第43話 新たな旅立ちと、影からの視線
「それに……もしこの先に、もっともっと大きな、そしてもっともっと素晴らしい図書室が待っているとしたら……それを確かめない手はございませんでしょう?」
私の、どこまでも本への探求心(という名の欲望)に満ちた言葉に、レオンハルト様は快活な笑い声を響かせた。その笑い声は、これまでの緊張と不安に満ちた空気をいくらか和らげ、私の心にも不思議な軽やかさをもたらしてくれた。そうだわ、どんな困難な冒険だって、その先にご褒美(主に本)が待っていると思えば、乗り越えられないはずがない!……たぶん。
「ミレイユ司書……その意気ですぞ! その飽くなき探究心こそが、我々の道を照らす光となるでしょう!」
レオンハルト様は、すっかり私のペースに巻き込まれたのか、あるいは私の単純さに感化されたのか、力強く拳を握りしめている。その姿は、頼もしいというよりは、むしろ若干、心配になるほど純粋だった。
私たちがそんなやり取りを繰り広げていると、いつの間にか図書室の入り口に、フードの「主」が静かに立っていた。その気配は、先ほどまでとは異なり、どこか満足げな、そしてほんの少しだけ面白がっているような雰囲気を漂わせている。
「……どうやら、お前の魂は、自らの『物語』の続きを渇望しているようだな、古き血の乙女よ」
その声には、以前のような試すような響きはなく、むしろ、ある種の確信めいたものが感じられた。
「はい。わたくし、決心いたしましたわ」
私は、「主」に向き直り、きっぱりと告げた。
「この先に何が待ち受けていようとも、わたくし自身の目で、この『契約』の真実と、わたくしの運命を見届けると。そして……願わくば、その暁には、最高の読書環境を手に入れると!」
最後の言葉に、レオンハルト様がまたもや楽しそうに肩を震わせるのが視界の端に入った。
「主」は、しばし沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
「よかろう。その覚悟、確かに受け取った。ならば、我々も全力でお前たちの旅路を支援しよう。……もっとも、我々が直接手を貸せるのは、ここまでだがな」
その言葉に、私は少しだけ不安を覚えた。
「と、仰いますと……?」
「これより先、お前たちが向かう『聖域』は、我々の力が及ばぬ、あるいは干渉することが許されぬ場所も多い。お前自身の力と、そこにいる仲間たちの絆だけが頼りとなるだろう」
「主」は、私とレオンハルト様を交互に見つめる。その視線は、どこか我が子を旅立たせる親のような、厳しさと優しさが入り混じったものだった。
「ただし、道標となる『知識』と、最低限の『備え』は用意しよう。そして……」
「主」は、懐から小さな水晶玉のようなものを取り出した。それは、微かに脈打つように光を放っている。
「これは、『魂の共鳴石』だ。これを持っていれば、遠く離れていても、カイエン……そして、我々とお前の間で、微弱ながらも意思の疎通が可能となるやもしれぬ。もっとも、あまり期待はするな。気休め程度だと思っておくがいい」
(カイエン隊長と……意思の疎通……ですって? できれば、あまり繋がりたくはないのですけれど……)
私の内心の呟きは、もちろん「主」には届かない。
「出発は、明朝だ。それまでは、この図書室で英気を養うもよし、あるいは、次なる旅への備えをするもよし。しばしの休息を許そう」
そう言うと、「主」は再び音もなく姿を消した。まるで、最初からそこにいなかったかのように。
残された私とレオンハルト様は、顔を見合わせた。
「……ミレイユ司書。いよいよですな」
「ええ。なんだか、ようやく物語の本当の始まり、という気がいたしますわ」
私は、先ほどまでの浮かれた気分とは異なる、静かな高揚感を感じていた。それは、これから始まるであろう困難な冒険への覚悟と、そして、まだ見ぬ「物語」への期待が入り混じった、不思議な感覚だった。
「さて、レオンハルト様。出発までの間、この素晴らしい図書室を堪能しない手はございませんわよ! わたくし、まずはあの棚の歴史書から……いえ、やはりあちらの冒険小説も捨てがたい……!」
私は、再び目を輝かせ、書架へと駆け寄ろうとした。
しかし、その時、ふと、図書室の窓の外に、一瞬だけ、見慣れた黒い影がよぎったような気がした。
(……今の……まさか……)
慌てて窓辺に駆け寄り、外を見渡すが、そこには鬱蒼とした森が広がっているだけで、人影は見当たらない。
「どうかなさいましたか、ミレイユ司書?」
レオンハルト様が、訝しげに私に尋ねる。
「い、いえ……。何でもございませんわ。きっと、気のせいですわね。それよりも、レオンハルト様! こちらの地理に関する本など、目を通しておいた方がよろしいのではなくて?」
私は、誤魔化すように早口でそう言うと、無理やりレオンハルト様を書架の方へと促した。
(……カイエン隊長……? まさか、あの人が、こんなところまで……? いいえ、そんなはずはございませんわ。きっと、疲れと緊張で、幻でも見たのでしょう)
私は、胸の奥の小さな不安を無理やり押し込めるように、目の前の書架に並ぶ本の背表紙へと意識を集中させた。
だが、その時、私の左手にはめられた銀の指輪が、ほんの一瞬だけ、チリリ、と微かな警告のような熱を発したのを、私は確かに感じていた。
新たな旅立ちを前に、束の間の安息を得たはずの私の周囲には、しかし、見えざる影が、確かに忍び寄ってきているのかもしれない。そしてそれは、必ずしも敵意だけを孕んでいるとは、限らないのかもしれないが……。
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