第31話 束の間の読書(ただし脳内直結型)と招かれざる客

「本当ですの!? やったーーーーーーーーっ!」


 カイエン隊長の、まるで「今日の天気は晴れだ」とでも言うかのような、あっさりとした許可。私は、疲労も泥まみれのドレスも、そしてお尻の痛み(天然スライダーの後遺症)も一瞬忘れ、子供のようにはしゃいでしまった! まさか、この鉄面皮で氷のような男が、私の切実な読書欲を理解してくれる日が来ようとは!


(……まあ、どうせ「何か異変があれば即中断」とかいう、お約束の但し書き付きでしょうけど!)


 私の予想通り、カイエン隊長は「……ただし、周囲の警戒は怠るな。そして、お前の身に何か異常が見られた場合は、即刻中断させる」と、釘を刺すのを忘れなかった。ちぇっ、やっぱり。


 レオンハルト様は、「ミレイユ司書、本当によろしいのですか? まだお疲れのはず……。それに、このような場所で読書など……」と、騎士らしく私の身を案じてくれている。その優しさは大変ありがたいのだけれど、今の私を止められるものは何もない!


 私は、川で清めた(つもりの)手で、一番日当たりの良さそうな、そして比較的平らな岩の上に陣取った。まるで聖職者が聖書を扱うかのように、恭しく、そして期待に胸を膨らませながら、あの黒い革装丁の本の表紙を、そっと開く。


 中は、やはりというか、古びた羊皮紙のようだった。そして、そこに書き連ねられているのは……。


「……こ、これは……。全くもって、さっぱりこれっぽっちも読めませんわ……!」


 私の口から、絶望のため息が漏れる。そこに並んでいたのは、ミミズがのたくったような、あるいは古代の虫が這いずり回ったような、見たこともない奇妙な文字の羅列! 図書館の膨大な蔵書に触れてきた私でも、こんな文字は初めてお目にかかる!


(うそでしょ!? あんなに苦労して、命からがら守り抜いてきたというのに、ただの解読不能な古代文書だったなんて! そんなの、あんまりですわ!)


 私がショックで固まっていると、左手にはめられた銀の指輪が、再び、じわりと熱を帯び始めた。それに応えるかのように、目の前の羊皮紙に書かれた奇妙な文字たちが、まるで生きているかのように、微かに、本当に微かにだが、緑色の光を放ち始めたではないか!


「ひゃっ! ま、またですの!?」


 そして、次の瞬間。以前、洞窟の祭壇で体験した、あの奇妙な感覚が、再び私を襲った!

 目の前の文字が、直接、私の脳内に流れ込んでくるような……!


(うわぁぁぁ! これ、普通の読書じゃありませんわ! 脳内ダイレクトメッセージ方式ですのね!? しかも、今回は前回よりずっと鮮明に……!)


 見える……。獅子と蛇の紋章を掲げた、威厳ある王。その隣には、フードを目深にかぶった、謎めいたローブの人物。二人は、何かを……そう、これは……。


「……け、契約……ですわ……。何か、とてつもなく重要な……そして、絶対に破ってはいけないような……『契約』を、交わしている……?」


 私は、まるでその場に立ち会っているかのように、その光景を「見て」いた。王の力強い声、ローブの人物の低い囁き、そして、契約の証として交わされる、血の誓い……。


「……ミレイユ司書、顔色が……! 大丈夫ですか!?」

 レオンハルト様の心配そうな声が、遠くに聞こえる。


「……始まったか。何が見える? 聞こえるものはあるか?」

 カイエン隊長の、低い、しかし鋭い声も。


 私は、その「映像」に完全に没入していた。王様がかぶっている王冠、すっごく豪華ですわね……。あの大きな赤い宝石、きっと最高級のルビーに違いありませんわ……。わたくしも、いつかあんな素敵なティアラを……。


(……って、いけない! 今はそんな場合じゃありませんでしたわ!)


 必死で意識を集中させ、契約の内容を理解しようと努める。それは、どうやら「古き力」と「王家の血」に関する、重大な取り決めのようだった。力には限りがあり、それを使うには相応の「代償」が必要で、もし契約を違えれば……。


 私が、その「契約の核心」に触れようとした、まさにその瞬間だった!


 ブワァァァァァッ!!


 私の手の中の本が、突然、これまでとは比較にならないほど強烈な緑色の光を放ったのだ! それと同時に、周囲の木々が激しくざわめき、穏やかだったはずの川の水面が、まるで嵐が来たかのように大きく波打つ!


「きゃーーーーーーーーっ! な、な、何が起こったんですの!?」


 私の悲鳴と、本の異変は、どうやら招かれざる客を呼び寄せてしまったらしい。

 遠くの森の奥から、甲高い、そして聞き覚えのある角笛の音が、はっきりと響き渡ってきたのだ!


「まずい! 追手だ! この光と騒ぎを察知されたか!」


 カイエン隊長が、即座に状況を判断し、鋭い声を上げる!


 私は、あまりの衝撃と、またしても中断された読書タイムへの絶望で、その場にへたり込みそうになる!


「いやぁぁぁぁぁ! やっと! やっと面白くなってきたところでしたのにぃぃぃぃ! あの契約の続きが! 王様の素敵な王冠の詳細がぁぁぁぁ!」


 私の、本好きとしての魂の叫び!


 カイエン隊長は、そんな私から(またしても強引に)本を取り上げると、

「ここまでだ! 移動するぞ! この場所ももう安全ではない!」

 と、非情極まりない宣告を下した!


 レオンハルト様が、「ミレイユ司書、今は逃げるのが先決です! しっかりしてください!」と、半ばパニック状態の私を立たせる。カイエン隊長は、既に次の逃走経路を探るように、鋭い視線を周囲に巡らせている。


 私は、奪われた本に未練タラタラの視線を送りながら、心の中で叫んだ。


(わたくしの読書タイムは、いつもいつも、こうして邪魔される運命なんですのね……! こうなったら、あの脳内に焼き付いた王様の素敵王冠のことだけを考えて、この苦難を乗り越えてやりますわ! そして、いつか絶対に、あの本を最後まで読んでみせますからね!)


 新たな(食欲と物欲に基づいた)決意を胸に、ミレイユの、終わりなき(そして迷惑千万な)逃走劇は、またしても幕を開けるのだった!


 果たして、三人はしつこい追手から逃れられるのか? そして、ミレイユが次に本を心ゆくまで読めるのは、一体いつの日になるというのか!?

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