第50話 最後の敵、その名は絶望

(望むところですわ! どんな悪役が出てこようとも、この物語の結末は、わたくしが決めさせていただきますから!)


 私の、半ばヤケクソ気味の、しかし確かな決意が『星詠みの間』の清浄な空気に響いた、その瞬間だった。それまで空間の外側から私たちを圧迫していた邪悪な気配が、その形を、そしてその意志を、明確なものへと変えたのだ。


 ゴオォッ……!


 空間全体が、悲鳴を上げた。足元の黒曜石の床に、まるで黒いインクを落としたかのように、憎悪と絶望で編まれたような「影」が染み出し、それが、もぞもぞと、蠢きながら、一つの人型を形成していく。それは、見覚えのある、しかし決して見たくはなかった姿――玉座に座す、この国の王の姿を模していた。だが、その顔は苦悶に歪み、威厳に満ちていたはずの瞳は、底なしの闇が広がる空虚な穴と化している。


『……来たか。忌まわしき血の娘。そして、愚かなる騎士と、過去に囚われた亡霊よ』


 その声は、王の声を歪ませ、いくつもの怨嗟の声を重ね合わせたかのような、不快な響きを持っていた。それは、直接鼓膜を揺らす音ではなく、魂に直接不協和音を叩きつけるかのような、おぞましい「囁き」だった。


「なっ……! 陛下のお姿を……! 貴様、何者だッ!」

 レオンハルト様が、怒りと悲しみに満ちた声で叫ぶ。彼の騎士としての忠誠心が、目の前の、敬愛する主君を模した冒涜的な存在を許せないのだろう。


『我がか? 我が名は、絶望。お前たちが「契約」とやらで封じ込めた、世界の嘆きそのものよ』

 影の王は、くつくつと、空気を震わせるように笑う。

『永きに渡り、光の下で偽りの繁栄を貪るお前たちを、我はずっと見ていた。そして今、封印は弱まり、我はついに、この世界にあるべき「真の結末」……すなわち、絶対的な無を齎すために、ここへ来た』


 その言葉は、あまりにも傲慢で、そして絶対的だった。私たちの敵は、単なる魔物や陰謀家などではない。世界そのものの「終わり」を望む、根源的な災厄だったのだ。


「ふざけたことを……!」

 レオンハルト様が、床を蹴って飛び出した。その剣には、彼の清廉な魂を映したかのような、白銀の光が宿っている。

「陛下のお姿を弄び、この国を、そしてミレイユ司書を脅かすこと、このレオンハルト=アーヴィングが、断じて許さんッ!」


 しかし、影の王は、レオンハルト様の渾身の斬撃を、まるで柳に風と受け流すかのように、ひらりと躱す。いや、影でできたその体は、物理的な攻撃そのものが通用しにくいのかもしれない。

『哀れな騎士よ。お前のその忠義も、守るべき主を失っては、ただの虚しい自己満足に過ぎぬということを知るがいい』

 影の王が腕を振るうと、漆黒の斬撃がレオンハルト様へと襲いかかる!


「チッ……!」

 その瞬間、影の王の側面に、カイエン隊長が音もなく回り込んでいた。彼の両手の短剣が、魔力を帯びて青白く輝き、影の体の、動きの起点となる部分を的確に切り裂く!

「……実体のないお喋りは、そこまでだ。お前が何者だろうと、この娘に手出しはさせん」


『ほう……。復讐に心を喰われた亡霊が、今度は守るものを見つけたとでも言うか? 滑稽だな』

 影の王の嘲笑が響く。カイエン隊長の動きが、ほんの一瞬、その言葉に鈍ったのを、私は見逃さなかった。この「影」は、私たちの心の最も弱い部分を的確に突いてくるのだ。


 二人の屈強な男性が、一方は正面から、もう一方は奇襲を仕掛ける形で、影の王と壮絶な戦いを繰り広げる。星々の光と、漆黒の影が、この幻想的な空間で激しく交錯する。しかし、戦いは、明らかに私たちの方が不利だった。影の王は、傷つけられてもすぐにその体を再生させ、その攻撃は、確実に二人の体力と精神を削り取っていく。


(このままでは……! レオンハルト様も、カイエン隊長も……!)

 私が恐怖に立ち尽くしていると、カイエン隊長の鋭い声が飛んだ。

「元悪役令嬢! 聞いているか! 我々では奴を完全に滅ぼすことはできん!奴を封じることができるのは、あの『始まりの石版』に秘められた、契約の力だけだ!」


 彼の視線が、祭壇の上の、星のように輝く石版へと向けられる。

「我々が時間を稼ぐ! その間に、お前は石版へ向かえ! そして、あの時と同じように、お前の血と、その本、そして指輪を使って、古の力を呼び覚ますんだ!」


(わたくしが……やるしか……ない……!)

 そうだ、もう逃げるという選択肢はないのだ。この物語の主役がわたくしだというのなら、ここで立ち向かわなければ、ハッピーエンドなど訪れるはずがない!


「レオンハルト様! カイエン隊長!」

 私は、ありったけの声を振り絞って叫んだ。

「わたくしを……信じてくださいまし!」


 その言葉に、二人が同時にこちらを振り返る。レオンハルト様の瞳には驚きと信頼が、そしてカイエン隊長の瞳には、ほんのわずかな、しかし確かな期待のような光が宿っていた。

「……ああ、行けッ!」


 私は、黒い本を胸に抱きしめ、祭壇へと向かって走り出した。

『小娘が……!』

 影の王が、私に気づき、その禍々しい気配を集中させる。足元の黒曜石の床から、無数の影の触手が伸び、私の足に絡みつこうとする!


「させませんぞッ!」

 レオンハルト様が、影の触手の前に立ちはだかり、その白銀の剣で防壁を作る!

「今のうちに、早く!」

 カイエン隊長が投げた短剣が、私のすぐそばまで迫っていた触手を切り裂いた!


 二人が、文字通り、命を賭して私のための道を作ってくれている。涙が溢れそうになるのを、ぐっと堪える。今は、前へ進むだけだ!

 そして、ついに、私は祭壇の前へとたどり着いた。


 目の前には、星々の叡智を凝縮したかのような、『始まりの石版』。

 私は、震える手で、あの時と同じように、護身用の髪飾りで自らの指先を傷つけた。そして、溢れ出た赤い血を銀の指輪に染み込ませ、黒い本を石版の上に置き、その上に、両手を、そっと重ねた。


「お願い……!」

 祈るような気持ちで、私は全ての意識を、石版と、本と、指輪、そして私の血に注ぎ込む。


『……我が名は、ミレイユ=フォン=ローデル! この物語の結末は、絶望なんかじゃありません! わたくしが望むのは……誰もが笑って、美味しいものを食べて、そして、心ゆくまで本が読める……そんな、ありきたりで、でも、かけがえのない、ハッピーエンドですのよッ!』


 私の魂の叫びに応えるかのように、石版が、これまでとは比較にならない、世界そのものを浄化するかのごとき、眩いばかりの黄金色の光を放った!


『ぐ……おおおおおおおおっ!? こ、この光は……!馬鹿な、契約は、弱まっているはずでは……!?』

 影の王が、その光に焼かれるように、苦悶の絶叫を上げる。


 黄金の光は、私を、そしてこの『星詠みの間』全体を包み込んでいく。

 これが、古の契約の、本当の力……?

 私は、その圧倒的な光の中で、ゆっくりと意識を失っていった。

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