第3章 蔵書閣

第12話 澄瑜殿は魔性の男

 夏のじんわりとした暑さがここ蔵書閣にもやってきた。竹林に囲まれているので、後宮のほかのところより涼しいといえば涼しいが。


 静蓮せいれんは蔵書閣での生活に少しずつ慣れてきていた。


 孫賀そんがの世話をし、本の貸出などを行う。孫賀は華紹かしょうと違ってやれることは基本的に自分で行う。理不尽なことは何も言わない。叱られるときは確実に静蓮が誤りを犯したときだけだ。

 孫賀はいつも後宮の記録をつけているが、静蓮はその記録をつける手伝いはさせてもらえない。


 華紹といえば、孫賀に静蓮の身柄の引き渡しを要求してきたらしい。ただ、そのとき静蓮は孫賀の使いで韓策かんさくのところへ書籍を届けに行っており、事なきを得た。

 孫賀が「あんた、母后に相当恨まれてるね。何やったんだか」と言ってきた。


 何を恨まれているのだろう。どれだけ記憶を掘り起こしても、華紹に何かしたことなどない。無礼な発言は言わないよう厳しく母に言われてきたし、未来の姑として精一杯敬意を払ってきたはず。


 ──わからない……。


 しかし、華紹に会って、自分のどこに文句があるのか聞けるわけでもない。

 


 暑さにぼんやりしていると、「ねえ」と甘ったるい声がかけられた。目の前にはくりくりした目が印象的な、肉感的な愛らしい美女がいる。皇帝の側室のひとり、范美人はんびじんだ。


「あっ」と静蓮は用意していた本を渡す。


「はい、お望みの恋愛小説です」


 すると范美人はぽってりした紅い唇をすぼめた。


「ありがと〜!」


 明るい女性だ。郭淑妃かくしゅくひが華やかで思い詰めやすそうだったのに比べて、范美人はどこまでも明るく愛らしい。


「これでつれない主上の御心がつかめるはずよっ」


 だが、悩みは同じだ。皇帝は范美人を二週間ほどずっとそばに置き、情熱的に寵愛を与えたあと、ぱったり何もしなくなったのだという。范美人が涙ながらに蔵書閣にやってきて、先ほどまで大声で喚いていた。


 元婚約者の放蕩が過ぎる。


 ──范美人なんて、殿方はみんな好きになってしまいそうなくらい可愛らしいけれど……。


 多少心がさざなみ立つのを感じながら、静蓮は思った。


 何か作業をしていた孫賀が、范美人が持ってきた麻花マーファ片手に本棚の奥のほうから顔を出してきた。


「最近の後宮はいかがです?」

「わたくしと賈充儀は飽きられて、郭淑妃が今はご寵愛を取り戻しているの。でも蔡昭容や貴妃になられる予定の琴瑶様もおいででしょう?」


 なんだか側室をぐるぐると取っ替え引っ替えしてるわね、と静蓮はもやもやした。


 ちなみに賈充儀はとんでもなく肉感的で妖艶な美女で、蔡昭容はちょっと冷たそうだがしっかりした考え方をする美女である。


 蔵書閣に顔を見せにきて、同じようなことを孫賀に相談し、同じような言葉を吐いた。


 范美人はうっとりとため息をつく。


「でも、でも、わたくしが一番あの方を理解していると思うのよね。あの方は傷ついておいでで、疲れておいでなの。でも乱れていた天下を平定したくて、……あの美しいお方はわたくしだけを見ていればいいのに。わたくしが一番お支えするのに」


 きわめつけがこれだ。郭淑妃も賈充儀も蔡昭容も同じことを言った。


「誰よりも、郭淑妃より賈充儀より蔡昭容より主上を理解してますから! わたくしが!」


 魔性の女とか妖婦と呼ばれる女性の伝記を、静蓮は読んだことがある。彼女に引っかかった男が同じような言葉を吐いていた。


 ──ということは……澄瑜殿は魔性の女ならぬ、魔性の男ということに……?


 静蓮は、まあ、と顔を青ざめさせる。

 魔性の女は王朝をよく滅ぼす。


 ──いけないわ。いけない、このままだとせっかく新しく築いた王朝が滅びてしまうわ!


 何がどうなって滅びるか静蓮にはまったくもってわからないが、このままだと危うい気がした。

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