橘家書斎の密室指導と、不規則な心拍数グラフ

約束の日曜日。わたし、橘恋春は、自宅の書斎で、落ち着かない気持ちでその時を待っていました。なぜ、わたしの家で勉強会などということになったのか……それは、早瀬くんが「どうせなら、一番集中できる環境で、恋春先生の完璧な指導を受けたい」などと、妙に真摯しんしな(しかし、絶対に下心のある)顔で言い出したからです。「図書館では他の利用者に迷惑がかかる」「ファミレスは騒がしい」などと、もっともらしい理由を並べられ、つい、承諾してしまったのです。


(い、いけません! これはわたしの聖域! ここに彼を入れるなど……! しかし、追試に合格させるためには、最適な環境を提供することも、指導者としての責務……。あくまで、合理的な判断です!)


インターホンの音が鳴り、わたしの心臓が大きく跳ねました。来たのです、彼が。


玄関のドアを開けると、そこには、ラフな格好の早瀬くんが、少し緊張したような(あるいは、面白がっているような)顔で立っていました。手には、数学の教科書とノートが握られています。


「やあ、恋春ちゃん。お邪魔します」

「……どうぞ。時間は限られています。早速始めましょう」


わたしは努めて平静を装い、彼を書斎へと案内しました。わたしの両親は、幸い(?)今日は留守にしています。つまり、この家には、わたしと彼、二人きり……。


(ふ、二人きり……!? な、何を意識しているのですか、わたしは! これは勉強会です! 追試対策の!)


ドクンドクンと鳴る心臓を無視し、わたしは書斎の大きな机に向かい合って座りました。


「うわー、すごい本の数だなあ。さすが恋春ちゃんちだ」


彼は、壁一面の本棚を見回し、感嘆の声を上げます。


「私語は慎んでください。まずは、あなたの現時点での理解度を確認します」


わたしは、事前に用意しておいた診断テストの問題用紙を、彼の前に置きました。


「はいはい、先生。お手柔らかに頼むよ」


彼は、いつもの調子を取り戻したように、ニヤリと笑ってペンを取りました。


テストが始まり、わたしは彼の様子を観察します。真剣に問題に取り組む彼の横顔は、普段の彼とは少し違って見えます。意外と、集中力はあるのかもしれません……。


(……って、何を感心しているのですか! 彼の成績がどうなろうと、わたしの知ったことでは……! いえ、追試に合格してもらわなければ、デート(!?)という事態に……! ああ、もう!)


わたしの思考は、完全に矛盾しています。


テストが終わり、採点を始めると……結果は、予想以上に深刻でした。基礎的な部分から、理解が曖昧な箇所が多数見受けられます。


「……早瀬くん。これは……正直、かなり厳しい状況です」


わたしは、厳しい口調で告げました。


「うぐっ……やっぱり? 自分でも、ヤバいとは思ってたんだよ……」


彼は、分かりやすく肩を落とします。


「しかし、嘆いていても始まりません。追試まで時間は限られています。わたしの指導計画に従い、徹底的に弱点を克服しますよ」


わたしは指導者としてのスイッチを入れ、用意していた参考書とノートを広げました。


「は、はい! よろしくお願いします!」


彼は、なぜか少し嬉しそうに(?)返事をしました。


そこから、わたしのスパルタ……いえ、合理的かつ効率的な指導が始まりました。基本的な公式の確認から、応用問題の解法パターンまで、順を追って丁寧に解説していきます。


「なるほど……そういうことか! 恋春ちゃんの説明、めちゃくちゃ分かりやすいな! 学校の先生より全然いい!」


彼は、時折、素直な感嘆の声を上げます。


(ふふん、当然です。わたしの知性と論理をもってすれば、これくらいの解説……って、な、なぜ、わたしが嬉しくなっているのですか!?)


彼の褒め言葉に、つい頬が緩みそうになる自分に気づき、慌てて表情を引き締めます。


「集中してください。次はこの問題です」


わたしは指導を続けます。しかし、二人きりの静かな書斎、という環境が、徐々にわたしの平静を蝕んでいきました。彼の座る椅子の僅かな軋む音、ペンを走らせる音、時折漏れる小さなため息……その全てが、やけに意識されてしまうのです。


特に、彼が問題を解くために身を乗り出し、わたしとの距離が縮まった時。彼の体温や、微かなシャンプーの香りを感じてしまい、心臓がドキッと音を立てます。


(ち、近い……! 近すぎます! パーソナルスペースの侵害です! しかし、指導のためには、ある程度の近さはやむを得ない……? いえ、これは危険な兆候です!)


わたしは、表面上は冷静に解説を続けながらも、内心では激しい嵐が吹き荒れていました。心拍数が、確実に上昇しているのを感じます。


彼が、難しい問題に唸りながら、ふと顔を上げ、わたしの目をじっと見て尋ねました。


「なあ、恋春ちゃん。ここの変形って、どうしてこうなるんだっけ?」


その、真剣な眼差しと、予想外に近い距離に、わたしの思考は一瞬停止しました。彼の瞳の奥に、自分が映っている……。


(あ……)


顔が、カッと熱くなります。言葉が出てきません。


「……恋春ちゃん? どうかした?」


彼は不思議そうに小首を傾げます。その仕草が、なぜか妙に……か、可愛い、なんて、思ってしまって……!


「な、な、なんでもありません!」


わたしは慌てて視線を逸らし、早口で解説を再開しました。しかし、声は上ずり、手は微かに震えています。


「ふーん?」


彼は、わたしの明らかな動揺に気づいたようで、ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべました。


「もしかして、恋春ちゃん。僕の顔、見すぎ?」


(み、見すぎですって!? な、何を……! わたしはただ、あなたの理解度を確認しようと……!)


「そ、そんなわけありません! あなたの顔など、見ても何の得にも……!」


「そうかなあ? でも、さっきから顔、真っ赤だぜ? まるで熟したリンゴみたいだ。……なあ、ちょっと味見してみてもいい?」


彼は、悪魔のような囁きと共に、そっとわたしの頬に手を伸ばしてきました!


あ、味見!? りんご!? わ、わたしの頬を!?!?!?!?


その瞬間、わたしの脳内で、学習指導要領も、追試対策も、全てが吹き飛びました! 理性のタガが、音を立てて外れます!


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」


わたしは椅子から飛び上がり、近くにあった地球儀(!)を掴み、彼に向かって振り上げました!


「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! 神聖な学習指導の場を汚すセクハラ発言と! わたしの頬を果物扱いする不敬な態度と! その破廉恥極まりない行動は!!! この地球上に存在する全原子の数を自転速度で掛け合わせた数に匹敵する死に値します!!! 今すぐその汚れた手を引っ込めなさい! さもなくば、この! 地球儀(北極点)で!!! あなたのその! 不埒な頭頂部を! 永久凍土に埋めて差し上げます!!!!!!」


涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは地球儀を構え、完全にパニック状態でした! 静かだった書斎に、わたしの絶叫だけが響き渡ります!


「おっと、地球儀とは、またスケールがでかいな」


早瀬くんは、手を引っ込めながらも、全く悪びれずに笑っています。


「北極点で殴られるのは、ちょっと冷たそうだ。でも、そんなに怒るってことは、やっぱり、味見されたかった?」


(み、味見されたかった、ですって!? ば、馬鹿なことを! 断じて違います!)


「だ、黙りなさい!!! この変態! 痴漢! 地球の敵!」


わたしは、もはや意味不明な罵詈雑言を浴びせるしかありませんでした。


「はいはい、地球の敵ね。光栄だな」


彼はやれやれと肩をすくめると、時計を見ました。


「おっと、もうこんな時間か。今日の指導は、この辺にしとく?」

「……!」


わたしは、まだ怒りで肩を震わせながらも、地球儀をゆっくりと下ろしました。確かに、もうかなり時間が経っています。


「いやー、それにしても、恋春先生の指導は本当に分かりやすかったよ。これなら、追試もなんとかなりそうだ。本当にありがとう」


彼は、急に真面目な顔になって、深々と頭を下げました。


(……え?)


その、ギャップのある真摯な感謝の言葉に、わたしの怒りは急速にしぼんでいきます。


「……べ、別に、あなたのためではありません。クラスのためです」


わたしは、まだ顔を赤らめながらも、そっぽを向いて言いました。


「そっか。じゃあ、合格したら、約束通り、デート、だからな? 楽しみにしとくよ」


彼は、最後に悪戯っぽくウインクすると、参考書をまとめて立ち上がりました。


「また明日、続き、お願いしてもいい?」


(ま、また明日……!? で、デートの約束は……撤回されていない……!?)


わたしは、何も言い返せないまま、彼が書斎を出ていくのを見送るしかありませんでした。


(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのです!!! 真面目に勉強するかと思えば、セクハラ発言でパニックに陥らせ、謝罪もせずに勝手に勉強を切り上げ、挙句の果てにはデートの約束を再確認して去っていくなんて!!! 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……あなたの追試の点数を、合格点のコンマ1点上にして、生殺しにして(!?)お返しします!!!)


早瀬くんが帰り、一人になった書斎で、わたしは大きく息をつきました。まだ心臓がドキドキしています。机の上に散らばった参考書と、彼が使ったノートが、今日の出来事を物語っています。……そして、鞄から例のノートを取り出しました。『早瀬くんを殺したい99の理由』。


深呼吸を一つ。今日の、自宅書斎という密室での危険な指導と、彼の悪魔的な言動、そして不覚にも感じてしまった複雑な感情を記録しなければ。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#88とナンバリングしました。


理由#88:追試勉強の指導という名目で自宅書斎への侵入を許し、二人きりの状況下で不必要な接近及びセクハラ発言(『味見してもいい?』)を行い、わたしの理性を著しく侵害した。さらに、指導の成果(追試合格)と個人的な見返り(デート)を結びつける不当な約束を再確認し、精神的なプレッシャーを与えた罪。


……違う。これでは単なる事件報告と彼の罪状リストです。もっと本質的な、二人きりの空間で、彼の真面目な一面(?)と不埒な言動のギャップに翻弄され、指導者としての立場と個人的な感情の間で激しく揺れ動き、あろうことか彼への指導に達成感すら感じてしまった(かもしれない)わたしの心の危険な状態について記さなければ。わたしは書いた文章を、もはや自分の感情を持て余すような気持ちでぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#88:彼との二人きりの勉強会において、指導者という立場を利用され、不適切な言動(セクハラ発言)によって精神的な動揺を引き起こされた。しかし同時に、彼の真剣な学習態度(?)や感謝の言葉に、非論理的ながらも指導者としての喜びや達成感を感じてしまい、彼を『合格させる』ことへの意欲と、『合格したらデート』という未来への抵抗感が、自己の中で激しく矛盾し始めた。このままでは、指導を通じて彼との心理的な距離が縮まり、最終的には追試の合否に関わらず、彼への特別な感情を抑えきれなくなる危険性が極めて高い。その致命的な感情の暴走と、指導者としての公私混同(!?)を阻止するための、緊急かつ絶対的な殺害動機。


……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや教師と生徒の禁断の関係(!?)にも似た重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの心をかき乱す二人きりの勉強会から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。


わたしは、彼が残していった数学のノートを、ぼんやりと見つめました。意外と几帳面な字で、解法のメモが書き込まれています。


(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の感情を弄ぶのが上手すぎる人です。『味見してもいい?』だなんて……)


彼の、あの悪戯っぽい笑顔と、真剣な眼差し、そして最後に向けられたウインクが、忘れられません。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、不意に見せる真面目さも、そして……わたしを先生扱いして頼ってくる(?)時の、あの妙な素直さも、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、明日、彼にもっと分かりやすく教えるためにはどうすればいいか、なんて、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……真剣に考えてしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)


結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、理性を、そして教師としての尊厳(!?)まで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼を追試に合格させなければならないという奇妙な使命感と、その先に待つ(かもしれない)デートの約束に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……心を揺らされてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……明日までに、もっと効果的な指導法と、彼のセクハラ発言に対する完璧な反論を用意しておかなければなりません!

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