第8話 責任を取ってくださいませ!

 ***


 幸せだった頃の夢を見た。

 静蓮せいれんは婚約者が大好きだった。


 たぶん静蓮は十代の半ばで、澄瑜ちょうゆが十代後半くらいだったと思う。静蓮が澄瑜のところに遊びに来ていた。

 

 庭の奥で、二人っきりで、さんざん様々なことを話した。

 後宮で飼っている猫が逃げてしまったとか。最近読んでいる本はどうだとか。学者の講義は楽しいとか。


 澄瑜の話も聞いた。

 彼は名門貴族の息子でありながら市井に降りてあちこち遊びまわっていたが、庶民の暮らしぶりについて憂慮していた。


「だったら——」


 静蓮はなんということもなく澄瑜の肩に頭をもたせかけた。

 大好きな人が悩んでいる。精一杯頭を絞って考えた。


「あなたが救えばいいんじゃないかしら」


 すると彼は「また、そんなことをおっしゃる」と吹き出した。静蓮は胸を張る。


「あなたならできるわ。たぶん。よくわからないけど。お父様をよく助けていて、琴瑶きんようの贅沢にも意見が言えるのだもの。あなたならできるわ」


 少し目の前が陰った。澄瑜の美しい顔が近づいてきたのだ。

 唇を重ねられた。

 静蓮はそれだけで嬉しくなってしまう。大好きな澄瑜に口付けてもらった。

 本当に幸せな日——。

 


 うっすらと目を覚ます。静蓮は自分が后妃の使うような豪奢な寝台に寝かされているのに気づいた。


「……」


 下女である自分がどうしてこんなところに寝かされているのだろう。

 疑問で頭がいっぱいになっていると、隣で男性のものとおぼしき寝息が聞こえた。


 ——え。


 凍りつきそうになって振り向けば、澄瑜が隣で眠っている。


 相変わらず美しい顔だと思う。雪花石膏せっかせっこうを思わす白い肌。通った鼻筋。描いたように凛々しい眉。整った長い睫毛。


 ——では、なく、て。


 静蓮はその瞬間、考え込んだ。自分は……皇帝の寵愛を受けてしまったかもしれない。


 どうしよう、と恐慌した。この一夜で子を身籠ったとする。その場合はどうなるのだろう。妃嬪に取り立てられてしまうのだろうか。


 澄瑜には今どれだけの妃嬪がいるがわからないが、たぶんそれなりにいるに違いない。みんな華紹かしょうみたいな人柄なのではあるまいか。彼女らの嫉妬に苛まれる生活が始まる。


「……」


 懸命に昨晩のことを思い出そうとする。昨日は韓策から末妹の紫葵しきのことを聞いて、それ以降の記憶が朦朧としている。ただ、なんだか寝ている最中、澄瑜が触れてきた気がする。


 ——寝込みを襲ったの?


 信じられない、と静蓮は澄瑜を蔑むように見た。自分の体を抱きしめる。


 元婚約者とはいえ許せない。


 すると、のんびりとあくびをしながら澄瑜が目を覚ます。彼は静蓮を見るなり、顔を真っ赤にした。


 静蓮は低い声で澄瑜をにらみすえた。


「昨日、何かありました? なぜ主上が私の横で眠っておられるのでしょう」

「それは、静蓮様が心配で。まったく食べ物をお召し上がりにならないから——」


 澄瑜は心底心配そうな顔をした。直後、何か思いついたようににっこりと笑って顔を覗き込んだ。


「そうですね。どうしましょう。私としては昭儀しょうぎにして差し上げてもよろしいくらいですけど。今は欠員なので」


 昭儀といえば側室の最高とされる四妃に次ぐ位だ。静蓮は自分の腹に手を当てる。

 それより、今は欠員なのでとはどういうことだ。やはりこの男、妃嬪が大量にいるだろう。


 なんだか気持ち悪くなってきた。つわりだろうか。静蓮は公主だったゆえにほとんど男女のことを知らないが、男女が交われば子を授かること、身籠もればつわりが来ることは知っている。


「……ひどい」

「え?」

「責任を取ってくださいませ! 澄瑜殿の軽率な行動のせいでわたくしのお腹に子が! うっ」


 静蓮は口を押さえた。


「気持ち悪い……」


 澄瑜は少しだけのけぞった。


「ちょっと待ってください。そうだ、あなたは……そうだ。こういう冗談は言ってはいけない人だった」


 澄瑜が手を叩く。すると女官が粛々と食事を持ってきた。


 蟹雑炊かにぞうすいであった。ぐう、と静蓮の腹が鳴った。どうやら空腹のあまり気持ち悪くなっていただけらしい。


 雑炊を二人で食べたあと、澄瑜の言い訳を聞いた。


「私は全く何もしていません。静蓮様に無体はしていません」


 疑わしげに静蓮は澄瑜を見る。


「本当に……?」

「本当です。私は皇帝ですよ。皇帝の言葉を疑うおつもりで?」


 すぐに気分が削がれていった。そうだ、目の前の男は大好きな婚約者ではなくなった、と改めて意識する。先ほどは妃嬪だなんだと思ってしまったが、自分で思うのと相手に言われるのでは随分と差がある。蟹雑炊を口に押し込みながら、地獄である今を思い出す。


「主上……なのですよね。あなたは、もう」


 静蓮はうつむいた。


「はい」


 その断定が、静蓮の心に突き刺さった。でも、聞いておきたかったことを聞く。父帝を殺した逆臣を、澄瑜は殺した。


「父を殺した人は、どんな人でしたか?」

「……外道中の外道でした。皇帝の寵愛を笠にきて、私利私欲に走って民を虐げた。皇帝にそれが露見すると皇帝を恨んで殺害した」

「父は……悪い皇帝だったのですか。だから殺されたのでしょうか」


 それには答えず、澄瑜のほうが聞いてきた。


「それより、私を恨まないのですか?」

「え?」

「あなたのお父上のものだった王朝を奪ったのに」 


 静蓮は力なく微笑する。


「……恨めるほど、元気があれば良いのですが」


 ふと見れば、澄瑜は泣きそうな顔をしていた。だが、すぐ表情を改めた。


「静蓮様、もとのように公主として扱えず、大変心苦しいのですが、蔵書閣で過ごして頂けますか。そうすれば安全かと思います」

「蔵書閣?」


 静蓮は首を傾げる。

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