第7話 あなたの知らない未来へ
1997年の春。
パリの街には、薄桃色の桜が静かに咲いていた。
フランス人たちがそれを特別視することはないが、美穂にはその小さな花びらひとつひとつが、日本にいる人たちを思い出させた。
アパルトマンの窓を開けると、外からアコーディオンの音が聴こえてくる。
通りを歩く人々の声と、その音楽が混ざり合い、まるで映画のワンシーンのようだった。
美穂は、テーブルに置かれた手紙に視線を落とす。
それは、今日子から届いたエアメール。
淡いピンク色の便箋に、こんな言葉が書かれていた。
「歌ってくれてありがとう。声を聴いた瞬間、あの頃の空気が戻ってきた気がしたよ。
こっちは春でも、まだ少し肌寒い。そっちはどう?」
いつも通り、飾らない文体だった。だけどそのなかに、確かに“あたたかさ”があった。
東京では、今日子が新しいステージに立っていた。
30代を迎え、彼女は女優としても表現者としても新たな挑戦をしていた。
バラエティ番組の収録、舞台の稽古、そして、ラジオのレギュラー。
多忙な日々のなかでも、彼女のなかには“あの子”のことが、ふとした拍子に浮かんできた。
テレビ局の楽屋。
鏡の前でうつむいていた16歳の美穂。
「私、ほんとにやってけるのかな……」
あのときの、震える声。
それが、今やパリで異国の生活をしながら、自分の言葉と歌を持ち始めている。
今日子はふっと笑って、呟いた。
「やってけてるよ。あんた、ちゃんと生きてる」
ある日、美穂は通い慣れたカフェで、ひとりノートを開いた。
ペンを走らせる手元には、ふとした“願い”が宿る。
もしも、また日本で会えたら。
それはきっと、“あの頃の続き”じゃなく、“新しい物語のはじまり”。
その願いが、現実になるのはもう少し先のことになる。
でも、美穂の中では何かが静かに芽吹いていた。
不安も、迷いもある。
だけど、前を向くことにした。
東京の夜。
収録を終えた今日子は、タクシーのなかでふと空を見上げた。
星は見えないけれど、なぜか「見えた気がする」と思った。
きっと、遠いパリの空も同じような色をしている。
スマホもない時代。
だけど、手紙と歌と、心だけでつながることも、ある。
ふたりはもう「アイドル」ではない。
だけど、誰かの心に、確かに残る“存在”として歩きはじめていた。
美穂が、ノートの端に小さく書いたタイトル。
「あなたの知らない未来へ」
その未来には、ちゃんと今日子の姿もあった。
つづく
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