第8話 旅立ちのドアを開けて
1998年、春の終わり。
東京は、雨だった。
ゆるやかな雨が歩道を濡らし、街に湿った静けさをもたらしていた。
午後3時、赤坂の小さなラジオ局。
そこに小泉今日子は、一本のゲスト収録のために訪れていた。
「今日のゲストは…あれ、美穂?」
スタジオのガラス越しに見えた顔。
セミロングの髪にベレー帽。少しやせたかな、と思ったが、あの目の奥にある光は変わっていなかった。
今日子は、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
だが、次の瞬間には自然と歩みを進めていた。
「…おかえり、美穂」
「ただいま、きょんちゃん」
二人の再会は、それだけでじゅうぶんだった。
泣きもしない、抱き合いもしない。ただ、それがすべてだった。
スタジオでは、軽妙なトークが交わされていた。
「パリ、どうだった?」
「うーん、寒かった。でも、人があったかかった。言葉がうまく通じない分、表情とか、空気とか、すごく大事で…勉強になったよ」
「へぇ、美穂がそんなこと言うようになるとは思わなかったな」
「私だって成長するのよ、ちょっとは」
「ちょっとかよ(笑)」
リスナーには、二人の関係性が手に取るように伝わった。
昔からのファンなら、涙ぐんでしまうかもしれない。
あの“少女たち”が、こうして時を越えて話している。
それは奇跡ではなく、「つながっていた証」だった。
放送が終わり、ふたりは夜の街へ出た。
繁華街から少し離れた、小料理屋の暖簾をくぐる。
「ここ、覚えてる?」
「え? え、まさか、あの時の…」
店の奥には、あの頃の写真がひっそり飾られていた。
笑顔のふたり。赤い口紅。袖の長い制服。
時代の記憶が、ふわっと立ちのぼる。
「ここで飲んだよね、初めて」
「うん。梅酒一口で顔真っ赤にして」
「そっちこそ、うどんで酔ってたくせに(笑)」
笑い声が、静かな夜に溶けていく。
会わなかった時間のぶんだけ、話すことは尽きなかった。
「ねぇ、美穂。これからどうするの?」
「まだ決めてない。でも、歌いたいな。演じたいなって思ってる」
「うん、それでいいと思う。やりたいって思えたときが、ドアが開くときだから」
「…きょんちゃんは?」
「私は…もう“自分を演じない”って決めたの」
「うん、きっと似合う」
カウンターの端。少し傾いたグラスに、明かりが揺れていた。
ふたりは、もう“かつてのアイドル”ではなかった。
だけどその奥にある“芯”は、出会った頃と変わらず、確かに光っていた。
別れ際、美穂が言った。
「きょんちゃん、またどこかで、ね」
「どこかじゃなくて、ちゃんと約束しようよ」
今日子が笑った。
「旅立ちのドアは、いつでも自分で開けていい。
でも、開けた先で“誰かに会いたい”って思えたら、それが生きてるってことだよ」
雨は上がっていた。
空は、都会の明かりにぼんやり照らされていた。
ふたりの足音が、夜の交差点に溶けていく。
つづく
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