第1章 はじまり
いつも
……人というのは、不思議な生き物で。
あんな酷い失恋をしたのに。
“お先真っ暗” な精神状態だったのに。
半年ほどが経過した今、
不思議とダメージは薄れつつある。
……まぁ。普通に社会人をしている以上、朝は普通に出勤しなければならないし。
職場で画面と睨めっこしたり、現場で打ち合わせをしたり。たまに頭を下げたり、逆に下げられたりしなければならない訳だし。
だから、いつまでも「魂抜けちゃってるし。」な状態では居られなかっただけ……ということなのかも知れないけど。
……そんな “いつも” の生活。
いつもの時間まで残業して。
見慣れたいつもの電車に乗って、帰る。
そんな日々。
……そこに突然。見覚えのない顔が飛び込んできたのは、10月も半ばを過ぎた、ある夜のことだった。
「……?」
誰だ……?あれ。
これから乗って帰る予定の俺の自転車。それを塞ぐような形で……制服姿の女の子が立っていた。
見たところ、何か悪戯をしているとかではなさそうだけど。どうやらその視線は、俺のとは別の自転車を見ている様だけど……。
「……。」
その視線の先を追って……すぐに理解した。
俺の自転車の隣、その子のものと思われる自転車を挟んで……その先。向こうの端まで実に綺麗に、自転車が倒れていた。
いわゆる “ドミノ倒し”。
たぶんだけど……自分の自転車を出そうとして、肩だか腰だかぶつけて。「あっ」と思った時には、 “ガラガラガラ……ガシャーン!” ってトコだろうか?
お気の毒に……。
「あの……。」
「っ!?」
……とりあえず。
そこを退いてもらわないことには、俺は自分の自転車を出せないわけで。
といってもまさか「邪魔だ。退け。」なんて、そんなストレートに言えるわけもなく。俺の口から出てきた言葉は、おそらくこの世で最も当たり障りのない言葉「あの……。」だった。
そんな俺の声にビクッと肩を震わせて、女の子がこちらを振り向く。少し怯えた様な表情で。どうやら背後に俺が近づいたことに、気づいてなかったらしい。
「あ……悪い。驚かせちゃったか?」
「いえ……。あ!ごめんなさい。すぐ……!」
軽くパニックになった感じで。
女の子があわあわと口を開く。
いや……ホントに。
脅かすつもりは無かったんだ……ごめん。
どうやら、怒られる?文句を言われる?そんな感じに受け取られてしまったらしい。やっぱり「あの……。」じゃ、言葉足らずだったか……反省。
「……大丈夫?ケガはない?」
「えっ?あ……はい。大丈夫です。」
「よし……。じゃ、自転車。起こしてくか……。」
誤解されたままなのも、不本意だし。
警戒されたままなのも、心が痛むし。
とりあえず、手伝いを申し出ることにした。
他意は無い。
……。
いいか?大事なことだから、もう一度。
他意は無い。
無いったら、無い。
……そのまま黙って帰るのも薄情な気がして、声をかけてしまっただけだ。お願いだから信じてほしい。通報だけは勘弁してほしい。
「あ……えっと。はい!」
俺が1台目の自転車に手を掛けると、女の子も慌てて隣の自転車を起こしに掛かる。
少し色素の薄い瞳。
風に吹かれてサラサラと揺れる、透き通った髪。
……綺麗な子だった。
◆◇◆◇
そのまま2人がかりで、格闘すること数分。
何台か自転車同士が絡まってたりしてて、けっこう苦戦しながら。何とか無事、全ての自転車を並べなおすことに成功した。
……ぶっちゃけ、かなり疲れた。
「ありがとうございます。」
先ほどのカチコチだった表情はどこへやら。とても穏やかな笑顔で、女の子が頭を下げる。その表情を見て、ようやく俺もホッとする。
「どういたしまして。俺もさ、昔同じような経験あるんだよね。」
自分の自転車の鍵を開けつつ、答える。
「その時さ……たまたま見回りに来てた管理人さんが、起こすの手伝ってくれて。だから、こういう時はお互い様。」
「……はい!」
女の子が笑顔で頷くのを確認すると、俺は自分の自転車を引き出した。
倒れた自転車は全て起こしたし。
この子も落ち着いたようだし。
お互い、気持ちよく家に帰れるだろう。
「それじゃ。」
「はいっ!ありがとうございました。」
そう言って、微笑んだ少女。
色素の薄い二つの瞳が、
俺の目を真っ直ぐに捉えていた。
……それが何だか、くすぐったくて。
速やかに回れ右。
自宅へ向けて自転車を走らせた。
“いつも” の日常の中に割り込んできた、突然の出来事。振り返ってみれば、実に些細な出来事だったけど……。
俺たちの “いつも” は、
こうして始まった。
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