差し出した。


「夏美。向こうに着いたら、これをソラくんに渡してくれ」


 封筒の宛名には、達筆な字で「星野ソラ様」と書かれている。


「なにこれ?」

「いいか娘よ、この封筒をソラくんに渡すまで絶対に中を見るな。絶対にだ!」

「えぇ……? 何、そのひと昔前の芸人の「絶対押すなよ」みたいな前フリ」

「とにかく開けちゃだめだ」


 封筒には折り畳んだ紙らしきものが入っている。生活費、というわけでもなさそうだ。お金を入れるにしては封筒が大きい。というか生活費なら、安全に配慮して振り込みにするだろう。


「……もしかして、「俺の目の黒いうちは同棲を認めない!」みたいな古いドラマに出てくる頑固親父系の説教が書き連ねてあったりしないよね?」

「あっはっはっ! まさか。おれがソラくんに説教するなんてとんでもない。それに一緒に暮らすのを許さないなら、はなからここで見送りなんてしないだろうが」

「それもそっか」


 夏美は首を傾げつつ、封筒をバッグの中へしまった。



 飛行機の中では腕時計の針を見ながら、着陸予定時刻を待っていた。

 星空の中を銀色の針がぐるりとまわっている。


(この時計をつけていたら、新しい高校でみんなに質問攻めにされたんだよなぁ)


 明らかに男物の腕時計で、文字盤の裏ブタにはソラの名前が刻印されていたからだ。

 夏美には遠恋中の彼氏がいると即日クラス中に広まった。


 噂になることを折り込み済みで、ソラが腕時計を贈ったなんてこと、夏美は気づいていない。



 空の旅を終えて羽田空港の到着ゲートを抜け、スーツケースを転がす。

 

「夏美。おかえり」


 聞き慣れた声。黒のコートを羽織ったソラが、歩み寄ってきた。

 久しぶりに会ったソラは、ほんの少しだけ大人びて見える。

 何か期待するように、両手を夏美に差しのべる。


「ただいま、ソラ」


 夏美は少し照れながら、ソラの胸に飛び込んだ。

 嬉しくて顔がにやけそうになるのを必死に抑える。

 こんな恋愛ドラマみたいなことを自分がする日が来るなんて思いもしなかった。

 ソラはぎゅっと夏美を抱きしめて、この半年で伸びた夏美の髪を指ですく。


「会いたかった」

「私も、会いたかった」



 ソラは無事に推薦入学を果たし、この春からはれて東大生だ。


 夏美も東京で仕事を見つけた。

 あの夜の約束通り、これから二人で同棲するのだ。


 夏美は父から預かった封筒を渡した。


「ソラ。これ、父さんがソラに渡せって」


 ソラは封筒を受け取り、内容を半分だけ引き出して、ふっ、と笑った。


「……な、なに?」

「夏美。中身、見てないの?」

「見てないよ。「絶対見るなよ!!」って、なんか芸人の前フリみたいなこと言われたし」

シールをしていないから、見ようと思えばいくらでも見れるし、勝手に読んだってバレないのに。律儀に開けないまま持ってくるなんて可愛いよね。夏美は」

「どういうこと?」


 何やら含みのあることを言って、ソラは夏美の頭を撫でた。

 中身が何なのかすごく気になる。でも勝手に見ちゃいけないものだと言われているからがまんした。

 ソラがスーツケースを持ってくれて、これから住むことになるマンションに案内してくれる。




 東京は新潟のように雪が降ることはあまりないけれど、海からの風が強いのか痛い風が吹く。高層ビルが建ち並ぶ景色に圧倒されてしまう。真上を見てもビルが視界に入り切らない。そんなに大きい建物、新潟には無かった。


 新幹線がとまる主要駅から小さな駅へ乗り換える。

 閑静な住宅地へ抜けると、町並みは新潟の「ちょっと栄えている駅前」くらいのぷち都会になった。


 居るのは散歩をするおばあちゃんや犬の散歩をするおじさん、自転車に乗った子どもたち。なんとものどかな光景だ。


 茶色い壁のマンションの前で足を止める。

 四階建ての古めのマンションは、学生やふたり暮らし向けの物件で、都心から離れているからそこに比べると家賃が安い。

 地域密着型の小さなスーパーが近くにあって買い物に困らない。それでいて通学に使う駅が徒歩圏内という、理想的な住まいだ。


 初めての二人暮らしに、夏美は胸踊らせた。


 ソラのスマホが震えた。ソラは画面を見て苦笑する。


「誰から?」

「リクからだよ。専門学校で彼女見つけて夏休み実家に帰るときに紹介してやる! だって」


 スポーツが好きなリクは、スポーツトレーナーの専門学校に進学した。将来の夢はジムのパーソナルトレーナーになることだと胸を張っている。長年陸上部にいて根性があるから、リクなら大丈夫だろう。


 階段を登りながら、不意にソラがポケットから何かを取り出した。


「夏美。合鍵、渡しておくね。夏美もこれから住むんだから、持ってて」


 手のひらに乗せられたのは、銀色のディンプルキーだ。


「ありがとう。……なんか不思議な感じだね。ソラといる今が夢で、本当はまだ八月のループの中だったら、怖いな」


 夏美は今でもときおり、八月八日をくり返していたあの日の夢を見る。

 起きて外を見て、今ちゃんと現実にいることを確認してしまう。


 ソラはそっと夏美の手をとり、指をからめる。


「ちゃんと、ここにいるよ。夏美と暮らしたくて受験頑張ったんだから、なかったことになったら泣いちゃうよ」

「うん」


 夏美は手を握り返して、確かにソラと二人でここにいるんだと実感する。



 鍵を開けて中に入ると、ソラの使う部屋は整理整頓されていた。

 夏美が送った荷物も届いていて、夏美の部屋に置いてある。

 コートをラックにかけて、クッションに座る。リビングは二人で暮らすなら十分な広さがある。夏美のお気に入りの黄色い猫クッションもちゃんと置いてあって、夏美は笑顔でクッションを抱きかかえる。


「ねえ、今日はソラの誕生日だよね。誕生日プレゼント、何がいい? 私にできる範囲でならなんでも用意するよ」


 ソラとリクは三月十日生まれ。卒業シーズン只中だから、誕生日プレゼントと卒業祝いを一緒くたにされがちだ。

 だから夏美は毎回、卒業式のときでも二人に誕生日プレゼントを用意していた。

 ソラは夏美の肩に寄りかかって、昔を懐かしむように目を細める。


「夏美。小学三年生の時さ、クラスメートに僕たちの名字のことでからかわれたの覚えてる?」

「ええと、私の名字が青井だから、ソラが婿入りしたら星空が青空になって、笑えるよなー、って言われたあれ?」


 子どもというのはとても残酷なもので、変えようがない名前や容姿をいじる。分別のつかない小学生ならなおのことそう。

 からかってきた男子たちは先生に叱られていたけれど、いじられた当人のソラは平然としていた。


「なんでも願い事叶えてくれるなら、青井ソラになりたい。夏美が結婚してくれたら、大学の勉強すごく頑張れるんだけどな」


 抱きすくめられて耳元で囁かれる低い声に、夏美は体を震わせる。

 子どものような甘えた声。

 子どもみたいなことを言うのに、力は確かに成人男性のもの。身じろぎしても、ソラの腕はほどけない。

 夏美の鼓動が早くなる。


 触れているソラの鼓動すらも聞こえて、頭の中はパニックだ。


「……ちょ、ちょっと、待って。ソラ」


「もう待たない。僕は、あのループの中でたくさん待ったよ。それにね、僕たちが結婚するとメリットがたくさんある」

「それってどんなメリット?」


 ソラの瞳を覗き込むと、ソラはコツンと夏美の額に額を合わせてプレゼンをはじめる。


「僕が青井ソラになると、夏美は浮気の心配をしなくて良くなるよ」

「心配したことないよ」

「へぇ? …………僕が篠原さんに告白されたときに、あんなに必死になっていたのに? 夏休み開けに学校に行ったら、篠原さんに「恋人さん、独占欲の塊ですか」って言われたんだけど」

「あーーー! わーーー!! わーーー!! それは、それは、ええと、違うの、違うんだから!」


 恥ずかしい思い出を引っ張りだされて、夏美は両手で自分の顔を隠す。


 あのときはソラを渡したくない気持ちでいっぱいだった。

 ソラの隣に他の女の子がいるなんて絶対嫌だと思った。ソラの一番近くは自分だけのものだと。

 我ながら相当重い女だ。



「「ソラの隣を取らないで、ソラじゃないとだめ、ソラが好き」そう言ってくれたのは夏美なのに。そっか。同棲はしても結婚はするつもりなかったんだ。残念だなぁ。僕は結婚するつもりであれこれ準備していたのに」



 耳元であのとき自分が言ったセリフをリピートされて、夏美は恥ずかしさで悶えて転がった。

 ソラは完全に面白がっている。


 顔をおおう夏美の手をはがして至近距離で見つめてくる。夏美は顔が熱くなってソラを直視できない。



「平気でアイスをあ~んってしてきていた夏美が、これくらいのことで照れるなんて想像できなかったよ。自分だってじゅうぶん恥ずかしいことしてたじゃない」

「ううぅ。ひどい、ひどいよ。ソラの意地悪。それに、結婚って、うちの両親とソラのところのおじさんとおばさん、リクにも話さないとでしょ? 今すぐなんて、そんな」


 予想外のタイミングでプロポーズされて、夏美はもう頭の中ぐちゃぐちゃだ。

 そんな夏美に、ソラは父から託されたあの封筒を見せる。


「ふふふ、夏美。これ、中身を見てみなよ」

「え、なんで」

「開ければわかるよ」


 含み笑いしているソラを横目で見ながら、夏美は封筒におさめられていた紙を開いた。




【婚姻届】




 何度読んでもそうとしか読めない。恋愛ドラマでよく見るあれ。


 しかも夫になる人の欄はソラの名前で埋まっていて、証人欄にはソラと夏美の父親の名前がある。


 夏美がサインすれば完成する状態の婚姻届。



「ええええええええっ!!?? ソラ、これ!!!!」

「勝手に読まない、という判断をした夏美は賢かった。途中で見たら飛行機の中で叫ぶことになっていたね」


 涼しい顔で笑うソラ。

 外堀を埋めるどころか、夏美が知らないうちに埋め立てた外堀の外側に見上げるほど高い石垣を築かれていた。




「カモがネギを背負ってきたってこういうことを言うのかな」


「お父さんがニヤニヤしていた理由って、これのこと!? お母さんの巣立つって、こういう意味!? 早く言ってよ! ていうかいつの間にお父さんたちと話をすすめていたの!?」


 別れを惜しんで泣いていたんだとばかり思っていた母親が、嫁に出すから泣いていたなんて予想外すぎる。


「正月に一度、夏美の家に行ったでしょ。そのとき夏美のご両親に「高校卒業したら夏美と結婚させてほしい」ってお願いしたんだ。二人とも喜んでくれたよ。うちの子をよろしくって言って、その場でサインしてくれた。こっちに来る当日まで黙っておいたほうがサプライズになるからって、提案したのはおじさんなんだよ」


「ねえちょっと。本人である私をそっちのけで話をすすめてたの?? お父さんとお母さんもグルなの?」


「グルとはひどい言い方だなぁ。ご両親だって、娘と結婚する気のない男と同棲させないでしょう。「僕が夏美の夫にふさわしくないと思うなら婚姻届は破り捨てていいし、同棲も駄目だと言ってください」とちゃんと頭を下げたよ」


 夏美は何も知らず婚姻届を運んできた。

 夏美がここにいることが、何よりの両親の答えだ。

 旅支度をする夏美を見ていた両親は、さぞ面白かったことだろう。



「それで、夏美の答えまだ聞いてないよ?」

「うぅ、ループのときのソラは急かすのは良くないって言ってたのに。こんなグイグイ来るようになっちゃって……」


 気持ちが追いつかない夏美が文句を言うと、ソラは夏美を持ち上げて自分の膝に座らせた。

 額をコツンと当てて、両手で夏美の頰を包み込む。

 


「夏美にはハッキリ言わないと伝わらないって、あのときわかったから。誕生日プレゼントは、夏美がいい。結婚して一生一緒にいて」


 優等生として振る舞うのをやめた素直なソラは、無垢な子どものようだ。

 子どもみたいに純粋に笑っているけれど、言葉の中身は愛の告白。

 誰に対しても平等で一歩引いて接してきたソラが、夏美にだけはこんなに独占欲を顕にする。こんな顔を見せる相手は夏美だけ。

 飾らないプロポーズがストレートに胸を突き刺してきて、夏美は陥落した。


「…………ず、ずるいよソラ。私が、ソラのお願いを断れるわけないじゃん」

「僕は好きってちゃんと言葉にしているのに、夏美はソラ大好き、私も結婚したい! って言ってくれないの?」

「ばか」

 

 恥ずかしさのあまり、夏美は半泣きでソラの胸を叩く。拳はいともたやすくソラにとらえられた。

 手を重ね合わせて、ソラは柔らかく微笑む。

 幼い頃は同じくらい小さかった手のひらは、すっぽり夏美の手を包み込む。


 大きくて温かい手のひらは、緊張でほんのり汗ばんでいる。きっと夏美の手も同じ。



 ソラの瞳に、夏美が映っている。

 夏美が断るなんて微塵も思っていない目をしているのが悔しい。

 でも実際に、夏美の中にある答えは一つしかない。

 何を差し出されたって、ソラの一番を、このポジションを他の人に譲るなんてできない。


「…………私も、結婚するならソラがいい」

「ありがとう、僕も夏美がいい」


 夏美は瞳をとじてソラの口づけを受け入れた。



 




 こうして十八回目の誕生日に、星野ソラは青井ソラになった。

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