第4話 不審者(?)は距離感がバグっている
「……うるさいぞ」
低い、温度のない声が、埃っぽい静寂(私が来るまでは静寂だったはず!)に突き刺さる。
私の目の前には、神出鬼没の黒服不審者……もとい、謎の男。彼は、埃まみれで半狂乱状態の私を一瞥しただけで、まるで道端の石ころでも見るかのように興味なさげに言い放ったのだ。
(う、うるさいですってぇぇぇぇ!?)
私の脳内で、淑女の仮面がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。誰のせいでこんな目に遭ってると思ってるのよ! この状況で冷静沈着でいられる方がどうかしてるでしょうが! 大体アンタ、どこの誰よ! なんでこんな場所にいるのよ! 答えなさいよぉぉぉぉっ!
……と、脳内では機関銃のように罵詈雑言を浴びせかけているものの、現実の私は「あぅ……」とか「うぅ……」とか、意味不明な呻き声を漏らしながら、ぷるぷると子鹿のように震えることしかできない。だって怖いんだもん! この人、目が全然笑ってないんだもん!
そんな私の内心の葛藤など露知らず、男――後にカイエン=ヴァレンティアという、これまた面倒そうな肩書(王都治安隊長)を持つ人物だと知るのだが、今の私には知る由もない――は、私を完全スルー。まるで自分の書斎にでもいるかのように、ずかずかと曰く付き古文書が並ぶ棚に近づき、興味深そうに(見えないけど、たぶん)背表紙を眺め始めた。
(……な、なんなのよ、この状況……)
ポルターガイスト現象(疑惑)に、埃まみれの密室、そして無愛想な不審者(推定)。役満よ、役満。私の平穏な読書ライフ設計図は、早くも粉々になって風前の灯火だわ。
こうなったら仕方ない。この男は、壁のシミ! そう、ただのちょっと人型の、黒っぽいシミ! 私には見えない、聞こえない! 仕事よ、仕事! この呪われた(かもしれない)古文書リストをさっさと終わらせて、明るい第一書庫に戻るのよ! 『王国植物図鑑・春』が私を待っている!
半ばヤケクソ気味に自分を奮い立たせ、私は壁のシミ(カイエン)の存在を意識の外に追いやり、再び古文書と向き合った。次は……これね。真っ黒で、何も書かれていないように見える、不気味な石板。
(……触りたくないなぁ……。絶対なんかヤバいって、これ……)
恐る恐る、人差し指の先で、ちょん、と石板の表面に触れてみる。ひんやりと冷たい感触。……何も起こらない? よかった……。
安堵したのも束の間。私がリストに「黒い石板(詳細不明・不気味)」と書き込もうとした瞬間、石板の表面に、淡い緑色の光る文字が、まるで蛍のようにフワリと浮かび上がり、すぐに消えたのだ!
「ひゃっ!?」
今度こそ、短い悲鳴が漏れる。ま、幻覚!? それともこの埃、幻覚作用でもあるの!?
「み、見間違いよね……? ええ、きっとそうよ! 最近ちょっと寝不足だったし! きっと疲れてるのよ私!」
必死で自分に言い聞かせ、ブンブンと頭を振る。落ち着け、ミレイユ! 悪役令嬢たるもの、これしきのことで動揺してはダメ! ……って、もう令嬢じゃないし、動揺しまくりだけど!
気を取り直して、隣の羊皮紙の巻物に手を伸ばす。紐を解き、くるくると広げてみると……中から、カサリ、と乾いた音を立てて、何かが転がり落ちた。
それは、手のひらサイズの、見事に干からびた……カ、カエル……?
「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
今度こそ、私の絶叫が第二書庫(の埃)にこだました。む、虫とか爬虫類とか、そういうの、一番苦手なんですけどぉぉぉぉ! しかも干物! 生々しくないけど別の意味で怖い!
床にへたり込みそうになるのを必死で堪え、後ずさる私。すると、それまで壁のシミと化していたはずのカイエンが、ピクリ、と眉を動かした。(ほんの、ほんの僅かに、だが)
彼は、私の足元に転がったカエルの干物(!)を一瞥し、まるで天気の話でもするかのように、ボソリと呟いた。
「……それは『呪詛返しのアミュレット』の失敗作だな。術者の呪いが強すぎて、媒体(カエル)が耐えきれずに即身仏になっただけの代物だ。触っても害はない」
「……………………は?」
私の口から、間抜けな声が漏れた。
じゅそがえし? あみゅれっと? しっぱいさく? そくしんぶつ???
情報量が多すぎる上に、専門用語(?)が飛び交って、私の貧弱な脳みそは完全に処理能力を超えた。
「な、なんで……アンタが、そんなこと……知って……?」
呆然と問いかける私に、カイエンはちらりと視線を向けたが、特に答える気はないらしい。再び古文書の棚に目を戻し、今度は、ある特定の紋様が描かれた古びた木箱の前で足を止めた。その紋様は、どこかで……そうだ、さっき私が気になった、あの奇妙な金属装丁の本の紋様に、よく似ている気がする。
男が、その木箱に手を伸ばそうとした、その時だった。
ギィィィィィ…………。
本日何度目かの、不気味な扉の開く音。もうやめて! 私のライフはゼロよ!
涙目で入口の方を振り返ると、そこには……え? まさかの?
「ミレイユ司書! 大変だ! 王宮から至急の使いが……って、あれ? ヴァレンティア隊長? なぜ貴方がここに?」
息を切らして飛び込んできたのは、なんと、さっき別れたばかりの騎士様、レオンハルト=アーヴィング、その人だった。そして彼は、私の隣にいるカイエンを見て、驚きと警戒の色を露わにしている。
(え? えっ? 隊長? この不審者が? 王都治安隊の!?)
騎士様と治安隊長と曰く付き古文書と干からびたカエルと私。
もう、カオス。完全に理解不能なカオス空間の出来上がりである。
「もう……帰りたい…………」
私の心の叫びは、もはや誰にも届かない。私の平穏な読書ライフは、一体全体、どこへ行ってしまったというのだろうか……。
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