第14話 束の間の休息(パン付き)と迫る影
「はぁ…はぁ…ぜぇ…ぜぇ……も、もう……む、無理です……一歩も、歩けません……わ……」
私の肺は限界を訴え、足は生まれたての仔鹿のように震えている。右腕は無表情の治安隊長に、左腕は生真面目な騎士様にがっちりホールドされ、もはや自分の意志で走っているのか、引きずられているのかすら定かではない。視界も霞んできた……これが、走馬灯というやつかしら……?
「もう少しです、ミレイユ司書! 頑張ってください!」
レオンハルト様が、爽やかに(しかし状況は全く爽やかではない)私を励ます。
「…………(無言でミレイユの腕を引きずるカイエン隊長)」
カイエン隊長は、相変わらずのノーコメント。この人、もしかして疲労という概念がないのでは? ロボットか何かなの?
息も絶え絶えになりながら、私たちは入り組んだ裏通りを駆け抜け、やがてレオンハルト様が「ここです!」と足を止めた。目の前には、年季の入った、しかしどこか温かみのあるパン屋の裏口らしきドア。レオンハルト様が、合図のようにコンコン、とドアをノックする。
すぐに、中から人の良さそうな、恰幅の良い初老の男性が顔を覗かせた。白いコック帽に、小麦粉で汚れたエプロン姿。彼は、息を切らしたレオンハルト様と、その隣の見るからにカタギではないカイエン隊長、そして土埃にまみれて幽鬼のようになっている私(令嬢の見る影もなし)を一瞥すると、全てを察したかのように深く頷いた。
「レオンハルト坊ちゃんかい。大変だったようだねぇ。ささ、中へお入り」
優しい声に、涙が出そうになる。私たちは、パン屋の主人に促されるまま、店内――の裏にある、小麦粉の袋などが積まれた倉庫のような小部屋――へと、転がり込むように入った。
部屋に充満する、焼きたてのパンの香ばしい匂い。そのあまりにも平和な香りに、私は緊張の糸がぷっつりと切れ、その場にへたり込んでしまった。
「み、水……。水を……くださいまし……。あと、できれば……パンも……」
「ミレイユ司書!?」
私のあまりにも素直な欲求に、レオンハルト様が呆れたような声を上げる。しかし、パン屋の主人は「おお、腹が減っては戦はできんからねぇ」と笑い、すぐに冷たい水の入った水差しと、籠に盛られた焼きたてのパン(!)を差し出してくれた。神様……! このパン屋さんは、きっと神様か天使に違いありませんわ!
私は、もはや淑女の作法など忘れ去り、差し出されたパンにかぶりつき、水をがぶ飲みする。ああ……生き返る……! ふわふわで、ほんのり甘くて……涙が出るほど美味しい……!
私が食欲という最も原始的な欲求を満たしている間にも、レオンハルト様とカイエン隊長は、倉庫の隅で、低い声で情報交換を始めていた。もちろん、壁に背を預け、周囲への警戒は怠らない。プロ意識がすごいわね(他人事)。
「……追手の主力は一時的に撒いたようだが、完全に諦めたとは思えん。奴らは王宮騎士団の中でも、汚れ仕事専門の部隊だ」
カイエン隊長が、忌々しげに呟く。
「王宮内の動きは掴めましたか?」
レオンハルト様の問いに、カイエン隊長は首を横に振る。
「まだだ。だが、国王陛下がこれほど強硬に、しかも正規の手続きを無視して動くとは……。やはり、あの巻物が、我々の想像以上に危険な代物であることは間違いない」
(巻物……。そういえば、あの呪いの言葉……)
パンを頬張りながらも、私の頭には先ほどの不吉なフレーズが蘇る。『契約』『血』『代償』『滅び』……。考えただけで、食欲が失せそうだ……いや、失せないけど。だってこのパン美味しいもの。
「あの!」
少しだけ人心地ついた私は、意を決して二人に問いかけた。
「そもそも、なぜわたくしまで『生死不問』で追われなければならないのですか!? わたくしは、ただ巻き込まれただけの、哀れな図書館司書ですのに!」
「それは……」
レオンハルト様が言い淀む。カイエン隊長が、代わりに答えた。
「おそらく、お前がローデル家の血を引いていること、そして、実際に巻物の封印を解いてしまったこと、その両方が原因だろうな。国王は、巻物の力と、それに関わる可能性のあるお前を、まとめて危険因子と見なしているのだろう」
「そんな理不尽な!」
「理不尽だが、それが現実だ。お前はもはや、ただの図書館司書ではいられない」
カイエン隊長の冷徹な言葉に、私はぐうの音も出ない。ああ、やっぱり……。私の平穏な日常は、完全に過去のものとなってしまったのね……。
「……このパン、本当に美味しいですわね……。おかわり、いただいてもよろしいかしら?」
あまりのショックに、私の思考は再び食欲へと逃避する。レオンハルト様が「ミレイユ司書、今はそんな場合では……!」と再び呆れ顔になるが、知ったことではない! ヤケ食いよ、ヤケ食い!
私がパンの籠に手を伸ばしていると、レオンハルト様が気を取り直して言った。
「とにかく、ここに長居はできません。私は一度、信頼できる筋に連絡を取り、今後の策を練ります」
「……好きにしろ。だが、俺は独自に動く」
カイエン隊長が、即座に反論する。
「この娘と巻物は、俺が預かる」
「なっ……!? それはどういう意味ですか、ヴァレンティア隊長! ミレイユ司書は私が責任をもって保護します!」
「お前にそれができるのか? 王宮騎士団に追われながら?」
「ぐっ……!」
また始まったわ、この二人の不毛な争い……。しかも、私の所有権(?)を巡って!
「待ってくださいまし! ですから、わたくしは物ではございませんのよ! 自分の意思は……!」
「うるさい。お前はここにいろ」
「ミレイユ司書、ご心配なく!」
私の意見は、完全に無視されている。ああ、もう……。
「……もう、勝手にしてくださいまし……」
私は、三つ目のパンをちぎりながら、力なく呟いた。この際、どちらについて行った方が、より多くの本を読める可能性があるかしら……なんて、不謹慎なことを考え始めていた、その時だった。
バンッ!
倉庫の奥の扉が勢いよく開き、パン屋の主人が、血相を変えて飛び込んできた!
「大変だ! レオンハルト坊ちゃん! 表通りに、騎士団の連中が大勢現れた! どうやら、この辺りを嗅ぎまわっているようだ!」
その言葉に、部屋の空気が一瞬で凍りつく!
束の間の休息と、美味しいパンの時間は、あまりにもあっけなく、終わりを告げたのだった!
果たして、私たちはこの包囲網を突破できるのか!? そして、私のパンのおかわりは!?(そこ?)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます