第16話 教育なき農民組合は寝言である
「…さて、今日は“農民組合論”について解説します。これは皆さんが現場に出たあとも、忘れずに考え続けてほしい原点の話です」
瀬又朔は、教育研修所第3教室の白いボードの前に立っていた。
背筋を伸ばし、受講生たちの顔をひとりずつ見渡す。
スライドが切り替わりスクリーンに『農民組合の基本理念』という文字が現れる。
「農民組合は、そもそも地域農家の経営を支援するために発足しました。様々なサービスを組合員に提供していますね。栽培指導、資材供給、出荷販売、金融貸付、保険…どれも、すべて、農家の生業を支える手段として、必然として取り組んでいます」
若手職員たちは静かに頷いている。
「ところが、ですね」朔は一呼吸置いた。
「昨今、『組合員のため』という言葉を楯に、“自分たちの立場”や“既得権益”のために動いている役職員が増えています」
若干空気が張り詰めたのを感じた。
朔は言葉を続けた。
「理念を忘れた組織に未来はありません。我々は本来、“農民に寄り添う”ために作られた共同体なのです」スライドがもう一枚進む。
『他利の獲得』
「人間は本来、利己的な生き物です。生き残るために、自分の利益を最優先にする。これは自然に獲得した性質です。だからこそ、『利他』を基本とする農民組合は、利他の精神を獲得するための仕組みを整えなければならないと言われています」
「そのために必要なのが、教育です。今ここでみなさんに理念の話をしているのも教育です。まぁ、ここは教育研修所ですからね。農民組合の父、鎌倉玄三郎の言葉をご紹介しておきます。”教育のない農民組合は、寝言である”」
張り詰めた空気の中、何人かの若手職員が、ペンを走らせた。
「知識だけでは足りない。現場の感覚だけでも足りない。自分が“誰のために働いているのか”を、言葉にし、胸に刻み、それを選択の基準にしていかなければならない。いつも単位FUの組合長たちには、言っています。『ご立派なFUのビジョンをぜひ本所、支店、営業所にでかでかと横断幕で掲げてください』と。やってる組織はまだ見たことはないですけどね」
教室に小さな笑いが起きた。
一番前に座っていた職員が、そっと手を挙げた。
「先生。現場で『組合員のため』と『組織の意向』がぶつかったとき、どちらを優先すればいいのですか?」
朔は、微笑んだ。
「その問いは、忘れずにずっと問い続けてほしいですね。組合員がとんでもない要求をしてくることもある。でも、常に必ず組織の意向を優先すべきという職場だとしたら、それはあなたたちが期待して入組した組合ではなくなっていると思いますよ」
教室内が静まり返った。
風が、窓の隙間から吹き抜け、紙が一枚、カサリと音を立てた。
「理念を忘れた組合がどうなったか、恥ずかしい話ですが、直近の我が県の事例をご紹介しておきましょう」
昼休み、教育研修所の食堂で生徒たちと談笑していた瀬又朔のもとに事務員が駆け寄ってきた。
「統括会からお電話です。朔さんに、県議会参考人招致が出たとか」
県議会。傍聴席にはマスコミや支援者、反対派、そして現職の農家たちが入り乱れていた。
呼び出されたのは、権藤悟。
大和農民組合統括会会長。
質問席に立った県議が、声を張った。
「権藤会長、今回のFUサラサの一連の不正について、あなたはいつから知っていたのですか?」
「正式な報告を受けたのは、5月の終わりごろ、職員の調査報告書を見てからです」
「では、それ以前に、関与は一切なかったと?」
「ええ。私が関わっていたら、もっと手際よく隠蔽していたでしょうな」
場がざわついた。権藤の毒舌に、一部の傍聴席から笑いが漏れた。
「しかし、会長。統括会の監督のもとで起きた不正です。責任が問われるのでは?」
「責任とは、具体的にどのような」
「会長職を退くお考えは」これが言いたかったのだろう、県議に卑下た笑顔が張り付いた。
「この事態を収めずして、逃げるのは性に合いませんな」権藤会長は動揺を見せない。
会長に真っすぐに見据えられて、県議はたじろいだ。「…では、顛末について、統括会の責任について説明すべきではないですか」
「説明…なら、適任の男がいます。調査のすべてを任せた職員が—私は、彼を参考人として推薦します」
名指しされたのは、もちろん瀬又朔だった。
権藤会長の参考人招致から2週間後、議場に呼ばれた瀬又朔は、静かに前に進み出た。
マイクの前に立つと、一礼。
「できる限りのことをお話します」
質問は次々に飛んできた。
「あなたはどのようにして不正に気付いたのか」
「把握した内容は逐一、統括会内部で共有していたのか」
「この不祥事件が起きた要因をどのように理解しているか」
「統括会の監督に不備があったのではないか」
朔は、ひとつひとつ丁寧に答えていった。
「農家のためにある組織が、カネのため、保身のために不正を働いていた。役職員に”農家のための組織である”という基本理念を浸透させられなかった責任は統括会にあると考えています」議員たちは黙り込んだ。
その場の空気は、明らかに朔に傾いていた。
そのとき、議長が告げた。
「ここで、参考人が追加の証拠資料を提出したいと申し出ています」
傍聴席の後方で、ひとりの男が腕組みをしていた。
タケノコ農家、古賀肇だった。
瀬又朔が提出したのは、古びたスマートフォン。
数日前に、宮司係長を通して古賀肇から受け取ったものである。
瀬又朔はそれがスマートフォンであることを、議場全体に示すように右手で掲げながら訊いた。「議長、この中に録音されている音声を、ここで再生してもよろしいでしょうか」
「音声ですか?少し…お待ちください…中身をこちらで確認させてほしい」議長が席を外し、提出された音声を議会の担当者とともに確認することとなった。
「その他、2つの動画を提出します。FUサラサの役員2名の証言を撮影させてもらったものです」議場が一気にざわめいた。
20分ほどが経過し、席に戻った議長が、県の担当職員にスマホ内の音声ファイルを再生させた。
音声には—『新幹線のルートは変更。選果場を通す。地元対策はこっちでやる』
嶺岡正義の、生々しい声が記録されていた。
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