病室と心残り

笹木ジロ

病室と心残り

「四つん這いになった私の背に、堂々と座っていただけますか?」

 その私の言葉に、彼は理解の追い付かない顔をしていました。


    ◇


 静穏な空間です。私の人生、過ごした日々はあまりにも穏やかでした。この静まり返った個室も、まさに私の生涯そのものに思えるのです。ベッドで横になる私に、窓辺は陽射しをプレゼントしてくれます。カーテンを閉めてしまうのは勿体ない。窓を開けることができれば、そよ風を感じることも叶うのでしょう。しかし、残念ながら開閉はできないようです。上半身がガラス張りの壁、この壁が寂しいほどに厚く見えてしまいます。私はもう外へは出られないのです。

 私の命は長くないそうです。

 内臓を悪くしたとか、悪性腫瘍があるとか、そういったものではないらしいのです。ただ単に、そういうからだなのです。痛みや苦しみもありません。些か、ちからが入りづらい程度でしょうか。おそらく、急変もなく徐々に最期へ向かうのでしょう。実に私らしいと思えてなりません。

「それでも、もう少し長生きしてほしいって、俺は思っていますよ」

 心優しい青年は、そう励ましてくれます。彼は教え子です。私は高校教師をしていました。彼を担当した時期は、ちょうど十年前でしょうか。高校を卒業した後も、しばしば私の職場へ会いに来てくれる彼には、形容し難い親愛のようなものさえ感じています。

「いまの私の相手は、さぞ退屈でしょう、早々に切り上げてもらっても良いのですが」

「いいえ、俺はあなたを恩師だと思っています、とことん付き合いますよ」

 私には、彼になにかを与えた自覚がありません。彼が言うには、たった一度の進路相談が人生を変えたのだと、そう言うのです。無難な言葉を送っただけなのですが、なにが起こるかわからないものです。

 有名人になりたい。勇気を振り絞ったような彼の声を、いまでも覚えています。実家がレストランで、料理は好きだが、それよりも多くの人に自身を知ってほしい。思春期特有の自己承認欲求かもしれませんが、それでも安易に彼の人生を定めたくはありませんでした。調理師学校でも、他分野の大学でも良いので進み、多くの人に出会い、遊びながら技術も自分自身も学び、余剰時間で実家を手伝い、その様子を発信するのはどうでしょうか。一見すると、彼に寄り添っているように見えます。ですが、その実、可能性を並べただけの当たり障りのない内容でしかありません。それをこうも慕われてしまっては、かえって恥ずかしいばかりです。

 実際に、彼は有名人となりました。いまでは、動画にテレビ、雑誌にイベントと引っ張り凧のようです。面白いだとか、勉強になるだとか、そう言ったこともあるでしょうが、なにより彼の人柄が人気の秘訣なのでしょう。長年付き合いのある私にはわかります。実直で、熱血で、時折可愛げのある愛嬌も持つ、そこに人々は惹かれるのではないでしょうか。その彼の貴重な時間を、私は奪っているのではないかと考えてしまいます。このような枯れた病室に縛っておいてよい人材ではありません。細く脆いにも拘らず、端の見えない糸のような、気まぐれな私の命が、少し煩わしくも思ってしまいます。


「なにか、いまのうちにやりたいこととか、願いとか、ありませんか!? 俺、できることなら協力できますので!」

 なんと健気な心意気でしょう。どこまでも真っ直ぐな彼の精神には救われてばかりです。私が入院する以前からずっとそうでした。ですが、私にはもう思い残しはありません。荒波立てず、静かにひっそりと暮らし、その最期も掠れていくように迎える。それこそが私らしい生だと考えているのです。いまさら、なにかやり残したことなどあるはずもないのです。

「気持ちは有難いですが、とくに思いつきませんし、悪いので、大丈夫ですよ」

「俺が飯を振舞えれば良かったのですが、さすがに病院から許可はでなくて、悔しいですよ、せっかく磨いた腕なのに」

「お気持ちだけでお腹いっぱいです、病院の食事も悪くないですよ、それに娯楽も不自由していませんし」

 やり残したことなど、ないはずなのです。はずなのですが。娯楽、という自身の言葉に少しばかり引っかかったことも事実でした。

「娯楽ですか、そうだ、なにか買ってきてほしいものとかありますか?」

「どうかお気遣いなく、コンビニには行けるのですよ、コンビニに置いてある漫画もなかなか面白くてですね、たまに買って読んでいるのです」

 漫画で思い出しました。ひとつだけ、あったのです。

 しかし、このような愚昧な提案など、彼にして良いはずがありません。本当に馬鹿馬鹿しく、口にすることも恐ろしいほどです。言わば、走行中のマラソン選手に記念撮影を求めるような行為です。非常識であると、人格が歪んでいるのだと、私がそう言われる分には一向に構いません。仮に、頭のどこかに異常があるのだとしても、幸いここは病院ですから、治癒の可能性もあるわけです。ですが、彼が迷惑を被ることには抵抗があります。彼のような善が、悪ですらない詰まらぬ私の嗜好に付き合う必要など、あるはずもないのです。

「俺はなにもせずにいられる人間じゃありません、どんなことでも、ひとつだけでもなにか恩返ししたいんです」

「恩返しって大袈裟ですよ、そんなところは君らしくもありますが」

「わかりました、では、俺の願いだと思って、なにかひとつ言ってください、そうすれば俺の気も済みます」

「そ、そうですか、弱りましたねえ」

 果たして、彼の押しの強さを言い訳にできるのでしょうか。あるいは、提案だけ、提案だけでしたら許されるのかもしれません。彼が承諾しなければ問題ない、そう考えても良いのでしょうか。

 これは、あくまで言ってみるだけです。

 言ってみるだけ。

「四つん這いになった私の背に、堂々と座っていただけますか?」

 返事はなく、耳鳴りが聞こえます。石のように固まる彼を数秒ほど眺めたでしょうか。正直なところ、気まずくて仕方ありません。

 余命わずかな人間が、ついに危険な状態にあるのだと感じたのでしょうか。あるいは、特殊な性癖の持ち主だと誤解されているのでしょうか。どちらも誤りなのです。私のからだは弱っているだけで、心身のどこかが悪さをしているわけではありません。至って健全な人生を歩んできた私は、そのようなことに興奮をおぼえるわけでもありません。

「それは、なんというか、まずくないですか?」

「ああ、いやはや、変なお願いをしてしまいました、忘れてください」

「あ、あなたが変態だとか、そういったことじゃなく! 病院で病人に座るって、さすがにまあ、やばいと言いますか」

「いいえ、ここは個室です、問題ないと思いますがね」

 強い口調での否定と断定。私らしくもありません。なにを意地になっているのでしょう。彼の言うことは、まったくもって間違っていません。十人いれば九人が彼に賛同するでしょう。残りの一人は素直な変態で間違いありません。

 弁明の余地があるとすれば、動機が実体験への意欲であることです。きっかけは、病院一階のコンビニに売っていた漫画にあります。不良と言いますか、極道と言いますか、いわゆる裏社会の物語を描く漫画でした。普段読まないジャンルであるがゆえに、新鮮な面白さを感じたものです。その登場人物たちや世界観に不覚にも惹かれてしまったのです。

 その中で、最も印象に残って消えない場面があるのです。些細な出来心で小金を稼ごうとした主人公と友人が、危ない輩による制裁を食らう場面です。友人はなぶられ、主人公は四つん這いになり、その上で札束を数える危ない輩。言いようのない刺激的な場面でした。そのとき、私は思い描いてしまったのです。

 私も、この主人公のようになりたいと。

 再三述べますが、このような趣味があるわけではありません。ただ、この主人公の心情を量りたいのです。少しばかりの悪巧みによって、自身は絶対服従を強制され、友人がこれからどのような目に合うかもわからずにいる不安。静かに凪ぐ海のような私の日常に、巨石を投じ、その波の揺らぎを見てみたいのです。

「はあ、言い出したのは俺ですからね、わかりました、筋は通します」

「え、あ、いや、無理をするのはよくないですから、ですが、ええと、良いのですか?」

「二言はありません、焚きつけたのは俺です、言っときますが、ばれたら終わりますからね」


 床についた腕が震えています。これは、からだが弱り切っているからでしょうか。あるいは、期待への興奮からでしょうか。手のひらも膝も冷たさを感じ、床と膝の骨が擦れて少々痛くもあります。第三者の視点で見ることができず、非常に残念です。どれほど滑稽な姿をしていることでしょうか。

「さあ、どうぞ、いつでも大丈夫です、よろしくおねがいします」

「こっちは大丈夫じゃないですよ、ああ、困ったな、いまさらやめようなんて言えませんよね」

「それはそうです、逃げるなんて君らしくもないですね」

 明らかな煽りであると、私自身もわかっています。しかしながら、未知なる体験を前に、つい本音が漏れ出ている気がしてなりません。昂っているということもあるでしょうが、一方で恐れている私もたしかにいるのです。角の立たぬように、人並みに過ごし、身の丈に合う選択を続けてきた私です。その生涯の最後、一度限りの背徳、どうにも勇気がいることです。つまりは、勇気を奮い立たせるための自身への煽りでもあるのでしょう。

「どうなっても知りませんよ」

 ゆっくりと体重が背にかけられていく感覚が伝わります。潰れてしまうのではないかと考えましたが、思いのほか耐えられる程度です。おおかた、足に体重を逃がしてくれているのでしょう。彼はどこまでも優しい青年のようです。

「なるほど、そうですかそうですか、これはなかなか」

 いまの私はどのように映っているのでしょうか。四つん這いの哀れな服従者になり切れているのでしょうか。彼が体重を緩めてくれなければ、私は決して逃げられないでしょう。あまりに絶望的であり、あまりに屈辱的です。これこそが、人に乗られた人の気持ち、求めていた感覚。漫画の主人公の心情を、私も味わうことができているのでしょうか。

「だ、大丈夫ですか?」

「問題ありませんよ、とても素晴らしいですね、感極まる寸前です、それよりどうですか? 座る側の意見も聞いてみたいのですが」

「すぐにでもやめたいですよ! ああ、なんでこうなったのか、もういいですか?」

「あとすこし! 三十秒! いや、十秒!」

「ですが、もうここまでにしたほうが」

 ここで終わるわけにはいきません。たしかに、逃れられない拘束を受ける体験は叶いました。しかし、いまひとつしっくりとこないのです。おそらくは、あの漫画のような、小さな火遊びへの後悔や、友人への不安、そういった重苦しい感情が再現できていないのでしょう。これでは、消化不良となります。とは言え、後悔や不安をおぼえる材料もありません。現状では、屈辱と服従のみです。非常に残念ですが、ここまでのようです。さすがに苦しくもなってきました。腕も膝も限界を超えそうです。

降参の宣言をする覚悟を決めた、そのときです。

 突然、背にかかる体重が消えました。からだが軽くなったように思えます。女神さまが私の前に立っているのです。ひどく気力を消耗しすぎたのでしょうか。女神さまがお迎えに来たのかもしれません。最期に見る姿は、死神か天使か仏さまか、あるいはご先祖さまかと思っていましたが、これは予想外です。女神さまだったのです。それも白衣を着た立ち姿です。

 白衣、なぜ白衣なのでしょう。そういえば、ここは病院。

 いやな予感がし、からだを起こし、顔を上げると、看護師の方が佇んでいました。大事件を目撃したと言わんばかりの表情です。その隣では、教え子が両手を顔で覆い、黙って俯き、頭を横に振っています。

 極めて危うい状況です。ばれたら終わりますからね、という彼の声が頭の中で反響し続けていました。


    ◇


 幾度とない釈明も、まったく手ごたえがありません。私の指示であると伝えても、「はいはい、いまは彼から聴取していますので」と病室のベッドへ戻されてしまう始末。あれから一週間は経過したでしょうか。しかしながら、冷静に考えてみれば、入院患者が四つん這いとなり、面会者がその上に乗るなど、言い訳以前に状況が意味不明であるわけです。この一件はなかなかに面倒な事件となっているのでしょう。多方に迷惑をかけてしまいました。申し訳もありません。

 不思議なことが、ひとつあります。私の状態が良くなっていると、医師は言うのです。内臓の働きも、血流も良好で、このまま行けば復帰を視野に入れたリハビリも検討すると言うのです。あまりに不可解ですが、医師曰く、精神的な要素が回復を促しているのではないか、とのことです。精神面の変化と言えば、長生きしたくなったことでしょうか。

 当然です。このまま死ぬわけにはいきません。

 私の詰まらぬ邪念によって、ひとりの若者が窮地に陥っているのです。私はとんでもない過ちを犯してしまったと後悔しているのです。この件が問題となり、彼が業界から干されでもしたら、悔やんでも悔やみ切れません。後悔先に立たず、です。ひたすらに、後悔です。

 彼はいま、どのような状況にあるのでしょうか。聴取、ということは警察のところへ厄介になっているのでしょうか。狭く、暗い部屋に閉じ込められているのでしょうか。彼に関する話は、未だ一切聞いていません。彼は助かるのでしょうか。彼はこの先、どうなるのでしょう。不安で仕方ありません。ひたすらに、不安です。

 ですが、大きな収穫もあります。後悔と不安。これは、私が消化不良で入手しきれていなかった心情です。秘密のまま終えていたならば、到達できなかった心情です。自身の出来心に後悔し、友人の処遇を不安に思う。完全にシンクロを成した心地です。いまの私は、まさしく漫画の主人公の心情を再現できていると言えるのではないでしょうか。これぞ、私の求めていたものです。彼はその身を以て、私の求めていたものをすべて与えてくれたのです。これこそ、彼なりの恩返しだったのかもしれません。

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