秋の図書室と、不意打ちの類似性
読書の秋。放課後の図書室は、静かで落ち着いた空気に満ちています。窓から差し込む午後の柔らかな光が、埃っぽさを微かに照らし出し、まるで時間が止まったかのような錯覚を覚えました。わたし、橘恋春は、完璧な集中状態を保ち、先日購入したばかりの哲学の新書と向き合っていました。思考の海へ深く潜る、至福の時間……のはずでした。
「……んしょ」
背後で、誰かが本棚から分厚い本を取り出すような音と、小さな掛け声が聞こえました。この静寂を破る不届き者は誰か、と内心で眉を
しかし、数分後。わたしのすぐ隣の席に、どさりと本の山が置かれ、椅子が引かれる音がしました。まさか、この聖域で、しかもわたしの隣に座ろうなどという……。
顔を上げると、そこには、やはり、いるはずのない人物――早瀬蓮くんが、当たり前のように座っていました。彼は、どうやら調べ物をしていたらしく、様々なジャンルの本を乱雑に積み上げています。
(なっ……!? なぜ、あなたがここに!? しかも、わたしの隣に!? この完璧な静寂と秩序が、あなたの存在だけで乱されてしまいます!)
ドクン、と心臓が警告音を発します。思考回路にノイズが走るのを感じました。
「……ここは静かに読書をする場所です。本の扱いも、もう少し丁寧にお願いします」
わたしは小声で、しかし有無を言わせぬ厳しさで注意しました。視線はあくまで本へ。彼の方を見てはいけません。
「おっと、これは失礼。つい、熱中しちゃってね」
早瀬くんは悪びれもなく言うと、積み上げた本の一冊を手に取り、パラパラとめくり始めました。
「いやー、レポートのテーマ探し、難航しててさ。恋春ちゃんは、もう決まったのかい?」
(レポート……? ああ、現代社会の課題についてのレポートのことですね。わたしはもちろん、完璧なテーマ設定と構成案を練り上げていますが……)
「……あなたには関係のないことです。それより、もう少し静かにしていただけますか」
わたしは冷たく返します。
「つれないなあ。まあ、いいや。……ん?」
早瀬くんは、わたしが読んでいる哲学書と、彼が手に取った本(それは、意外にも現代美術に関する画集でした)を交互に見比べると、何か面白いものを見つけたかのように目を輝かせました。
「なあ、恋春ちゃん。ちょっと面白いこと発見したんだけど」
彼は、わたしが読んでいる本の特定のページと、彼が見ている画集の特定のページを、隣同士になるように広げて見せてきました。
「……なんです?」
わたしは不審に思いながらも、彼が示す二つのページに目をやりました。片方は、難解な哲学用語が並ぶ文章。もう片方は、抽象的で、見る人によって解釈が分かれそうな現代アートの作品。
「このさ、ショーペンハウアーが言ってる『意志の盲目的な衝動』ってやつと、この、なんだっけ、ジャクソン・ポロック? の絵の、この絵の具が飛び散ってる感じ。なんか、似てないか?」
彼は、真剣な(ように見える)顔で、突拍子もない指摘をしてきました。
(に、似ている……ですって!? この、深遠なる哲学の概念と、前衛的な抽象画が!? なんという非論理的で、感覚的な飛躍ですか!)
わたしは、彼のあまりにも大胆な発想に、一瞬思考が停止しました。しかし、言われてみれば……盲目的な衝動、制御されないエネルギーのほとばしり……。
(……い、いえ! 断じて似ていません! こじつけです! 単なる偶然の一致に過ぎません!)
わたしの論理的な思考が、彼の直感的な指摘に反論しようとします。しかし、心のどこかで、彼の指摘に、ほんの少しだけ「なるほど」と思ってしまった自分がいることに気づき、顔がカッと熱くなるのを感じました。
「そ、そんなわけありません! これは哲学、あっちは芸術。カテゴリーが違います! 安易な類似性を見出すのは、知的怠慢です!」
わたしは早口で反論します。
「そうかなあ? でも、カテゴリーは違っても、表現しようとしてる『何か』の根っこは、案外近いのかもしれないぜ? 言葉で理屈っぽく説明するのと、色と形で爆発させるの、アプローチは違うけどさ」
早瀬くんは、
「それにさ」
彼は、ふっと笑みを浮かべると、わたしの顔を覗き込むようにして言いました。
「そういう、一見全然違うように見えるのに、根っこの部分で何か通じ合ってる感じって、なんか、俺たちみたいじゃない?」
お、俺たちみたい!?!?!?!? ショーペンハウアーの哲学と抽象画のように!? 一見違うけれど、根っこで通じ合ってる!? わ、わたしと、彼が!?
その言葉が、わたしの心の壁を、まるで現代アートのように、鮮やかに、そして破壊的に打ち破りました!
脳内で、哲学書を読むわたしと、漫画雑誌を読む彼が、なぜかお互いを理解し合い、微笑み合っている……そんな、ありえないはずの、しかし妙に納得してしまうような(!?)イメージがフラッシュバックします!
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」
わたしは声にならない絶叫を上げ、読んでいた哲学書をバタンと閉じました!
「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! 哲学と芸術に対する冒涜的な解釈と! わたしとあなたを同一視するかのような不敬千万な発言と! そのわたしの論理回路をショートさせる悪魔のような類似性の指摘は!!! この図書室に存在する全ての活字の数に匹敵する苦痛死に値します!!! 今すぐその妄言を撤回し、知的天罰を受けなさい! さもなくば、この!
涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは手に持っていた哲学書(かなり分厚く硬いです!)を構え、完全にパニック状態でした! 図書室の他の利用者が、明らかに迷惑そうな顔でこちらを見ています!
「おっと、ついに哲学書で殴られるのか。知的な最期だなあ」
早瀬くんは、全く動じず、むしろ面白そうに言いました。
「でもさ、恋春ちゃん。そんなに否定するってことは、やっぱり、僕たちの間に『通じ合ってる何か』があるって、本当は気づいてるんじゃないの?」
彼は、悪魔の囁きのように、わたしの心の最も深い部分を突いてきました。
(き、気づいている……ですって!? わ、わたしが!? 彼との間に!? そ、そんな、非論理的な……でも……)
彼の言葉に、わたしの心臓は激しく波打ち、反論の言葉が出てきません。
「……まあ、今日のところはこの辺にしといてやるか」
彼は肩をすくめると、積み上げていた本を抱え上げました。
「レポートのテーマ、いいのが思いついたよ。『一見異質なものの根源的類似性に関する考察 ~ショーペンハウアーとポロック、そして僕と恋春ちゃん~』ってのはどうかな?」
彼は悪びれもなく、とんでもないレポートタイトルを口にしました!
(なっ……! わ、わたしたちの名前までレポートに!? そ、そんなものを提出したら……!)
わたしは、もはや反論する気力もなく、ただただ顔を真っ赤にして彼を睨みつけることしかできませんでした。
「じゃあな、恋春ちゃん。また明日、学校で」
彼はウインクを残し、足音も立てずに(こういう時だけ!)図書室を去っていきました。
(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのです!!! 人の読書を邪魔し、奇妙な類似性を指摘し、挙句の果てにはわたしと自分を同一視し、それをレポートのテーマにするなんて!!! 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……あなたの全レポートを、赤ペンで真っ赤になるまで添削してお返しします!!!)
自室に戻り、わたしは今日の出来事を思い返していました。あの図書室での、奇妙な会話と、彼の破壊的な指摘……。わたしは鞄から例のノートを取り出します。
『早瀬くんを殺したい99の理由』
深呼吸を一つ。今日の、静寂を破られた怒りと、彼の突拍子もない発想への(不本意な)感嘆、そして何よりも「俺たちみたい」という言葉の衝撃を記録しなければ。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#87とナンバリングしました。
理由#87:図書室において、わたしの読書と思索を妨害。さらに、哲学と芸術という異分野の間に強引な類似性を見出し、あろうことかそれをわたしと彼自身の関係性にまで
……違う。これでは単なる事実報告と彼の問題行動リストです。もっと本質的な、彼の直感的な指摘が、わたしの論理的な世界観を揺さぶり、彼との間に存在するかもしれない(認めたくない!)共通点や繋がりを意識させ、自己認識を混乱させた、その危険性について記さなければ。わたしは書いた文章を、深い混乱と共にぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。
理由#87:彼が、一見無関係に見える事象(哲学と芸術)の間に類似性を見出し、それを『俺たちみたい』という言葉でわたし達の関係性に適用した。この、論理を超えた直感的な指摘によって、わたし自身の内にある、彼との間に存在するかもしれない(あるいは、わたしが密かに感じているのかもしれない)繋がりや共鳴を強制的に意識させられ、自己の感情と論理との間に深刻な亀裂を生じさせた。このままでは、彼の言葉に影響され、彼との間に非論理的な『運命』や『特別な繋がり』を感じてしまい、最終的には完全に彼のペースに飲み込まれ、論理的思考を放棄してしまう危険性が極めて高い。その致命的な自己認識の汚染と、それに伴う理性の崩壊を阻止するための、緊急かつ絶対的な殺害動機。
……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや運命論(!?)レベルの重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの心を繋ぎ止めようとする彼の言葉から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。
わたしは、机の上に置かれた哲学書と、ふと目に入った美術の教科書を、交互に見つめました。ショーペンハウアーとポロック……。
(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……時々、妙に鋭いことを言う人です。『根っこは近いのかも』だなんて……)
彼の、あの少し真剣な表情と、「俺たちみたいじゃない?」と言った時の、悪戯っぽい笑顔が、忘れられません。
(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、突拍子もない発想も、そして……わたしの心の奥底を見透かすような言葉も、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、彼が書くというレポートの内容を、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……読んでみたいと、思ってしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)
結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、知的好奇心を、そして自己認識まで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼との間に存在するかもしれない「何か」と、彼が書くかもしれないレポートの内容に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……危険な好奇心と、抗いがたい興味を抱いてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……レポートが提出されたら、内容を厳しくチェックしなければなりません! あくまで、学術的な観点からですが!
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