17
「………………」
僕はなにもない部屋の前に立ち尽くしていた。
「ヒュージ・ハック」と書かれていたはずの表札は既に外されていた。大気に風化した粘着テープの跡が汚らしく壁に残っている。それだけが部屋の痕跡だった。
「……どうした?」
ボーっとしていると思われたのだろうか、廊下に突っ立っている僕に声をかけてきた者がいた。振り返る。
「……オニキス」
「どうしたユウイチ。そこは空室だ」
「ヒュージの部屋、もう片付いたのか」
オニキスは黒い瞳を少し細めた。
「あぁ」
「あいつが死んだのは今朝のはずだろ。もう遺品整理が済んだのか?」
「あぁ」
僕は再度、何もなくなった部屋を見た。数時間前まで男が住んでいたとは思えないほど、真っ黒にまっさらな空室だ。今から新しい職員が入居しても問題ないほどの片付き。
「早いな」
通常、遺品整理はそれなりの仕事量となるため、人手は多いほうが良いのだ。現にナキが死んだとき、僕とオザワは彼の遺品整理に数時間はかけた。
ヒュージが死んだと連絡が入ったのは今朝のこと。まだ昼前の現在で、既に片付けが済んでいるというのか。
「死ぬ者が多いからな。自然、手際も洗練される」
「………………」
オニキスは黒い血管の浮いた手をさする。
「ヒュージの死に様は、どんなものだった?」
僕はその黒の凹凸から視線を逸らしてオニキスに問うた。
無論、視線を外したところで黒ばかりではあるのだが。
オニキスは黒い唇を滑らかに動かす。
「報告書に書いてあるはずだ。俺の口から説明するのはな……」
「気が滅入る?」
オニキスはほんの少しだけ頷いた。角度でいえば一度だって傾いていないだろう。それだけ小さな挙動だった。
「悪かった。報告書に目を通していない僕がダメだったな。後で読むよ」
「そうしろ」
僕とオニキスは亡きヒュージの部屋の前で別れた。
去り際、僕は空室を少し振り返る。あの部屋に次の住人が入ることはないのではないだろうか。
恐らく相当長いであろう報告書を読むために、僕は脳を仕事用に切り替えようとする。
そのスイッチを、オニキスの黒い肌の残像がどうしようもなく阻害する。頭痛の種は脳の奥、僕が摘めない位置に萌えていた。燃えていた。
オニキスの肌はテフォンのそれに似すぎているのだ。
*
黒いラシャの張られた台を撫でる。予約の入らない遊技場ではビリヤード台が暇そうに鎮座していた。
「右腕で触っても、感覚があるものなのか?」
ダーツを撃っていたオザワが、僕に背中を向けたまま問うてくる。
「まぁ……なんとなくね」
僕はなんとなく答える。
長年義手とともに生活していれば、触ったものの柔らかさや固さくらいは分かるものだ。
ボードにダーツがトッと刺さる音がする。
「聞くところによれば、君が右腕を失ったのは幼少の頃なんだろう?」
オザワが言う。
「そうだね」
僕は黒い球を弄びながら答えた。
「つまり、身体が成長するのに合わせて、義手も少しずつ大きいものに換えていったということか」
「当然、そうなるね」
オザワはまた撃つ。黒い羽が黒いボードの中に迷子になる。馬鹿げている。
「義手は、寝るときは外すのか?」
「なぜ急に、腕のことばかり聞く?」
質問を質問で返す。オザワはボードに歩み寄り、刺さったダーツを引き抜いてからこちらを振り向いた。
「何、いつそうなるか分からないからな、俺も」
「オザワほどの戦士が、簡単にそうなるかな」
「ヒュージがやられてるんだからな。俺もそろそろ、覚悟の時だ」
オザワは肩を回して、またダーツを構えた。
「義手も悪くないよ。肌荒れしないし、いろいろしまえるし」
それに、と僕は続ける。
「僕の右腕には小型爆弾が仕込まれてるからね。いつも爆弾と生活するってのはワクワクするもんだ」
「はっ」
オザワは僕の言を一笑に付す。
「それ、いろんな奴に言っているらしいな」
「まぁ、僕の鉄板ジョークだよね」
「じゃああれか? 右腕でラリアットでも決めれば、それと同時に相手を爆破できるってことか?」
「お、僕の必殺爆殺カタストロフラリアットの存在にその早さで気づくとはね。やるじゃん」
オザワは彼にしては大きな声で笑った。それは広い遊戯場に響いた。
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