第3話

 ナーガと目が合ったまま、俺は一歩踏み出した。

 不思議と、怖さはなかった。まるで長く知っていた存在に再会したような感覚だった。


 ──おまえか。


 声が、響いた。頭の中に、直接。


「っ……!」


 驚いて思わず後ずさったが、すぐに気づいた。

 これは……心に語りかけてきている。声ではない、念話。

 まさか、本当に神話の中の存在が俺に話しかけているなんて……。


「な、なんで……俺に?」


 問いかけに、ナーガは何も言わない。ただ、身体を揺らしながら、俺のほうへ近づいてくる。


 黄金の体が地面を滑るたび、草木が音もなく押しのけられる。

 それでも俺は逃げなかった。逃げたくなかった。


 ──選ばれたのだ。


 また、声が頭に響いた。


「選ばれた……?」


 意味がわからない。俺はただの農民だ。村の誰からも期待されていない、落ちこぼれだ。

 そんな俺が、神獣に“選ばれた”なんて、信じられるわけがない。


 ──王の血を継ぐ者。


 ナーガが、俺の目の前で静止した。

 その瞳は、どこか寂しげで、どこか優しい。

 ゆっくりと頭を下げ、俺の胸元に額を触れさせた。


 その瞬間──光が爆ぜた。


 俺の胸が熱くなる。焼けるような痛みと、同時にどこか懐かしい感覚。

 目を閉じた。世界が白く染まり、あらゆる音が遠ざかっていく。


 浮かんだのは、見たことのない記憶だった。


 高床式の宮殿。金色の装飾。無数の人々が膝をつき、俺──いや、誰か──に頭を垂れている。

 神官が告げる。「この者こそ、古王朝最後の血を引く者」


「……まさか、俺が……?」


 信じられない。でも、確かに今、何かが自分の中で“目覚めた”。


 意識が戻ったとき、俺は膝をついていた。

 両手は土を掴み、息は荒く、額から汗がしたたり落ちていた。


 目の前には、変わらずナーガがいた。

 けれど──その姿が、どこか違って見えた。

 光を放っていた身体は穏やかに落ち着き、まるで俺の呼吸に合わせるかのように、ゆったりと体を揺らしていた。


 そしてその額には、淡い光の文様が浮かび上がっている。

 それは、俺の胸にも同じように刻まれていた。


「……契約、したのか?」


 自分でも信じられない声だった。

 だが、ナーガはうなずくように、その頭を動かした。


 信じがたい現実。けれど、心のどこかでは納得している自分がいた。

 昔から、何もできなかった。誰にも認められなかった。


 でも今、ようやく“俺にしかない何か”を得られた気がした。


 ──おまえは、古の契約者。

 ──この地に再び、均衡をもたらす者。


 ナーガの声が、また心に響く。


「……均衡? それって、どういう意味なんだ?」


 答えはなかった。

 けれどその代わりに、ナーガは尾で地面をなぞった。


 描かれたのは、王国の地図だった。

 アユータヤを中心に、周囲の密林、山岳地帯、湖畔都市まで精緻に描かれている。


 そして、地図のいくつかの場所に、赤い点が浮かび上がった。

 その数は、八つ。


「……これは……?」


 ナーガはゆっくりと尾を動かし、最も北にある一点を示した。

 そこには、黒い煙のような影が漂っていた。


 ──侵されている。

 ──時は満ちた。


 俺は息を飲んだ。

 何かが起きようとしている。それはきっと、この世界を揺るがすほどのことだ。


 そしてそれに対抗するために──俺は選ばれた。


 これまでの人生、何者にもなれなかった俺が、今、ようやく“役目”を得たのだ。


「わかった。やってみる。俺にできるかわからないけど……やらせてくれ」


 その言葉に応えるように、ナーガの体がふわりと宙に浮き、俺の背後へと回り込んだ。

 次の瞬間、背中に温かい感覚が走る。


 ──加護、授けた。

 ──汝、我が眷属なり。


 身体の奥から力が湧き上がる。

 それは、確かに俺のものではなかった。けれど、いまは確かに、俺の中に宿っている。

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