第40話 記憶の泉と、血の呼び声
「ミレイユ=フォン=ローデルよ。お前のその『書』と『指輪』、そしてお前の『血』……。それらが、この『記憶の泉』と共鳴した時、あるいは、お前が探し求める『物語』の一端が、ここに映し出されるやもしれぬ」
フードの「主」の言葉が、青白く光る水晶の広間に静かに響く。試練は戦いだけではない――私の心が、私の血が、そして何よりも、私が本当に「何を知りたいのか」が試されようとしているのだ。
(わたくしが……探し求める「物語」……ですって……?)
胸の奥が、チクリと痛んだ。それは恐怖からか、それとも、抑えきれない好奇心からか。私は、無意識のうちに左手の銀の指輪をそっと撫でた。この指輪が、そしてあの黒い本が、私をこの不可思議な冒険へと導いたのだ。
「……っ」
私は、ぎゅっと目を閉じた。脳裏に、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。断罪イベントの恐怖、図書館でのささやかな幸せ、カイエン隊長の理不尽なまでの強引さ、レオンハルト様の献身的な優しさ、そして、幾度となく中断された、あの焦がれるような読書の時間……。
(わたくしは……ただ、静かに本を読んでいたかっただけなのに……。でも……でも、知ってしまったのよ……あの「声」を、あの「契約」の断片を……そして何よりも、あの七色のゼリーの夢を……!)
最後の思考は、若干、いや、かなり不純なものが混じっていた気もするが、今の私にとっては重要なことだった。
ゆっくりと目を開け、私は水晶の前に一歩踏み出した。隣では、レオンハルト様が固唾をのんで私を見守っている。その瞳には、心配と、そしてほんの少しの期待が入り混じっているように見えた。フードの「主」は、変わらず静かに佇んでいるが、その気配は先ほどよりもわずかに緊張を帯びているように感じられた。
「わたくしが知りたいのは……」
私は、震える声で、しかしはっきりとした意思を持って、紡ぎ始めた。
「あの『契約』の真実ですわ。なぜ、王家とローデルの血が関わっているのか……。そして、その『契約』が、今のこの国に、そして……わたくしに、何を齎そうとしているのか……。そして何よりも……!」
一瞬、言葉を区切り、私は息を吸い込んだ。
「……その『物語』は、ハッピーエンドを迎えることができるのかしら? できれば、登場人物全員が幸せになって、美味しいものをたくさん食べて、ついでに巨大な図書館で永遠に暮らせるような、そんな都合の良い結末を、わたくしは所望いたしますわ!」
私の、あまりにも個人的で、そしてどこか的外れな「問い」。
レオンハルト様は、そのあまりの突拍子のなさに、一瞬、目を丸くしたが、やがて、ふっと口元を緩めた。それは、いつもの彼の生真面目さとは異なる、どこかミレイユのペースに巻き込まれたような、そんな苦笑にも似た表情だった。
フードの「主」は、しばしの沈黙の後、くつくつと喉を鳴らした。
「……ハッピーエンド、か。実に、お前らしい『問い』だ。だが、物語の結末というものは、誰かが与えるものではなく、登場人物自身が紡ぎ出すものだということを、覚えておくがいい」
その言葉と同時に、私が身に着けていた銀の指輪、そして懐に大切にしまっていた黒い革装丁の本が、呼応するように強い光を放ち始めた! まばゆい緑色の光が、広間全体を包み込む!
「きゃっ……!」
私は思わず目を閉じる。体の奥底から、何かが湧き上がってくるような、熱い感覚。それは、以前に本に触れた時よりも、ずっと強く、そして鮮明だった。
やがて、光が収まり、恐る恐る目を開けると、目の前の巨大な水晶が、まるで水面のように揺らめき、そして、その表面に、鮮明な映像を映し出し始めていた――!
それは、まさしく「記憶」の奔流。
見たこともない壮麗な王宮。そこで交わされる、厳粛な「契約」の儀式。若き日の、おそらくはローデル家の先祖であろう、強い意志を秘めた瞳を持つ女性の姿。そして、その契約によって封印され、あるいは呼び覚まされようとしている、強大な「力」の片鱗。さらに、その力を巡って繰り広げられる、裏切りと陰謀、そして悲劇の予感――。
次々と映し出される映像は、断片的でありながらも、あまりにも濃密で、私の心を激しく揺さぶった。それは、どんな歴史書を読むよりも鮮烈で、どんな物語を読むよりも心を掴んで離さない、圧倒的な「現実」の記録だった。
「あ……ああ……!」
私は、言葉を失い、ただその光景に見入る。それは、私が求めていた「物語」の始まりであり、そして、私が逃れようとしていた「運命」の核心でもあった。
どれほどの時間が経っただろうか。水晶の光が徐々に収まり、広間には再び静寂が戻った。私は、まるで魂を抜き取られたかのように、その場にへたり込みそうになるのを、レオンハルト様が慌てて支えてくれた。
「ミレイユ司書! 大丈夫ですか! 顔色が……!」
彼の声も、どこか遠くに聞こえる。私の頭の中は、先ほど見た映像でいっぱいだった。
フードの「主」が、静かに私に近づいてくる。
「……どうだった、古き血の乙女よ。お前の求める『物語』の、ほんの一端は見えたかな?」
私は、ゆっくりと顔を上げた。瞳には、まだ動揺の色が残っていたが、その奥には、先ほどまでとは違う、確かな光が灯っていた。
「……ええ。見えましたわ。そして……そして、分かってしまいましたの。この『物語』は、わたくしが思っていた以上に、ずっと……ずっと、厄介で、そして……放っておけないものだということが」
それは、もはや読書欲や好奇心だけではない。この「物語」の行く末を、そしてそこに生きる人々の運命を、見届けなければならないという、奇妙な使命感にも似た感情だった。
(……ああ、どうしてこうなってしまったのかしら。わたくしはただ、静かに本を読んでいたかっただけですのに……)
心の中で何度目かの溜息をつきつつも、私の表情には、いつの間にか、ほんの少しの……本当にほんの少しの、覚悟のようなものが滲み出ているのを、私自身はまだ気づいていなかった。
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