第1話 「はじまりの春」
春の風は、思ったよりもあたたかかった。
駅からまっすぐ伸びた通りを歩きながら、私は胸の中でそっとつぶやいた。
「いよいよ、社会人かぁ……」
ここまで、本当にあっという間だった。
大学4年間、私は“特待生”という立場で、誰よりも多くの時間を「好きなこと」に注ぎ込んできた。
学科の誰よりも早く企画を立て、深夜までコンペ資料にかじりつき、
時には教授から「ちょっとやりすぎじゃないか?」と笑われるほどだった。
でも、それが私の“普通”だった。
「好きなことで食べていきたい」という気持ちは、思い込みなんかじゃなかった。
その証拠に、卒業を迎える頃には4社から内定をもらっていた。
どれも、名の知れたクリエイティブ系企業。
正直、どこに行っても恵まれていたと思う。
その中で、今の会社を選んだ理由は――なんというか、“直感”だった。
社風も、人の雰囲気も、面接でのやりとりも、どこか柔らかくて温かくて。
何より、まだ若い会社らしく、自由な空気が流れていた。
「あなたの“個性”に期待してます」
そう面接で言われたとき、心がふっと軽くなったのを覚えている。
あの瞬間、ここにしようって、決めたんだ。
引っ越しの準備をほとんど終えた今日、私は職場の近くに来ていた。
入社式まではあと数日あるけれど、「せっかく近くまで来たんだし、挨拶くらいしておこうかな」と思って、会社に立ち寄ることにした。
インターホン越しに名乗ると、「ああ、新入社員の子? ちょっと待ってね」と明るい声が返ってくる。
数分後、ドアが開き、中から柔らかな笑顔の女性が出てきた。
「こんにちは! わざわざ来てくれてありがとう。引っ越し、大変だったでしょ?」
「いえ! ぜんぜん! はやく仕事したいな~って思ってたので!」
思わず声が弾む。ワクワクが止まらなかった。
ロビーのソファに通されて、少しだけ雑談をした。
会社の雰囲気は、ぱっと見とても落ち着いていて、オフィスのレイアウトもシンプルながら洗練されていた。
けれど――どこか、ほんの少しだけひっかかる感覚があった。
なんというか、人の気配が薄い。
受付の女性と、向こうのデスクで電話をしている男性、パソコンに向かう女性、それだけ。
私の中で思い描いていた“活気ある制作会社”のイメージとは、少し違っていた。
「今日は、たまたま病気してる子がいてね」
受付の女性が気をつかったように笑って言う。
私は「あ、そうなんですね」と返しながらも、なんとなくオフィスをぐるりと見回していた。
そんなとき、背後から「こんにちは」と声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは――背が高く、がっしりとした体格の男性。
年齢は……私よりだいぶ上に見えた。
黒縁メガネに、ややうすい頭髪。そして、少しお腹が出ている。
でも、笑顔はとても柔らかかった。
「ああ、君が新しく入る子か。ようこそ。社長から聞いてるよ」
「あ、はい……!よろしくお願いします!」
「うち、まだまだ人数少ないけど、だからこそ自由もあるし、やりたいことは何でも言ってね」
そう言って差し出された手を、私は少し緊張しながら握った。
穏やかで、親切そうな印象。でも――なんだろう、この違和感。
彼の名前は“近藤さん”と言った。
話によると、入社してまだ1カ月の“新人”だそうだ。
年齢は36歳。業界歴は長く、クリエイティブ関連は一通りこなせる“ベテラン”らしい。
思い出した。
内定の連絡をもらったあと、社長が私にこう言っていた。
「君より年上のすごい新人が入ったよ。何でもできるし、君とはいいコンビになれると思う」
「これからは、彼とタッグで色々挑戦してほしいな」
そのときは「すごいなぁ」と素直に思ったし、頼れる人がいるのは心強いとも感じていた。
そして今日、こうして初めて顔を合わせた“その人”は、思いのほかフレンドリーで、冗談交じりに話しかけてくれて――
私は、ちょっと安心した。
「この人となら、大丈夫かも」って。
新しい土地、新しい仕事、初めてのひとり暮らし。
すべてが新鮮で、まぶしくて――
心から、「早く始まってほしい」と思っていた。
このときの私は、まだ何も知らなかった。
“本当の彼”の顔を知るのは、入社して数日後のことだった。
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