第52話 物語のあとさきと、約束の図書室
黄金の光に意識を飲み込まれてから、どれほどの時が経ったのだろうか。
私が次に目を開けた時、そこに広がっていたのは、ひんやりとした石の床でも、土と埃にまみれた森の中でもなく、信じられないほどに柔らかな寝台の上だった。
(……ここは……天国……ですの……?)
さらりとした上質なシーツの感触。ふかふかの羽毛枕。そして、私の体を優しく包む、清潔で着心地の良い寝間着。窓から差し込む柔らかな光は、部屋の中の埃をキラキラと照らし、どこからか、微かに花の香りと、磨かれた木の匂いが漂ってくる。
私は、恐る恐る、夢ではないことを確かめるように、ゆっくりと身を起こした。そして、目の前に広がる光景に、完全に息を呑んだ。
その部屋は、寝室でありながら、同時に、私の理想を完璧に具現化したかのような、壮麗な書斎でもあったのだ。壁の一面は、床から天井まで届く巨大な本棚で埋め尽くされ、そこには美しい革装丁の本が、まるで芸術品のように整然と並べられている。そして、窓辺には、読書のためにあつらえられたであろう、座り心地の良さそうな一人掛けのソファまで置かれている。
「う、嘘……ですわ……。こんな……こんな素晴らしい場所が、本当に……?」
私は、まるで聖地を巡礼する信者のように、裸足のままそっと寝台を降り、その書架へと吸い寄せられるように近づいた。指先で、一冊の背表紙をそっと撫でる。ああ、この感触……! 懐かしい、愛おしい、紙の匂い……!
私が、感涙にむせびながらその場に立ち尽くしていると、部屋の扉が静かに開き、一人の人物が入ってきた。
「……ミレイユ司書! お目覚めになられましたか!」
そこに立っていたのは、見慣れた旅装ではなく、簡素だが品の良いシャツ姿の、レオンハルト様だった。その表情には、深い安堵と、心からの喜びが浮かんでいる。
「レオンハルト様……! わたくし……一体……?」
「三日です。貴女は、あの後、丸三日間、眠り続けておられたのです」
彼は、私のそばに駆け寄ると、その瞳を心配そうに潤ませた。
「本当に……ご無事で、よかった……!」
彼の言葉に、私は、あの『星詠みの間』での出来事が、決して夢ではなかったのだと悟る。あの黄金の光、邪悪な「影」の断末魔、そして、全てを使い果たしたかのような、あの深い眠り……。
「……世界は……国王陛下は、どうなりましたの……?」
私が、か細い声で尋ねると、レオンハルト様は、力強く頷いた。
「はい。『主』様のお話では、『影』の呪詛は解かれ、陛下はご自身の意識を取り戻された、と。王宮はまだ混乱の中にあるようですが、最悪の事態は回避できた、と……。全ては、ミレイユ司書、貴女のおかげです」
その言葉に、私は、胸の奥でつかえていた何かが、すっと消えていくのを感じた。本当に……終わったのだ。あの長く、そして辛い逃走劇が。
その時だった。
「……目が覚めたか、万年寝太郎の元悪役令嬢」
部屋の入り口から、呆れたような、しかしどこか調子の抜けた声がした。見ると、腕を組み、壁に寄りかかるようにして、カイエン隊長が立っている。彼もまた、あの黒衣ではなく、レオンハルト様と同じような、ラフなシャツ姿だった。その姿は、いつもの彼からは想像もつかないほど、無防備に見えた。
「カイエン隊長まで……! なんですの、その言い方は! わたくしは、世界の危機を救うために、身を粉にして戦ったのですわよ!」
私が、ぷん、と頬を膨らませて抗議すると、彼は、ふいと顔をそむけた。
「……チッ。ともかくだ、お前の冤罪――『古き血の呪い』とやらは、国王陛下が目覚められたことで、首謀者であった側近たちが捕らえられ、自然消滅した。お前はもう、生贄として追われる心配はない」
その言葉は、ぶっきらぼうだったけれど、今の私には、どんな甘い言葉よりも心強い、最高の吉報だった。
「まあ……! それは……それは、本当ですの!?」
「ああ。もっとも、この一連の騒動の真相は、ごく一部の者を除き、固く秘匿されるだろうがな。……お前は、表向きには『行方不明』のままだ」
カイエン隊長は、そう言うと、手にしていた盆を、私のそばのテーブルに、ことり、と置いた。そこには、温かいスープと、焼きたてのパン、そして、湯気の立つハーブティーが用意されていた。
「……腹が減っているんだろう。食え」
ぶっきらぼうにそう言う彼の耳が、ほんの少しだけ、赤くなっているように見えたのは、きっと気のせいだろう。
こうして、私たちの、奇妙で、そしてどこかぎこちない、束の間の平穏な時間が始まった。
レオンハルト様が、王宮のその後の様子を詳しく話してくれた。カイエン隊長は、相変わらず口数は少ないが、時折、的確なツッコミや、皮肉めいた補足を入れてくる。そして私は、温かいスープを味わいながら、まるで夢のようなこの状況に、まだ実感が追いつかないでいた。
食事が終わると、私は、どうしても確かめたいことがあり、おずおずと尋ねた。
「あの……わたくしの、あの黒い本と、銀の指輪は……?」
すると、レオンハルト様が、テーブルの上の小さな箱を指さした。
「ここに。貴女が眠っている間、ずっと、貴女の枕元にありました。『主』様が仰るには、それらは、もはや貴女の魂の一部であり、無理に引き離すことはできない、と」
箱を開けると、そこには、あの黒い本と銀の指輪が、静かに収まっていた。以前のような怪しい光を放つこともなく、まるで、その役目を終えたかのように、穏やかな空気を纏っている。だが、それに触れると、確かに、温かな繋がりを感じることができた。
私は、その本と指輪を、そっと胸に抱きしめた。
そして、目の前の、壁一面に広がる書架を見上げた。
そうだわ。わたくしには、まだやるべきことが残っていた。
世界の危機を救うという大仕事(主に巻き込まれただけですが)を終えた、今のわたくしにこそ、相応しい、最高の「ご褒美」が。
私は、にっこりと、心の底からの、満面の笑みを浮かべた。
「さて、レオンハルト様、カイエン隊長。食後の紅茶でも淹れていただけますかしら? わたくし、これから少々、忙しくなりますので」
私の言葉に、二人はきょとんとした顔で顔を見合わせる。
私は、そんな二人にはお構いなしに、裸足のまま、楽しげな足取りで、書架へと向かった。
(さあ、まずはどの『物語』から始めましょうか!)
私の本当のハッピーエンドは、どうやら、今、この瞬間から、ようやく始まろうとしているらしかった。
悪役令嬢ですが、ざまぁより本が読みたい! ~訳あって、図書館に就職しました~ 虹湖🌈 @nicoamane
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