第13話

 旅が始まった。


 雪原の朝は静寂に包まれ、風すらも凍るような冷たさだったが、不思議と寒さは感じなかった。身体の奥底に灯る炎のようなものが、凍える空気を押し返してくれている──そんな感覚があった。


 


 それはきっと、《トゥカ・ノ・モシリ》という帰る場所があるからだ。


 そして、リラという待つ者がいるからだ。


 


 俺の歩みはまっすぐだった。


 


 森を越え、小さな川を渡り、凍土の裂け目を避けながら、地図にも載っていない小径を選んで進む。


 


 途中、獣の影を見た。


 雪をかき分けて進む巨大な“カムイの使い”のような狼。だが俺が《ホイサー》と一声かけると、その獣は立ち止まり、まっすぐ俺を見つめ、やがて首を垂れて去っていった。


 言葉が通じる──この世界では、それが“武器”だ。


 


 その夜は、雪庇の下に即席の炉を作り、干し肉と雪解け水で簡素な食事を取った。


 焚き火の音と、風の通り抜ける音。


 そして、ときおり空から降る星のような氷の結晶。


 


 「明日には、峠を越える」


 


 ひとり呟いた言葉は、誰に向けたでもない。


 だが、風がそれに応えたように、一瞬だけ炎が大きく揺れた。


 


 翌朝、雪嵐が来た。


 視界はほとんど白一色に閉ざされ、風は刃のように頬を斬った。


 だが俺は足を止めなかった。


 


 「ホイサー……ヤンケ……ナンノ・オ・カムイ……風よ、道を知れ……」


 


 祈りの声は、小さく、だが確かに地に響いた。


 すると、風がわずかに緩み、雪の舞う向きが変わる。


 


 “ここを行け”──そんなふうに風が告げているようだった。


 


 俺はそのまま歩いた。


 声だけを頼りに、雪原を越えて。


 


 やがて、前方に黒い線が見えた。


 木だ。人工の、それも整然と立ち並ぶ柵。


 その奥には、灯火の影。建物の影。


 


 「……街、だな」


 


 ようやく、辿り着いた。


 吹雪を越え、氷の獣をかわし、祈りの声で道を切り開いて──俺は《カリワタ・ギルド》の支部がある街、コルノスにたどり着いた。


 


 門番の男が訝しげにこちらを見る。


 だが、俺の格好がただの旅人ではないことは、すぐに伝わったのだろう。


 雪に染まったマント、腰に帯びた異形の剣、そして背に結わえた《祈り布》。


 


 「……旅人か?」


 「いや、《語り手》だ」


 


 その言葉に、男の眉が僅かに跳ねた。


 


 「語り手……だと? まだそんなものが生きていたのか」


 


 「生きてるさ。氷の村で、精霊と共に。あんたらが捨てた地でな」


 


 その一言で、空気が変わった。


 もう、昔の俺じゃない。


 蔑まれていた“声の異能”は、今や俺の“武器”だ。


 


 「通せ」


 


 俺の言葉に、男は沈黙の後、小さく頷いた。


 


 門が開く。


 街の空気が流れ込む。


 


 雪と氷の地で育まれた《語り手》が、ついに“世界”と再会する時が来た。

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