第6話 手紙の代わりに歌を
1996年、晩秋。
代々木公園の木々はすっかり色づき、空気の温度も音も、どこか切なげだった。
小泉今日子は、古いノートを開いていた。
それは若い頃から書きためていた、歌のアイデアや言葉の断片、誰にも見せたことのない“日記に近い”ノートだった。
あるページに、こんな走り書きがあった。
《美穂の瞳は、ほんとうはすごく強い。だけどその強さを見せないから、みんな気づかない》
それは、美穂がパリへと旅立つ直前に書かれたものだった。
誰にも渡さなかった手紙のような言葉たち。
ふと、今日子は思う。
「今なら、歌にできるかもしれない」
中山美穂はパリのアパルトマンで、小さなラジオをつけていた。
日本から届いたカセットテープを再生すると、イントロとともに聞き慣れた声が流れる。
《ひとりじゃないよって 言えなかったけど
黙って背中を見ていたこと 覚えてる?》
その歌詞に、思わず息を呑んだ。
声が、言葉が、あの頃の自分にまっすぐ届いてくる。
忘れたふりをしていた時間が、ゆっくりと蘇る。
――これは、今日子からの手紙だ。
直接じゃなくても、ちゃんと届いた。
そう感じた瞬間、頬をつたって涙が流れた。
数日後、パリの書店で、美穂は便箋を買った。
でも、言葉がなかなか出てこない。
何かを伝えるには、何かを終わらせなければならない気がして。
それが怖かった。
それでも、彼女はペンを走らせた。
《あの頃の私たちが、今の私に問いかけてくるの。ちゃんと笑ってる?って。だからね、わたし、もう一度、歌いたくなった》
年末、今日子の元に1通のエアメールが届いた。
中には便箋1枚と、カセットテープ。
「From Miho」とだけ書かれたそのテープをデッキに入れると、美穂の声が流れた。
ピアノだけの弾き語り。
タイトルもない、小さな歌。
《ふたり並んで 笑った日の
すこし先に 未来があるなら
きっとまた どこかで 会えるね》
今日子はテープの前で、静かに涙をぬぐった。
音楽という手紙で、やっとちゃんと気持ちが届いた気がした。
夜、表参道のイルミネーションの中。
人々のざわめきと笑い声の中、ひとり立ち止まる今日子の心は、とても温かかった。
「美穂、ありがとう」
そして今日子は、ふたたび歩き出す。
あの頃と同じように、背筋を伸ばして。
つづく
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