第29話 別れと約束はもう一度

「葵!? 大丈夫?」


 部署に足を踏み入れた途端、桃がすぐに心配して葵の元へ来てくれた。


 葵は上司に遅刻を謝り、なんとか最後の仕事を始めた。基本的には引き継ぎ作業や事務の手続きなどが主だったので、負担も少なく進めることができた。


「これ、お願いしてもいいかしら」


 明日で辞めるからだろうか、上司の言葉が心なしかスッと葵に入ってきた。


「はい、わかりました」


 葵はファイルを受け取る。営業のファイル、自分の部署のものではない。しかし葵は取り組んだ。上司の言い方が以前と比べて柔らかだったこともあるだろう。


 ファイルをめくると、そこには社員の名簿も入っていた。


田中 悠太

清水 由衣

結城 祥太郎

鏑木 耀人

木村 真白


「あ……」


 葵は視線を外そうとして、でも一度だけ、もう一度その名前を見つめた。あのときの声、仕草、別れの瞬間が、淡く胸に滲んだ。


 一瞬で非日常に吸い込まれるような気がして、葵はなんとかとどまった。



 昼休み、2人は思い出のカツ丼屋に行く。暫く葵が来ないうちに、昨今の不景気で値段は600円に上がっていた。


 それでも変わらない店の面構えは、料理よりも先に落ち着きを提供する。


「ここに来るのも今日で最後かもねー」

「そうだね、今までありがとう。桃」

「今生の別れみたいに言わないでよ! またすぐ会お!」


 葵の様子がおかしいことは会った時から分かっていたが、桃はあえて踏み込まなかった。葵がここまで泣くのが結城の事なのは明らかだったからだ。


「お、来たよ! 食べよっか」

「……あれ?」


 いつもよりカツが大きい気がする。葵が桃に目を向けると、桃は笑って言った。


「今日はカツ丼ダブルにしたの! 私のおごり!」


 葵がメニューを見ると、1000円と書かれていた。


「ごめんね、高いのに」

「気にすんなって! ほら、冷めないうちに食べよ!」


 カツ丼から沸き立つ煙に誘われて、葵は回想する。結城と出会う前は記憶同士広めの間隔があったのに、今は結城の記憶で敷き詰められている。一瞬目が緩む。


(もしもう一度出会っても、私は同じように耀さんを好きになっただろうな)


 悲しい気持ちは小さな微笑みとして昇華された。


「よし、食べよっか!」


 葵は勢いに任せてカツ丼をかっこむ。


「ちょっと、奢ってやったんだからそんな勢いで食べるなって!」


 桃が慌てて止める。2人は笑い合った。話題は桃と出会ってから、今までの思い出に花を咲かせた。


 業務を終わらせ、葵の最後の出勤が終わった。


「わさびちゃん、今までお疲れ様!」

「うん、桃もありがとね」

「私はまだここで働くよ、新しく入った新人が中々かっこいいから」


 灯台下暗しだね、と桃はドヤ顔をする。葵は最後まで、桃のその根性に感心してばかりだった。


「シノさんはもういいの?」

「一応結城さんにシノ君の連絡先は貰ったんだけどねー、ぜんっぜん返信ないのよ!」


 桃はわかりやすいため息をついた。


「わさびちゃんはいつ実家に帰るの?」

「明後日かな、駅までは耀さんが見送ってくれるって」

「じゃあ私はパスで、彼に譲ってあげてもよろしくてよ」


 桃の言葉遣いに葵はつい笑ってしまう。これが狙いだったのかもしれないが。


「桃も来てくれて良いんだよ?」

「私は今日いっぱい話せたからね。積もる話もあるだろうし、2人で会っておいで」

「ありがと」


 桃と話したことで、葵は心なしか爽やかな気分になっていた。朝泣いたこともあるだろう。涙のあとの笑顔は、ほんの少しだけ葵を強くした。


 世界の流れは速い。葵はなんとか波に乗ることができたような気がしていた。



 実家に帰る前日の夜。葵は小さなスーツケースに荷物を詰め終えたあと、ふと手を止めた。


 この部屋に住んだのは、一年半ほど前。ここは東京。見渡せば、どこにでもあるようなワンルームマンション。それでも、ここでの日々は何にも代えがたいものだった。


 新卒でこの街に来て、桃と出会って、職場にも慣れていって……


(そして、耀さんと出会った)


 床に腰を下ろし、リビングのテーブルの上に置いたコップの水をぼんやり眺める。


 昔、聞いたことがある。コップに半分入った水を多いと感じるか少ないと感じるかで、その人の精神状態が分かるそうだ。


 葵は少なく感じた。それはすでに乾き果てた心のサインだった。


 しかし葵は口角を上げ、それとは正反対の言葉を口に出す。


「……明日、会えるんだ」


 結城の顔が葵の脳裏に思い浮かぶ。嬉しいよりも、怖いという気持ちが勝っている。


 別れの時、結城の言葉はあまりにも淡々としていた。


「もう一度迎えに行く」


 その言葉が本気かどうか、葵はまだ判断ができないでいた。


(もしかしたら、罪悪感で言っただけかもしれない)


 それでも葵には、結城の目が嘘をついているようには思えなかった。


 思い出すたびに胸が熱くなる。葵は恋をしていた。確かに、心から。そして今もまだ、している。誰よりも深く、暗くなって何も見えなくなるまで。


 静かな夜の中で、部屋の明かりが優しく包み込む。カーテンの隙間から見える街灯りがにじんで揺れた。


「……行こう、明日はちゃんと、笑って」


 一人で言い聞かせるように、葵は立ち上がった。明日は別れではない、再開への約束だと葵は信じている。


 今日は眠れないことを分かっていながら、葵は部屋の電気を消してベッドに入った。



「おーい」


 葵はあれだけ昨日悩んでいたが、いざ結城と会ってみると以前の温もりがふわっと舞い上がった。手を振る結城を見て、葵は安心感を覚える。


「来てくれてありがとうございます」

「当たり前だよ、駅まででごめんね」


 結城は今日も多くの仕事がある。しかし社員たちに何とか無理を言って、時間を確保してくれたのだ。


「イヤリング、してきてくれたんだね」


 葵の耳には蝶のイヤリングが風にたなびいていた。結城は見惚れる。


「すごく似合ってる、暫く見れないのが残念だよ」


 冗談めかしていう結城も、寂しさのベールを纏っていた。2人の悲しみは、秋の晴れ間でもかき消せない。


「買ってくれてありがとう。これ、一生大事にします」


 葵はイヤリングを撫でながら、照れて言った。太陽の光を反射してきらめくイヤリングを見ながら、結城は小さく笑った。


「今度のデートはアクセサリーショップに行こう。それまでに葵さんに似合うネックレスを見つけておくよ」


 結城は顔を赤めながらも、葵の目を見て言った。葵はその視線に、正直さでも誠実さでも言い表せない、愛を感じた。


「ありがとうございます、約束ですよ」

「うん、約束する」


 結城の返事に葵は安堵感を覚える。返事をしてくれた、それだけで葵は嬉しかった。葵の笑顔を見て、結城はしばらく黙っていた。言うべきか、迷っているように見えた。


「……僕は一生、葵さんを愛してる。それだけは何があっても覆らない」


 唐突な結城の発言に葵は驚く。しかしその表情から、結城の本心であることがひしひしと伝わってくる。


「今度会った時はプロポーズをさせてほしい。君が笑顔で暮らせるような、幸せな世界を作ってみせるよ」

「分かりました、待ってますね」


 電車の音が聞こえる。


「そろそろ行かなきゃみたいです」


 葵は腕時計を見ながら確認する。時刻はすでに予定より1本遅い電車の到着時刻を指していた。結城も仕事に戻る期限をとうに過ぎているが、葵の前ではおくびにも顔に出さなかった。


「今日は送ってくれてありがとうございます」

「うん、じゃあまた」


 葵が改札を抜けると、欲と寂しさから解放されたような感覚を覚えた。改札の外からも見えるホームに、結城は目を向けていた。


 電車が止まる。他の人がどんどん電車に吸い込まれていく中で、葵が足を止めた。振り向いて伝える。


「私も愛してますよ」


 電車とホームの距離は遠い。結城に届く前にその声は風にかき消される。しかし口の動きで、結城は赤面した。


 葵が電車に乗り込む。結城は電車が見えなくなってからも、改札前に立ち尽くしていた。


(わかってないなぁ、私はあなたと居られるだけで幸せなんですよ?)


 電車の椅子に座った葵は心の中でそう問いかける。結城の心に、いつか本当の意味で届くことを祈りながら。


(その時が来たら、もう一度「好き」と伝えよう。ちゃんと、耀さんの心に届くように)


 葵は少しずつ離れていく東京の姿を、もう一度目に焼き付けた。

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