26 大切なもの

 それから、時は過ぎ、一週間が経った。あの晩、千利が手紙を読み終えたあと、いくつもの出来事が立て続けに起きた。


 あの手紙は、すぐに奏多に届けられるというわけにはいかなかった。今回の暴動を紐解く手がかりをそう簡単に『組織』は手放さなかった。

 手紙の文面はすぐにコピーされ、筆跡と文体、隠された暗号がないかの解析が行われた。封筒や便箋に残された指紋は精査され、科学捜査の技術が惜しみなく投入された。

 さらには、千利自身にも取り調べが行われた。

 千利は取り乱すことも隠すこともなく、すべてをありのまま語った。

 常磐学という男が、奏多という女性に宛てて残した手紙の内容。そこに書かれていた記憶操作の話、夜燈紡の存在、そして、常磐が自らに託した最期の依頼についてを。

 千利を疑う者もいた。だが、彼には『組織』を裏切るだけの動機がほとんどなかった。調査が進むにつれ、常磐学と夜燈紡がかつて国立の研究施設に籍を置いていた記録も見つかり、千利の供述が嘘ではないことが確認された。

 こうして千利は、解放された。


 奏多は、彼女自身の希望で、かつて研究で滞在していたイタリアのフィレンツェの地に住むことを決めていた。奏多にとって、日本のあの家は、あまりにも多くの思い出があって、それが失ったものを強く思い出させてしまうのだろう。

 そして、そんな奏多を『組織』は安全を保障すると申し出たのだった。千利にはその『組織』の意図は読みきれなかった。何か裏があるのか、それともただの恩赦なのか。だが、それでも、奏多の安全が確保されることは、純粋にうれしいことだとも思えた。


 奏多がイタリアに渡るまでの数日間、彼女は『組織』の施設の地下、隔離された部屋に滞在していた。そして今、千利は、奏多がいる、その地下の一室に向かっていた。

 千利は、その部屋のドアを静かにノックし、ゆっくりと開けた。そこには、椅子に腰かけ、穏やかな表情を浮かべる奏多がいた。彼女は、千利の顔を見るなり、優しく微笑んで言った。

「全部、聞いたわ。」

 千利は黙って頷いた。言葉を探していたが、彼女の方が先に続けた。

「あなたがいて、あなたが私を守ってくれたから、最後、あの人は自由になれたのだと思うわ。ありがとう。」

 千利は、持っていたカバンを開け、預かっていた手紙と、そっと一つの物を取り出した。

 それは、小さな子供用のグローブだった。柔らかく、けれど丁寧に手入れされていたその皮は、長い時間を経てもなお温もりを感じさせた。

「常磐学さんが借りていた、貸倉庫にありました。中のものは、全部きれいに整頓されていました。きっと……彼はロシアから日本に戻るたびに、倉庫に通っていたんだと思います。」

 奏多は、そのグローブをそっと受け取り、胸に抱きしめた。そして、肩を震わせながら、深々と頭を下げた。

「……ありがとう。」

 千利は軽く会釈を返し、静かにその場をあとにした。


 地下通路を上がり、外に出たとき、空は透明な青のグラデーションに染まりつつあった。空気は澄み、木々の葉がわずかに揺れていた。

 千利は、少しだけ深呼吸をした。ずっと『組織』に監禁されていたから、久しぶりの新鮮な空気だった。千利は伸びをして、そして

「帰るか」

 そう言って、歩き出した。

 待っている大切な家族に会うために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【完結】殺戮鬼ごっこ Arare @arare252

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ