本文

 それはまさに、地獄と呼ぶのにふさわしい光景だった。

 天まで届くのではないかと思うほどに巨大な何かが、無数の触手をまるで鞭のように振り回している。

 それが地上をひと薙ぎするたびに京都の街は瓦礫の山と化し、巻き込まれた人々は細かな肉片となって辺りに四散した。


 今は『N』と呼ばれるそれが顕現した時、保紀は友人たちと大学の中庭で談笑していた。

 本当に何の変哲もない会話だった。どこかのサークルが活動報告のために校内新聞を作ったら、内容が過激すぎて教師陣による検閲が入ったとかそんな馬鹿馬鹿しい話。


 誰かが、あ、と声を出して空を指差した。

 保紀も一緒にいた友人たちと共にそちらへ視線を向ける。


 それが何なのか、保紀は咄嗟に理解できなかった。脳が理解を拒んだと言うべきか。

 結果的に、それが彼らの生死を決めたと言っても過言ではなかった。


 呆然とその山のような影を眺める保紀の周りで、友人たちは狂乱し始める。

 その場で目を見開き、涎を垂らして動かなくなる者。

 絶叫し、その場から逃げ出す者。

 唐突に隣にいた人物を攻撃し始める者。


 理解が追いつかないまま、学内に居た人々が次々に狂気に侵されてゆく。

 他者を加害し始めた友人に驚き、保紀は咄嗟に彼を取り押さえた。

 いや、正確には『取り押さえようとした』だ。

 腕を掴んで無理やり引き剥がした彼の体が、被害者ごと何かに攫われたのだ。


 ただ、手の中に何かの重みがある。

 ぶらり。バタバタと血を流す腕だ。もぎ取られた肩から先はどこを見渡しても見つからない。

 目の前を過ぎていった大きな何かな、風を切る音を立てながら頭上を再び通り過ぎてゆく。

 ひっ、と喉から息が漏れて、手の中から腕が滑り落ちた。


 そこでようやく、思考が回り始める。

 逃げなければならない。

 逃げなければ、自分も同じように殺される。

 それまで認識できなかった、破壊音や悲鳴、断末魔が波のように押し寄せてくる。


 どこか建物の影へ。

 ……いや、だめだ。コンクリートですら簡単に破壊されるのだから、どこに隠れたって意味がない。


 ならば出来るだけ『あれ』から遠くへ。

 そう思い、とにかく走った。息が切れても無理やり肺を動かし、血を吐くような思いで京都の端へ。

 それなのに、出られない。あの悪魔のような何かが、嘲笑うように蹂躙するこの地から。

 なぜか足が前に出ない。無事な街並みが前方に見えるのに、身体がそちらへと向かおうとしない。


 生を求める本能に従わない身体に、恐怖と混乱、絶望感で気がおかしくなりそうになる。

 それでも死にたくないという一心で。

 生きていれば助けが来るかもしれないという希望に賭けて。

 ほとんど眠ることもできずに、保紀は血に塗れた京都の中を生き続ける事になる。


 その間に、ひどいことはいくらでも起きた。

 奇跡的に再会できた友人が、度重なる惨事を前に目の前で正気を失って自刃したり。

 協力関係を結んでいた人物が、貴重な食糧を盗んで消えてしまったり。

 おとなが死んだこどもの屍体を貪る姿を見たり。胎から溢れる柔らかな臓腑を笑顔で差し出されたり。十一月の冷えた空気に晒されて湯気の立つそれを。まるで天からの贈り物のように。


 正気に耐えうる光景ではなかった。

 だから、今の保紀の中には生き抜いた一週間の記憶はごく一部しか残っていない。


 涙も恐怖も枯れた頃だった。その頃になると、自分以外に生きている人物を見ることもなくなっていた。

 もういっそ自分も狂わせて欲しい。

 生きるのをやめたいのに、生存本能に逆らうほどの勇気がない。

 瓦礫と死体の街をふらふらと彷徨い続ける。


 たまたま辿り着いたのが吉田神社だった。

 大学の近くにあるその神社は学生にとって特に珍しいものではなく、保紀自身も境内に踏み入った事はなかった。


 ざあ、と立ち並ぶ木々の葉を風が揺らす。

 石畳の上を歩くと、じゃりじゃりと細かな石粒が音を立てた。

 この神社がどういった神を祀っている場所だったのか、保紀には分からない。

 しかし、その神にはあの脅威から自身の聖域を守るほどの力はなかったのだろう。

 無惨な姿になった境内を見渡しながら、そんなことを考える。


 ふと、その時。

 拝殿の影で何かが動くのが見えた。

 ほんの一瞬の事だったので、見間違いかもしれない。それでも、あれは人影ではなかっただろうか。保紀は吸い寄せられるようにそちらへ足を向ける。


 それは孤独や恐怖を他者の存在で癒したかったのか。それとも誰かの為に命を使う事で、助けられなかった人たちへのせめてもの償いとしたかったのか。

 今となってはわからない。


 しかしどれだけの警戒心や猜疑心が溶け込んでいようが。

 夜空にぽっかりと浮かぶ月の光を受けたその瞳の色を、この地獄の中でただ一つ綺麗だと思ったことだけは、はっきりと覚えている。


 *****

 ふと、目を覚ます。

 心臓は悪夢に早鐘を打ち、額や首筋には冷や汗が浮いていた。


 背中にはよく知った体温がある。

 規則正しい呼吸音が聞こえており、どうやら春斗は大人しく寝入っているらしい。


 しばらくの間、先程までの夢をぼんやりと思い返していた。

 悪夢、というよりは記憶の再生に近いと感じる。夢で見た光景は全て、実際に保紀が直面したものだったからだ。


 春斗が死ぬ光景は、以前に何度も悪夢で見た。

 しかし彼と出会う前の惨状を夢に見たのは、これが初めてだったように思う。

 何らかが記憶に蓋をしていて、それが外れたというのだろうか。保紀本人にもわからない。


 夢は夢だ、そう思ってもう一度眠ろうとするが、うまくいかない。

 目を瞑ると、恐怖を顔に貼り付けたまま冷たくなった人々の顔が浮かぶ。


 背後から腹に回された春斗の腕を、起こさないようにそっと剥がしてベッドから起き上がる。

 出来るだけ静かに扉を開閉し、リビングへと出た。汗をかいていたから、軽い脱水症状を起こしているのかもしれないと思い、グラスに汲んだ水を一気に飲み干す。


 ふと視線を窓の方へ向けると、カーテンの隙間から月の光が差し込んでいた。

 どうやら今日は満月らしい。


 サンダルを履いてベランダに出る。

 当然のことだが、住宅街の灯りはほとんど消えていた。

 冷えた夜の空気が、寝巻きから露出した肌を撫でて熱を奪ってゆく。


 ベランダの柵にもたれ掛かり、上を見る。

 やはり煌々と輝く月が見上げた空の真ん中にあり、その周りにちかちかと瞬く星が散らばっていた。


 人は死後、星になるという表現がある。

 なら、探せば自分の知る友人たちの星もあの中にあるのだろうか、などと思った。

 あいつは目立ちたがりだったから、星になったらきっと一等星。あいつは根は良いやつだけど、周りからクールに見られようとしていたから、きっと青い星。そんな事を考える。


 二条はどうなったのだろうか。

 保紀は、混乱の中でも懸命に自分へメッセージを送ろうとしてくれていた友人の事を思い出す。

 あの時持っていたスマートフォンは、一度命を落とした時に失くしてしまっていた。だから、もう彼の言葉を読み返すことはできない。


 彼は、遠い宇宙の向こうにある図書館のような場所に行ってしまったらしい。

 だからきっと星にはなれないし、何度生まれ変わっても彼と巡り会うことは出来ないのだろう。

 とっくに知っていたはずのその事実が、今更悲しみに変わる。視界に映していた無数の光がじわりと滲んだ。


 ぼろぼろと頬を伝う涙を何度も袖で拭う。

 どうして彼は、自分と会って話してくれなかったのだろうか。

『死んでも友達だ』なんて、どうせ呪いのように残すのならば、面と向かって伝えて欲しかった。


 確かに二条は友人として付き合っていた頃から、本心を見せずに飄々と振る舞うことのある人物ではあった。

 それでも、話を出来る最後のチャンスすらも与えてくれなかったことに対してだけは、今でも少しだけ憎く思っている。


 そうしていると、ふわっと何かが肩に掛けられる感触があった。

 見ると、それはリビングのソファにいつも置かれている大判のブランケットである。


「……なんで起きてんねん」

「前に言ったやろ。保紀が居ないと寝られんのやって」


 当然のように隣に入って来る春斗。

 柵に肘をついて、保紀の顔を覗き込む。


「いつ起きたん?」

「保紀がベッドから出た時」

「最初やんか。すぐ声かけーや」

「だってあの時声かけたら、変な夢見たーって誤魔化して寝直そうとするやろ」


 春斗は親指の腹で保紀の目尻を拭いながらため息をついた。

 保紀はというと、まさに図星のため何も言い返すことができない。


「それで、今度はどうしたん」

「……最初に、あの化け物が京都に現れた時の夢を見た」


 辜瞳の効果で、二人の記憶には改竄が行われている。

 そしてそれぞれが積者と対象者という違った立場に居たからこそ、コヤネとの取引以前の出来事を春斗が同じように覚えているかどうかは保紀には分からない。

 それについて確認する必要はなかったし、互いに口には出さずとも、京都での出来事を忌避していたからだ。


 保紀は死んだ友人達のことを思い出していた、とは伝えなかった。

 春斗はあの一連の災厄で家族まで失っているのだから、自分のことを彼に慰めさせたくないと思ったのだ。


 彼が保紀の言動からどこまでのことを悟ったのかは分からない。

 暫くの間、二人で静かな夜の世界を眺めていた。

 愛しい温もりの隣で、少しずつ保紀の心は平穏を取り戻す。


「ベランダでブランケット被って話したこと、前もあったよな」

「……そういえば、そうやな」

「あの時は心臓止まるかと思ったわ。だって『俺らって、友達よな?』は完全にフラれる流れやん?」


 春斗の肩に頭を預けながら、保紀は思い出して小さく笑う。

 もちろん当時の彼にとっては笑い事ではなかったのだが、今となってはある意味良い思い出である。


「勝手にそう思い込んだだけやろ。それに、あの時はよくも逃げてくれたな」


 そう言いながら春斗は保紀の腰に手を回し、そのまま引き寄せた。

 すり、と指で腰骨を撫でられた保紀は心臓が跳ねるのを感じながら、視線を彷徨わせる。


「……嫌われたくなかってん」

「相手の気持ち勝手に決めつけてうじうじすんの、保紀の悪い癖やで」

「う゛っ」


 思い当たる節が多すぎて、くぐもった呻き声を上げる事しかできない。

 何度も何度も保紀が良かれと思って本心を隠したことで、逆に気苦労を掛けてしまったことを思い出す。


「で、でも。これからは素直に話そうと思ってるから」

「ふーん。どんな心境の変化?」

「どんなって」


 保紀は、自身の右手の薬指で月光を反射する指輪に視線を落とした。


「改めて身も心も捧げるって誓ったんやし、ちゃんと心の中も全部見て欲しいなって……思って。春斗なら全部受け入れてくれるって、信じてるし」


 我ながらとんでもない発言だと、保紀は思った。

 実際にそう考えているのだから嘘はついていない。が、当然口に出して伝えるのは恥ずかしい。

 しかも春斗はたっぷり数十秒の間黙ったままでいるのだから、その沈黙に耐えられなくなる。


「なんか言えって……!」

「……いや、ごめん。言葉が出て来んくて」

「どういう意味やそれ!」


 顔を上げて彼の表情を見てやろうとしたところで、手のひらに視界を覆われる。

 唐突のことに驚いている保紀の耳元に顔を近付けて、春斗は小さく「嬉しい」と呟いた。


 普段冷えがちな春斗の指先が、明らかな熱をもって瞼に触れていた。

 その熱が肌を通して保紀にまで移ったように、頬が真っ赤に染まるのを自覚する。


 やがてゆっくりと塞がれていた視界が開放され、視線が結ばれた。

 どちらともなく、愛しげに頬を寄せ合ってから静かに唇を重ねる。

 キスしながら柵の上で互いの手を取り、指を絡めた。


 そして唇を離した後も、息が触れるような距離で見つめ合う。


「ずっと、どうすれば伝わるんやろって悩んでたんや」

「……ごめん。俺、臆病やからなかなか決心できなくて」


 切げなその言葉に、保紀は申し訳なさそうに瞼を伏せる。

 春斗はその様子を見て、微笑みながら首を横に振った。


「保紀の方からそう思ってくれたなら、それで良いよ」

「そう?……ありがとな」


 つられるように、保紀も笑みを浮かべる。


「……それから、春斗は言ってくれてたけど。あんまり俺からは伝えられてないなって思っててる事があってさ」

「ん?」

「その……」


 保紀は一瞬ためらいそうになるが、意を決して春斗の瞳を見つめた。


「愛してるよ、春斗。世界で一番、愛してる」


 見開かれた金木犀色の瞳が、あの日のように月光を映して輝く。

 相変わらず綺麗な色だと、そう思った。

 そんなことを考えていると、春斗はひどく幸せそうにも、泣き出しそうにも見える表情を浮かべる。


「……俺も愛してるよ、保紀」

「へへ。嬉しい……月が綺麗ですね、なんてまどろっこしいのは俺らには似合わへんな」

「うん。そうかもな」


 小さく笑い声を上げて、灯った熱に浮かされつつ、また互いの柔らかな唇を喰んだ。

 戯れるようなキスから少しずつ深いものへと変わってゆき、静まり返ったベランダに何度も濡れたリップ音が響く。

 やがて顔を離した保紀が、息を吐きながら言った。


「春斗、その……早速、相談したいことあるんやけど」

「うん、何?」

「……俺、このままじゃ寝られへんわ。だから、付き合ってくれる?」


 照れ臭そうに笑って、恋人に身を預ける保紀。春斗は小さく笑って、「いいよ」と頷いた。


「嬉しいこと沢山言ってくれたお礼に、何でも言うこと聞いたるわ」

「ほんまに?どうしよかな……」


 そんな話をしながら、手を繋いだまま二人でリビングへと戻る。

 しっかりと閉め直されたカーテンは、彼らの姿を世界から隠してしまった。


 これから彼らが過ごすのは、月も知らない二人きりの夜。

 蜂蜜やチョコレートすらも恥じらうような甘い時間となったのは、言うまでもないだろう。

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月下美人が開く頃 はるより @haruyori

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