第7話
その夜、村の空気は一変していた。
日が沈むと同時に、広場には焚き火が焚かれ、普段よりも多くの料理が並べられた。
神印石が反応したという“奇跡”の目撃は、村人たちの心に深く刻まれていた。
「まさかナラヤンが……」
「神に選ばれた者……」
「やっぱり、あの空の裂け目と関係あるんじゃ……?」
俺の耳には、そんな囁きがいくつも届いた。
けれど、誰もはっきりとは俺に近づいてこなかった。
まるで、触れてはいけないものになったかのように。
ただ一人、ミンだけは違った。
「ねえ、これ……お守り。母が作ったの」
ミンが差し出したのは、赤い糸で編まれた小さな袋だった。
中には乾燥させた薬草と、水牛の角を削った護符が入っている。
「昔、森で迷子になったとき、ナラヤンが探してくれたこと、覚えてる?」
「……ああ、覚えてる。あのとき、ミンが泣いてたから、俺、焦って全力で走ったんだ」
「ふふ、そう。それが、あたしにとって最初の“英雄”だった」
ミンは柔らかく笑った。
「だから、明日も――信じてる。ナラヤンなら、呼べるよ」
胸の奥がじんと熱くなった。
神の選びも、加護も、使命も、すべてを力に変えてくれるのは、こうして見ていてくれる人がいるからだ。
「ありがとう。……絶対に、結果を出すよ」
ミンの手をそっと握って、そう告げた。
その夜は、不思議とよく眠れた。
夢の中で、ナーガが空を巡っていた。
金色の身体が星々の間を滑るように飛び、やがて一つの地を指し示す。
黒く染まった森。
赤く光る山脈。
石でできた封印の扉。
──目覚めの時は近い。
そんな声が、確かに聞こえた。
翌朝、目を覚ますと、東の空はすでに明るく染まっていた。
今日は、神祭りの本番。
“召喚試験”の日だ。
祭壇のある神殿区画は、村の中心よりもさらに奥、森と川の境に建っている。
そこには大理石の柱と蔦に覆われた古い祠があり、普段は立ち入りも許されていない。
けれど今日は違った。
神殿の扉が開かれ、朝の光が差し込む中、選ばれた若者たちが順にそこへ足を踏み入れていく。
「入場者、カマル!」
呼ばれた名前に、観衆の中から歓声が上がった。
カマルは堂々と胸を張って前へ進む。
彼の身体は鍛え抜かれていて、装飾布の下に隠された筋肉がその歩みに重さを与えていた。
──けれど、俺の視線は彼の背ではなく、その先にあった。
神殿の奥。
そこには、召喚の間と呼ばれる部屋があるという。
伝えられる限りでは、試験を受けた者が“神霊の器”の前に立ち、神との縁を得られるかが試されるのだ。
「次、ナラヤン!」
俺の名が響いた瞬間、緊張が一気に身体に押し寄せた。
けれど、足は迷わなかった。
一歩ずつ、石畳を踏みしめながら進む。
道の両側には村の長老たちが並び、祈りの言葉を呟いている。
その空気は、静謐というよりは、祝福と畏怖の入り混じるものだった。
神殿の扉をくぐると、そこは静寂の世界だった。
音が消えたように思えた。
外の喧騒も、空気の揺れも、すべてが止まっている。
前方には、一段高くなった祭壇。
その中央に、円形の台座が置かれていた。
台座には、古代文字が刻まれている。
その意味は読めなかったが、視線を注いだだけで胸が熱くなる。
(……たぶん、あれが“器”なんだ)
俺はゆっくりとその前に立った。
自然と、手が胸の文様へと伸びる。
神印石がそこにあるわけではない。けれど、確かに感じていた。
──ここで、呼び出すんだ。
深く息を吸い込んで、目を閉じた。
ナーガ。
俺の中にいる、お前の力。
今ここで、証明する。
どうか、応えてくれ──
目を閉じたまま、両手を胸の前で組む。
身体の奥にある何かが、呼吸を始める。
鼓動ではない。けれど確かに脈打っている“力”。
それに意識を合わせ、ただひたすらに内なる存在を呼びかけた。
──ナーガ。
──応えてくれ。お前が選んだのは、俺だろ。
沈黙。
だが、次の瞬間、世界が変わった。
台座が淡く輝き、古代文字が青白く浮かび上がる。
空気が震え、床から立ち昇るかのように霧が立ちこめてきた。
その中心に、金の光が走る。
それは一本の線となり、台座を縁取るようにうねりながら空中へと舞い上がった。
──現れた。
神霊の姿は、俺だけにしか見えなかった。
けれど確かにそこに“いた”。
長い身体、金の鱗、翡翠の瞳。
あの夜に現れたナーガが、今再び俺の前にその姿を現したのだ。
俺は膝をつき、頭を下げた。
「……俺に力を。もう一度、誓わせてほしい。俺は、この命を……お前に預ける」
ナーガの瞳が、ゆっくりと細められる。
その姿はまるで、何百年も前からこの時を待っていたようだった。
次の瞬間──
光が爆ぜた。
神殿全体を包むような光柱が天井へと突き抜け、屋根を貫いて空に至った。
その光は、外にいるすべての村人たちの目にも届いた。
「な、なんだ……あれ……!」
「あの柱の中にいるのは……ナラヤン、なのか!?」
騒然とする外の世界をよそに、俺の中で何かが確かに変わった。
身体の奥に流れ込む神気。
それはかつてない重さと、そして温もりを持っていた。
──契約は、完全に成された。
──ナラヤン・ラーチャ、神獣ナーガの正契者とならん。
空間が静まり返ったとき、光は消え、俺はゆっくりと立ち上がった。
掌には、新たな刻印が浮かび上がっていた。
それは、“力の証”そのものだった。
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