一 後宮入りは前途多難(1)

「この辺りで待っていてちょうだい。逃げませんから!」


 荷花フーファはぞろぞろとついて来る護衛の男性らや官女らに言う。

 しかし彼らははっきりと首を横に振ると、依然として荷花の後ろをついて歩いた。


 庶民と変わらぬ格好をした行き遅れの娘が、後ろに良い身なりの人間を連れて歩いている、という状況は奇妙他ならない。

 たとえ馬に乗ったとて、庶民よりもいい恰好をしている動物が家の前に佇んでいるというのも注目を集めかねなかった。


(これが最善よ……)


「お父様、お母様、今帰ったわ」


 無論二人ともひどく驚いていた。明らかに宮廷の人間とわかる恰好の人間を連れて、娘が帰ってきたのだから当たり前だ。


「荷花、何をしたんだい」

「今月分を用意できなかったからって……貴女をそんな子に育てた覚えはありませんよ!」


「違うわよ! ねえ、私とんでもないことになっちゃったの」


 荷花は早とちりする両親を否定し、それから憂鬱な気分のまま顔を上げた。


「私、主上に下賜かしされたみたい」

「何を」


 母の率直な訊き返しは荷花の言葉を詰まらせる。


「……皇后きさきの、座」


 荷花が視線を下げて告げた言葉に、母は息をのんだ。


 すでに沙藍しゃらんの取り決めにより、荷花はチュー皇后と呼ばれることになっていた。それはつまり自宅への滞在はもう許されないということ。


 なんと暴力的な決定だと憤慨すれば、沙藍には「そなたは昼間、包丁片手の男に追いかけ回されたことをすでに忘れたか」と言われてしまい閉口するしかなかった。

 皇后となる人がそのような危険蔓延はびこる街に居座るなど言語道断。

 理論の通った言葉で説き伏せられてしまえば、荷花は何も言えない。しかも相手は国の太陽たるお方。


 両親は眉を下げ、酷く悲しそうな顔をした。前もっての準備があれば、このような顔をさせずに済んだのだろうか。

 荷花はぎこちない表情でできる限りの笑顔を作り、胸を張ってみせた。


「大丈夫よ、私頑張るもの。それにお父様の名は後宮でも通っているらしいから、そうそう舐められないわよ」

「荷花、何かあればいつでも手紙をよこしなさい」


 やせ我慢は荷花を生まれた日から知っている両親には通用しない。

 父は哀れみの滲んだ声音をして、荷花の手をそっと取った。温かい父の手に握り込まれ、荷花は安心させるための笑みを取り繕う。


「……ありがとう。じゃあね。お父様もお母様も元気に」







 滑らかな肌触りのじゅに、上質なきめ細かいしゃを重ねて作られた刺繍の鮮やかなくん

 そして側付きの女官が沙藍しゃらんが用意したものだと言った、皇帝にしか許されないという淡い黄色の褙子はいし*を上から羽織らされる。


 そして彼女は紅を小筆に取ると、荷花フーファに顔を差し出すように言った。荷花は言われるがまま首を突き出し目を伏せる。

 目尻と唇から触れる優しい手つきが離れ、荷花は目を開く。


 荷花よりもよっぽど良家の出身に見える女官は服の調子を整え終えると、妃嬪ひひんに相応しいまでの凛とした笑みを湛えて手鏡を差し出してきた。


「とてもお似合いでございます、荷花さま」


 荷花は鏡の中の見慣れぬ自分に驚き、紅で彩られた小ぶりの唇を指先で確かめる。

 母親譲りで芯のある巴旦杏アーモンド型の瞳は映えるように紅色で縁どられており、たおやかさの象徴である細い顎は濃い色の襦で引き立って見えた。


 高級品で整えれば誰でもそれなりの見目に仕上げられるらしい。


「あ……ありがとう、紅槿ホンチン。でもこれ、絵を描くには少し不便よね」

「勿論です。この恰好で間違っても顔料に手を伸ばそうなど、思わないでください」


 紅槿に釘を刺され、荷花はしぶしぶ頷く。


 紅槿は荷花の父の近くで働いていたことがあり、この度荷花の側付き女官に任命された。

 大出世だと喜んでいたが、荷花としては彼女がずっとくりや当番の女官長であったことの方が不思議だ。それほど紅槿は頭が柔らかく、機転が利く。

 荷花の知らない礼儀を一から教えてくれるのでとても助かっていた。


 しかし、この窮屈さ。今までのように気ままに絵を描くことはできなさそうだ。

 とはいえ、この後宮には道士もいないので、描いたものはすぐに飛び出して娯楽どころではなくなるのだろうが。


(あの人、何を考えているのかしら)


──国のために動いてもらう故


 外交や政治などに荷花の絵の才を使おうというのなら、動きにくい服まで着せてわざわざ皇后の座を与える必要はない。

 荷花の見目は特別いいわけではないし、ではやはり……動く絵を何かに利用しようというのだろうか。


 これまた見事なしごとの椅子に腰かけ、荷花は物思いにふける。そこかしこにあしらわれてた金糸で視界がちらつき、落ち着かない心をさらに加速させた。


 そこへ、戸が数回叩かれる音がした。

 荷花が首をもたげ紅槿の顔を見ると、彼女は一つだけ頷く。荷花は姿勢を正して、手の中のさしば**で顔の下半分を隠して口を開いた。


「はい」


 紅槿の手によって開かれた扉の先には、男性が一人拱手を取っていた。

 そしてその後ろにはまだ十幾つほどに見える可憐な少女が、蓮の花を浮かべた水盤すいばんを両手で大切そうに抱えている。


(こんなに小さな子供も女官として働いているのね……)


「主上からでございます」


 大きく花弁を開いた蓮の花は少女の小さな手で掬われて、もとより部屋に置かれていた白磁の水盤にそっと浮かべられる。


 荷花はその意味を、幼少に受けた教育の記憶を掘り返して探した。

 そしてすぐに思い当たったのは『わたり』という三文字。


(少し早すぎないかしら)


 それほど沙藍は庶民の荷花を気に入ったということだろうか。

 しかしながら荷花は数刻後に行われる行為を想像して、小さくなった。

 行き遅れと言われる十九に足を掛けてなお、荷花は大人の階段を上っていない。絵に没頭しすぎたかと反省するが、遅い話だ。


「失礼いたしました」

「え、……ええ」


 荷花は皇后らしい毅然とした態度で、部屋を出てゆく宦官の男性と小さな宮女を見送る。

 ふう、と一息つけば頭上から紅槿の視線を感じた。


「立場にふさわしい振る舞い、よくできておりました」

「まったく人の上に立つのは性に合わないわね」


 荷花は全身の力を抜き、背もたれに体を預ける。


(庶民から突然皇后になるなんて、どんな絵物語かしら)


「しかし初日に御渡りとは、主上の一目ぼれだったのかもしれません」

「さあ……」


 一目ぼれ。美しくも理性に欠けた言葉に荷花は苦笑いを返す。

 しかし紅槿はいえいえと首を振り、冗談でもなさそうだ。


「自信をお持ちください。荷花さまのご実家は四夫人にこそ劣りますが、魅力や才という点では全くむしろ誰よりも相応しい、と紅槿は思います。それに豪奢な襦裙をこれだけ素敵に着こなされているのですから、謙遜というものです」

「そうかしら」


 それだけ褒めそやされても、荷花には胸に渦巻いている言葉があった。


──国のため


 何か考えていることがあるのだろうか。

 決して画の中に閉じ込めておくべきではない作り物のような美しさの沙藍の顔を荷花は思い浮かべ、肘置きに頬杖をついた。










褙子はいし*:襦裙じゅくんの上から羽織る上着のこと。

さしば**:柄の長いうちわのようなもの。

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