第5話 それでも、わたしたちは繋がっている
1994年、初夏。
渋谷・円山町の坂を登った先の小さなスタジオで、小泉今日子は久しぶりにレコーディングに臨んでいた。
スタジオの中は薄暗く、スポットのような照明だけが譜面台を照らしている。
外の喧騒とは無縁の、静かな時間。
彼女はヘッドフォンをつけて、ピアノのイントロにそっと呼吸を合わせた。
――歌詞は、彼女自身が書いたものだった。
テーマは「喪失」と「再会」。
ずっと言葉にできなかった気持ちを、音楽に託す。
その曲が流れるラジオ番組の収録中、ディレクターが言った。
「中山美穂さん、聴いてくださったそうですよ。“今でも今日子ちゃんの声が好き”って」
今日子は思わず微笑み、それから視線を逸らした。
「へえ、そうなんだ」
心の奥では、やっぱりどこか照れくさく、でもうれしかった。
同じころ、パリへ向かう直前の中山美穂は、成田空港のロビーで雑誌をめくっていた。
そこには、小泉今日子のインタビュー記事が載っていた。
音楽、芝居、そして“孤独”について。
「わたしはね、ずっと“誰かの好き”に応えられているのか不安だった。でも、ある日ふっと思ったの。自分が好きな自分を、ちゃんと好きでいてあげれば、それで十分かもって」
――あの人は、いつも一歩先を歩いている。
美穂は雑誌を閉じて、バッグにそっとしまった。
搭乗のアナウンスが流れる。彼女は立ち上がる。
新しい人生、新しい言葉、新しい風景。
すべてが「自分のため」の選択だった。
でもその根っこには、今日子との青春が確かにあった。
不器用でも、真っ直ぐだった時間。
1995年の春。
久しぶりに東京で美穂がテレビ収録に出るという噂を聞いて、今日子はふと楽屋に差し入れを送った。
小さな和菓子の箱と、手書きのメモ。
「また、ちゃんと笑えるといいね。きょんより」
その言葉に、美穂は驚いた顔をし、そして静かに頷いた。
まるで、時間がふたたび流れ出したように感じた。
「うん、わたし、笑うよ。ちゃんと、ね」
春風が吹き抜けるスタジオの廊下。
交わされたのは、ほんの短い再会だったけれど、ふたりの心には確かな灯りが戻っていた。
過去のすべてが、いまの自分をつくっている。
そして、ふたりの孤独も、寂しさも、微笑みも――
「それでも、わたしたちは繋がっている」
そう、信じられた日だった。
つづく
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