図書貸出記録における個人情報保護の重要性と殺害衝動の関連性
放課後の図書室。それは、知の探求者たちが集う静謐なる聖域であり、図書委員であるわたし、橘恋春にとっては、完璧な秩序を維持すべき責任ある場所。わたしはカウンターに座り、貸し出し・返却業務を、一分の隙もなく、データベースと照合しながら正確に遂行していました。
バーコードリーダーの電子音と、ページをめくる微かな音だけが響く、理想的な環境。この静寂こそが、思考をクリアにし、完璧な業務を可能にするのです。わたしは内心の満足と共に、返却された本を分類していました。
「すみませーん、ちょっとお尋ねしたいんだけど」
その静寂を破る、軽やかで、しかしわたしの鼓膜には不協和音として響く声。顔を上げると、カウンターの前に、やはりというべきか、早瀬蓮くんが立っていました。彼は何冊か本を抱え、人懐っこい(と他の人は言うかもしれない)笑顔を向けています。
(なっ……!? なぜあなたがここに!? 図書室利用のマナーをご存じないのですか!? しかも、わたしが当番の時に限って……!)
ドクン、と心臓が警戒音を発します。彼の存在は、この聖域における予測不能なエラー要因。平静を装わなければ。
「……なんでしょうか。ご用の際は、もう少し静かにお願いします。ここは図書室です」
わたしは努めて冷静に、事務的な口調で応じました。視線は手元の書籍データへ。彼と目を合わせると、ペースを乱されるのは明白ですから。
「おっと、これは失礼。つい、恋春委員長のあまりに真剣な仕事ぶりに見惚れてしまってね。で、相談なんだけど、今度読む本を探しててさ。何かおすすめとかないかな? 恋春ちゃんが読んで面白かったやつとか」
彼は、こともなげに、わたしの個人的な読書体験、すなわちプライベートな領域に踏み込むような質問をしてきました。
(な、なんですって!? わたしのおすすめ!? わたしの読書傾向を、あなたのような方に開示するなど、断じてできません! それは精神的な裸体を晒すに等しい行為です!)
顔にカッと熱が集まるのを感じます。わたしの読書傾向は、純文学や哲学書が中心であり、それは完璧な橘恋春像を構成する重要な要素。しかし、その一方で、人には言えない、密かな楽しみも……。
「……図書委員は、個人の主観に基づく書籍推薦は行いません。検索システムをご利用ください。もしくは、新刊コーナーや特集コーナーをご参考に」
わたしは、あくまで図書委員としての模範的な回答を返しました。
「ちぇっ、つれないなあ。じゃあ、これ借りていくよ」
早瀬くんは少し残念そうな顔をしましたが、すぐに気を取り直し、抱えていた本をカウンターに置きました。わたしは無言で受け取り、バーコードリーダーで処理を始めます。ピ、ピ、と電子音が響く。そして、最後の一冊に手を伸ばした瞬間、わたしの動きが凍りつきました。
(こ、これは……!?)
彼が借りようとしている最後の一冊。それは、わたしが最近、人目を忍んでこっそりと読んでいる、甘々で少々ベタな展開が売りの、人気恋愛小説シリーズの最新刊だったのです! しかも、わたしが予約リストの次点に入れていた、まさにその本!
(な、なぜ!? あなたが、このような、わたしの密かな楽しみである(断じて認めたくありませんが!)恋愛小説を!? しかも最新刊を!? まさか、わたしの予約状況をどこかで……!? いや、そんなはずは……!)
頭が真っ白になり、全身の血の気が引くような感覚と、逆に顔に血が上るような感覚が同時に襲ってきます。心臓は暴走し、呼吸が浅くなるのを感じました。
「ん? どうかした、恋春ちゃん? その本、何か問題でも?」
早瀬くんが、怪訝そうな顔でこちらを覗き込んできました。
「い、いえ! な、なにも……! こ、これも借りるのですね!?」
わたしは激しく動揺しながらも、必死に平静を装い、震える手でバーコードを読み取ろうとします。しかし、焦りのあまり、なかなか上手くいきません。
「へえ……恋春ちゃん、そんなに慌てて。もしかして、この本、君も読みたかったとか?」
彼は、わたしの動揺を正確に見抜き、楽しそうに核心を突いてきました。
(よ、読みたかった……ですって!? そ、それは……事実ではありますが、断じて認めるわけにはいきません! わたしが、こんな通俗的な恋愛小説に夢中になっているなどと、彼に知られるわけには……!)
「そ、そんなわけありません! わたしが、このような……その……大衆向けの娯楽作品に興味を持つはずがありません! あなたの勘違いです!」
わたしは、もはや半ばパニック状態で反論しました。声が上ずっているのが自分でも分かります。
「ふーん? でも、さっきからその本の帯、すごい熱心に見てるけどなあ。『待望の最新刊! 甘く切ない、二人の恋の行方は!?』だってさ。恋春ちゃんも、こういう『甘く切ない恋』とか、しちゃってるわけ?」
彼は、悪魔のような笑みを浮かべて、わたしの最も触れられたくない部分を、的確に抉ってきました! しかも、わたしの心臓を直接鷲掴みにするような言葉で!
恋!? 甘く切ない恋!? わたしが!? あなたに対して抱いているこの、訳の分からない感情のことを言っているのですか!?(断じて違います!!!) ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっっ!!!!!!」
声にならない、魂の絶叫が、静寂な図書室に響き渡りそうになります!
「こ、こ、こ、殺しますよっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! プライバシー侵害も甚だしい詮索と! わたしの純粋な読書欲(!?)を邪推する不敬な態度と! その人の心を弄ぶような悪魔的発言は!!! 万死、いえ、億死、いえ、兆死、いえ、京死、もはや
涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしはカウンターにあった蔵書印(もちろんインクはつけていません!)を握りしめ、彼に突きつけました! カウンターの上がガタッと揺れます。
早瀬くんは、一瞬「新たな単位!?」と目を丸くしましたが、すぐにいつもの、あの飄々とした、そしてどこか楽しげな笑みを浮かべました。
「おー、ついに新たな単位の創造まで至ったか。さすが恋春ちゃん、発想が豊かだねえ。蔵書印で『閲覧禁止』の烙印とは、図書委員ならではの斬新な殺害方法だ。でもさ、恋春ちゃん」
彼は、ふっと真剣な(ように見える)表情になり、わたしの目をじっと見つめて言いました。
「君になら、『閲覧禁止』どころか、『貸出禁止・橘恋春専用』って押されても、本望かもしれないなあ」
!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?
(か、貸出禁止!? た、橘恋春専用ですって!? わ、わたし専用!? 彼が!? そ、そんな……まるで、わたしが彼を独占するような……!?)
脳内で、早瀬くんがわたしの額に『早瀬蓮専用』と書かれた巨大な蔵書印を押し、わたしがそれを(なぜか嬉しそうに!)受け入れている、という、もはや意味不明かつ被所有欲丸出しの破廉恥極まりない光景が、ビッグバン級の衝撃と共にフラッシュバックしました! なぜ!? なぜわたしはそんな被独占欲の化身に!?
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」
もはや声にならない、宇宙創成レベルの絶叫が、わたしの内側で炸裂します!
「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! 不敬千万極まりない所有物発言と! わたしの脳内に破廉恥な被支配妄想を強制生成させるその存在自体が!!! 宇宙の法則と論理を超越した
涙と羞恥と怒りで視界がぐにゃぐにゃに歪む中、わたしはカウンターの端にあった、鈍器と見紛うばかりの分厚い百科事典に手を伸ばそうとしました! もう、何もかも制御不能です!
「おっと、物理的に刻むのはさすがに痛そうだね」
早瀬くんは、素早くわたしの手を掴むと、呆れたような、しかしどこまでも楽しそうな声で言いました。
「ついに所有権の物理的明示まで来たか。不可説不可説転死の次は独占束縛死かな? でも、百科事典は重いし、君を傷害罪と器物損壊罪の合わせ技で警察の厄介にはさせたくないなあ」
「は、離しなさいっ!!」
掴まれた手首が熱い! 彼の言葉が、さらにわたしの羞恥心を煽ります!
「それにさ、」
早瀬くんは、わたしの耳元に顔を少し近づけ、悪戯っぽく囁きました。
「そんなことしたら、君が僕の『担当司書』兼『監視官』になっちゃうけど、いいの? 毎日、僕の行動記録つけて、他の女子に『閲覧禁止』って睨みきかせたりしてさ。……まあ、僕はそれでも、全然構わないけど?」
!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?
(た、担当司書!? か、監視官!? わ、わたしが、毎日、彼を……!? そ、そんな……まるで、公私混同の極みのような……!)
彼の言葉は、先ほどの脳内妄想をさらに悪化させ、わたしの理性の壁を完全に粉砕しました!
「あ、あのー、すみません……」
まさにその時、カウンターの横から、恐る恐るといった声がかかりました。見ると、下級生らしき女子生徒が、返却本を抱えて困った顔で立っています。
「……っ!」
わたしは唇を強く噛み締めます。しまった、見られていましたか! この取り乱した姿を! 図書委員として、完璧な橘恋春として、あるまじき失態です!
「というわけで」
早瀬くんは、パッとわたしの手を離すと、ニヤリと笑って言いました。
「本日の『百科事典による所有権刻印プラン』及び『担当司書就任プラン』は、残念ながらお客様がいらしたので、一旦お預け、ということで」
彼は、わたしが処理しかけていた例の恋愛小説を含む本をひょいと持ち上げます。
「じゃ、これ、借りてくね。恋春『僕の担当司書』候補さん? 君が読みたがってた(?)この本の感想、今度、君だけにこっそり教えてあげるよ」
彼は悪びれもなくウインクすると、爽やかな笑顔で「お先にどうぞ」と後輩に道を譲り、図書室を去っていきました。
「なっ……!!!」
もう、言葉も出ません。沸騰した頭と真っ赤な顔のまま、掴まれていた手首の感触と、「担当司書」「君だけにこっそり」という破壊的な言葉の余韻に打ちのめされ、わたしはカウンターの前で完全に硬直していました。後輩の「あの……橘先輩?」という声で、ようやく我に返ったのです。
(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのですか!!! 人の秘密を暴き、心を掻き乱し、所有物扱いし、挙句の果てには担当司書だの監視官だのと役割を与え、秘密の共有まで示唆してくる!!! 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……あなたの人生の貸出記録に、一生分の延滞金を上乗せしてお返しします!!!)
結局、その後の図書委員の業務は、内心の大混乱とは裏腹に、完璧な仮面を被ってなんとか遂行しました。これも全て、早瀬くんのせいなのです。彼のせいで、わたしの心臓は危険なほど高鳴り、思考は彼の言葉とあの恋愛小説のことで飽和し、完璧で冷静沈着な図書委員・橘恋春は見る影もなかったのですから。
閉館作業を終え、一人になった図書室で、わたしは力なく椅子に座り込みました。そして、鞄から例のノートを取り出します。『早瀬くんを殺したい99の理由』。もはや、わたしの存在理由そのもの。
深呼吸を一つ。今日の屈辱と混乱と、そして不覚にも感じてしまった、あの「専用」や「担当司書」という言葉への倒錯した喜び(!?)と、彼に秘密の趣味を知られた羞恥心を記録しなければなりません。新たな「理由」として。わたしは震える手でペンを握りしめ、#33とナンバリングし、今日の出来事を客観的に、そして極めて論理的に記述しようとしました。
理由#33:図書室という公的空間において、わたしの個人的な読書傾向(秘匿事項)を暴き、精神的動揺を引き起こした。さらに『橘恋春専用』『担当司書』といった不適切な発言でわたしの所有欲及び支配欲(!?)を不当に刺激し、最終的に秘密の共有を示唆することで精神的従属関係を構築しようとした罪。
……違う。これでは、彼の犯罪記録と心理分析に過ぎません。もっと本質的な、わたしの完璧な自己像と倫理観を根底から破壊し、彼との関係性において致命的な錯誤へと導く、彼の存在そのものの危険性について、厳粛に記録しなければ。わたしは書いた文章を、もはや絶望に近い気持ちでぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。
理由#33:彼が、わたしの秘めたる趣味(恋愛小説)を知った上で、『橘恋春専用』『担当司書』という言葉を用い、わたしの内に眠る、認めたくない独占欲と支配欲(!?)を意図的に呼び覚ました。このままでは、彼に対する殺意が、彼を自分だけのものにしたいという歪んだ所有欲へと転化し、最終的には彼をマーキング(!)し、他の女子から隔離・監視するという、完全に理性を失ったストーカー紛いの行動原理に至る危険性が極めて高い。その致命的な人格崩壊を回避し、わたしの社会的尊厳と倫理観を守るための、緊急かつ絶対的な殺害動機。
……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや人格破綻レベルの重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、鞄の奥深くにしまいました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの暴走しかねない独占欲から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。
わたしは、誰もいない図書室で、先ほど早瀬くんが借りていった恋愛小説が置かれていた棚を、ぼんやりと見つめました。胸のドキドキは、閉館後の静寂の中に、まだ大きく響いています。
(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の心を的確に読みすぎる人です。「君だけにこっそり」だなんて……)
彼の、あの悪戯っぽい笑顔と、囁くような声が、脳裏に焼き付いて離れません。
(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、わたしの秘密を暴く鋭さも、独占欲を煽るような発言も、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、あなたが読んでくれるという、あの甘々な恋愛小説の感想を、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……楽しみにしているような、そんな馬鹿げた気持ちになっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)
結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼に秘密を知られたことに動揺し、独占欲を刺激されたことに混乱し、そして彼の「君だけに」という言葉に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……特別な期待を抱いてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……あの小説、早く返却されないかしら。いえ、別に、早瀬くんと小説のお話で盛り上がりたいわけでは、断じて、断じて、ありませんが!
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