第一章 夜に啼く花

黄昏

「蹴飛ばすわよ」


 そう言われて顔を上げると、長い髪を肩に流した華奢な男が立っていた。なかなかに目鼻立ちのしゅっとした男だと思っていると、黄昏のなか、その柳眉がにわかに顰められる。


「宮女――?」


 いかにも計都は宮女であり、それが明らかな装いをしていた。数多の同僚と同じ、染めはないが動きやすく、そこそこにきっちりとした仕立てのお仕着せだ。なのに、相手は納得しかねる顔をしている。


 男の視線が髪に注いでいると知って、それも腑に落ちた。計都の髪は短く、肩にすら届かない。小柄な体格も相まって、服次第では少年に間違われても不思議はない。先ほど、計都の脇を通りぬけていった小太りの宦官も、ぎょっとした顔をしていた。


 男のほうの服を見てみると、彼はどうやら宦官だった。しかも、印綬が赤いところを見るとなかなかの官位だ。なよやかなその身体にそそくさと道を空けると、訝るような視線が追ってきた。


「妙な髪型をしてるわね。小宦かと思った」


 宦官見習いと見間違われても、とくに心は動かなかった。男装が普通だった頃のことを思い返し、まだまだ私も行けるじゃないか、とすら思う。


「お目汚し、申し訳ありません。宮仕えより前は、物騒な場所におりましたもので」

「はあ」


 わかったようなわからないような声を、宦官は出した。物騒な場所にいたというわりに、立ち居振る舞いはそれなりにちゃんとしている、ちぐはぐさに承服しかねると言いたげだ。


「どなたにお仕えしているわけ?」


 こんな奇っ怪な宮女を出入りさせるのは、どこの妃賓かと問いたいのだろう。計都はよどみなく答えた。


「どなたかお一人にお仕えするのではなく、後宮のいずこでも、手入れの要る場所へ伺っております」


 じっさい計都は、とりあえず後宮の人手が足りないからと、十把一絡げに雇われた無数の宮女のひとりだ。今上帝の放漫により、無秩序に拡大した後宮はどこもかしこも手入れがしきれなくなっている。それでも昔は、各妃の抱える下女や、宦官たちにより維持がされていたらしいのだが、ここへ来てやっぱり足りないので大量に雇い入れることになったらしい。


 宦官もそうした事情は承知なのか、呆れたように言った。


「こんななりの子どもも雇うなんて、どれだけ人が足りていないんだか」


 腐っても宮城、そして後宮に招き入れるのだから、それなりの格好をした者でないと雇われない――はずだった。ただ、空前の人手不足だったらしく、短い髪も眉を顰められただけで何も言われず雇われた。まあ、髪ならどうせ伸びるだろうと思われたのだろう。


 そういう事実を思い返しつつも、計都の胸に重い何かが降り積もる。この宦官、口が悪い。たぶん、性格も。


 まあいいか、と気を取り直してそばに置いていた桶を拾う。傾きかけた陽を浴びて、水は赤く照らし出されていた。


 この髪のせいで悪目立ちしないよう、計都はきまって、もっとも人通りの少ない場所に差し向けられることになっている。人の髪型を気にするなんて器の小さい人間のすることだと思っていたけれど、こういう意地悪な輩から距離を置けていたのは幸いだったのだ。


 庭沿いの手すりを磨いていた手巾をさっさと絞り、計都は立ち上がった。ちょうど作業も一区切りついたし、今日はこれでおしまいにしていいだろう。とっとと立ち去ろうとしたとき、背後から声がかかった。


「どうしてこんなところにいるわけ」

「それは――仕事ですが」


 事実ではあるが、可愛げのない言い方をしてしまった。これでは良くないと、なるべく丁寧に補足する。


「この格好ですので、人気のないところに差し向けられています」

「なるほど」


 さいわい、宦官はその説明ですんなり納得してくれた。ここは、後宮のなかでも比較的大きな殿舎の近くなのだが、奇妙なほど人通りがない。


「皆怖がって近づかないところも、あんたには丁度いいわけか」

「怖がって?」


 今日の仕事を割り振った恰幅のいい宮女は、ここに計都を差し向けた理由を言わなかった。皆が怖がっているなどと言うのは、初耳だ。


 思わず周囲を見渡したが、広々とした渡り廊下と、それに面した庭園しか目に入らない。あとは、崔徳妃と彼女のもうけた皇女が住んでいた絢礼殿。どれも、薄墨を流したような闇に沈んでいくところだ。


 特段、奇異なところはなく、計都は首を傾げた。その様子を見て、宦官が呆れたように言う。


「何も知らないまま、体よく押しつけられたとはね」


 宦官の口の悪さより、妙に女性的な口調のほうが計都は気になり始めていた。宦官の身体は、幼いうちから男性としての成長を止められているという。じっさい、しゅっとした目鼻立ちやしなやかな身体は、それを体現していると言えた。だが、話し方まで女に寄せる必要はあるだろうか。


 それ以上、宦官は言葉の意味を語ってくれなかったので、計都は彼の視線を追った。渡り廊下の柵の向こうには、手入れのされた木々の並ぶ庭園がある。茂みの向こうには鏡のように凪いだ池の水面が、赤い夕空を映している。


 そのほとりに立つ古木を、宦官は見つめているようだった。いくつにも分かれた枝を天に伸ばし、池に全身を映しこむかのようにそびえている。だが、早春に芽を出しはじめた木に、変わったところはない。


 あの木を誰が恐れるというのか?

 思ったときに、宦官が呟いた。


「遅いじゃない」


 見れば渡り廊下の奥から、長身の若い男がひとり歩いてくる。体躯は宦官と対照的に逞しく、近づいてくれば顔立ちも精悍とわかる。黒い官服に縫いとられた勇猛な獣の刺繍から、武官と思われた。

 夕闇に浮かぶ長い髪は銀色だ。ここけい国では、非常に珍しい瑞兆とされている。


 瓊の国が乱れはじめてから、すでに久しい。市井の治安は十年以上前から悪化していたが、宮城内もそれなりに秩序を失いつつある。後宮に、男たちが出入りすることが珍しくないのもその証のひとつだ。


 何しろ、人手が足りない。何万人という数字に膨れ上がった女たちの面倒を見、後宮の手入れをするには、各妃自前の女官や、元からいる宦官たちでは追いつかない。警固の男手などは、まっさきに出入りを緩和されたという。


 だから、正真正銘の男が出入りしているというのは驚くに値しない――驚いたのは、この国の武官にこれほど上品な人間がいたことだ。国が乱れ、政も官吏の私腹を肥やす場になり果てている今、誰も彼も我欲ばかりを顔に浮かべていたから。


 宵明かりのなか、見えた瞳は澄んだ褐色をしている。その下にある唇が、宦官に向かって詫びた。


「すまない。皇太子殿へ奏上にあがっていた」


 しかも、皇太子のもとへ直接出向けるなら、それなりの官位になる。眉目秀麗なだけでなく、頭脳明晰とはうらやましい。


「もっと前にとっととご説明していればよかったのよ」

「立て込んでいた」


 簡潔に答えた彼に、宦官が舌打ちをする。いったい何の用事で二人は待ち合わせたのだろう。しかも、こんな怪しげな場所で。首を傾げたとき、宦官がするどく呟いた。


「来た」

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