風の神子と五つの星

すぎやま よういち

第1話 風の声



朝靄が山々を包み込む頃、ハルは目を覚ました。小さな窓から差し込む光が、土間の床に淡い模様を描いている。


「また早起きだなぁ」


ハルはぼんやりとつぶやきながら起き上がった。十三の春を迎えたばかりの少年は、細身ながらも日に焼けた肌と引き締まった腕が、村での日々の労働を物語っていた。


朝食はトモノ婆が用意してくれた粟の粥と、昨日取った山イチゴが少し。口の中に甘酸っぱい味が広がると、ハルの体にも少しずつ活力が戻ってきた。


村の長老カナメが言うには、この村はかつて「イツクシの地」と呼ばれた広大な王国の辺境にあったという。今では小さな山村に過ぎないが、遠い昔は神々の祝福を受けた聖なる場所だったのだ。ハルはそんな話を聞くたび、目を輝かせていた。


「ハル、起きたか?」


ドアを開けると、隣に住むコタロウが立っていた。ハルより二つ年上の少年は、村の猟師の息子で、弓の扱いに長けている。


「今日は西の谷まで行って、罠を仕掛けてくる。手伝わないか?」


「うん、行くよ」


ハルは急いで身支度を整えた。トモノ婆には山菜を摘んでくると伝言を残し、コタロウと共に村を後にした。




春の陽気が森を優しく包み込んでいた。木々の若葉が風にそよぎ、色とりどりの野の花が道端を彩る。


「今年は春が早いな」とコタロウが言った。


「うん。カナメおじいさんが言ってたよ。春が早いと夏の嵐が荒れるって」


ハルの言葉にコタロウは顔をしかめた。「去年の嵐は厄介だったからな。屋根が三軒も飛んだ」


二人は山道を進みながら、去年の夏の嵐の話で盛り上がった。イツクシの地では、季節の変わり目に不思議な現象が起きることがある。特に夏至と冬至の頃は、自然の力が強まるのだという。


西の谷に着くと、二人は罠の設置場所を探し始めた。コタロウは獣道を見分ける目が確かで、足跡や食べ残しから動物の通り道を素早く特定する。ハルは友の技に感心しながら、彼の指示に従って罠を手伝った。


作業が一段落したとき、ハルは何かに引き寄せられるように、谷の奥を見た。


「ね、コタロウ。あっちに何かあるかな?」


コタロウは首を傾げた。「あっち?ただの岩壁だろ」


「でも、なんか…呼んでる気がする」


「お前、また変なこと言ってるよ」


コタロウは笑ったが、ハルの直感は時々不思議な的中を見せることを知っていた。村で迷子になった子供を見つけたのも、洪水の前に皆を高台に誘導したのも、ハルの「なんとなく」だった。


「少し見てくるよ。すぐ戻るから」


言い残して、ハルは谷の奥へと歩き出した。



岩壁に近づくと、ハルは耳をすませた。最初は何も聞こえなかったが、じっと立ち止まっていると、かすかな音が聞こえてきた。風の音だろうか。いや、それは風が石と岩の隙間を通り抜ける音というより、何かが囁いているような気配だった。


「誰かいるの?」


声をかけてみたが、返事はない。それでも、その音は途切れずに続いていた。ハルは岩壁に沿って歩き、音の発生源を探した。


突然、足元から小さな石がころがり落ち、地面にぽつんと小さな穴が開いた。ハルが身をかがめると、穴から冷たい風が吹き上げてきた。


「ここか…」


穴を広げてみると、それは人が通れるほどの隙間になった。中は真っ暗だが、どこからか微かな光が差し込んでいるようだ。


「コタロウ!ここに穴があるよ!」


叫んでみたが、返事がない。谷の曲がり角で声が届かないのだろう。


ハルは少し迷ったが、好奇心が勝った。懐から火打石を取り出し、用意していた松明に火を灯した。そして、恐る恐る穴に足を踏み入れた。


洞窟の中は予想以上に広かった。天井は高く、壁には不思議な模様が刻まれている。ハルの持つ松明の光が揺らめくたび、その模様が生き物のように動いて見えた。


「すごい…」


息を呑むハルの声が、洞窟内に響き渡る。


歩いているうちに、空間はさらに広がり、大きな円形の広間へと続いていた。広間の中央には石の台があり、周囲には倒れた柱が散らばっている。かつてここが何かの神殿だったことを示すような荘厳さがあった。


そして、石の台の上で、何かが淡く輝いていた。


ハルは慎重に近づいた。それは拳ほどの大きさの結晶で、半透明の緑色をしている。内部で光が渦を巻いているようで、見ているとめまいがしそうだった。


「これは…」


手を伸ばした瞬間、結晶から強い風が巻き起こった。髪が激しく揺れ、松明の火が消えそうになる。ハルは思わず目を閉じた。


風が収まると、もう一度目を開ける。すると、結晶の光がさらに強まり、ハルの周りを取り囲むように煌めいていた。


「恐れることはない、若き者よ」


風のような、誰かの声が聞こえた。ハルは驚いて辺りを見回したが、誰もいない。


「私は風の星に宿りし、風の精霊。長い時を超えて、お前を待っていた」


声は結晶から発せられているようだった。


「僕を…待っていた?」


「そう。お前は選ばれし風の神子。五つの星のかけらを集め、この地を救う者」


ハルは混乱した。風の神子?五つの星?救う?何のことだろう。


「どういうこと? 僕はただの村の子だよ」


「今はまだ理解できなくても良い。やがて全てが明らかになる。まずは風の星を受け取るがよい」


ハルは迷いながらも、おそるおそる手を伸ばした。結晶に触れた瞬間、まばゆい光が洞窟を包み込み、ハルの体の中に何かが流れ込むような感覚があった。


それは一瞬のことだった。光が収まると、結晶はもう輝きを失い、普通の緑色の石のように見えた。だが、ハルの手に収まるとまだ温かく、内側から微かに脈打っているようだった。


「これが…風の星」


言葉にした瞬間、外からコタロウの声が聞こえた。


「ハル!どこにいるんだ?」


「ここだよ!洞窟の中!」


ハルは風の星を胸ポケットに入れ、入り口へ向かった。振り返ると、もう石の台も倒れた柱も見えない。まるで幻だったかのように、ただの小さな洞窟になっていた。




「何してたんだ?心配したぞ」


洞窟から出たハルを、コタロウは心配そうな顔で迎えた。


「ごめん。中を探検してたら、時間を忘れちゃって」


言いながらも、ハルは胸ポケットの風の星のことは話さなかった。なぜか、それは秘密にしておくべきだと感じたからだ。


「もう日が傾いてきた。帰ろうぜ」


コタロウの言葉に頷き、二人は山道を下り始めた。


帰り道、ハルは風の精霊の言葉を思い出していた。風の神子。五つの星。この地を救う…。いったい何を意味しているのだろう。


村に近づくにつれ、ハルは何かがおかしいことに気がついた。道端の草花が、朝見たときよりも色あせて見える。葉の縁が茶色く変色し、茎はうなだれていた。


「コタロウ、この草、朝はもっと元気だったよね?」


コタロウは立ち止まり、しゃがみ込んで草に触れた。「本当だ。まるで水不足で何日も経ったみたいだ」


二人が歩を進めると、さらに奇妙な光景が広がっていた。わずか半日の間に、村の周辺の草木が次々と枯れ始めていたのだ。若葉だったはずの木々の葉が、秋の終わりのように黄ばみ、地面には早くも落ち葉が散っている。


「これは…」ハルが言葉を失っていると、突然、風が強く吹き始めた。枝葉がざわめき、鳥たちが驚いて飛び立つ。いや、飛び立つというより、まるで何かから逃げるように、群れをなして村から遠ざかっていく。


ハルはカナメ長老の所に行き、オトハの神様と魔王の話を尋ねた。


「遠い昔、この地はオトハの神様が守っていた。神様は世界に調和をもたらし、人々は平和に暮らしていた。でも、闇から魔王ジザールが現れ、大地を汚し始めた。オトハの神様は魔王と戦い、最後には封印することに成功したけれど、その力を使い果たして五つの星となって散ってしまった。風の星、炎の星、水の星、大地の星、そして光の星。それぞれが世界のどこかに隠されていると言われている」

カナメ長老の話を聞きながら、ハルは胸ポケットの石を思い出していた。風の星。これが伝説の風の星なのだろうか。


「その星は、また集められるの?」


「伝説では、選ばれし神の子が現れ、五つの星を集めて魔王の封印を強めると言われている。」



「おかしな風だな」とコタロウが言った。「なんか…方向が定まらないみたいだ」


確かに、風は一方向から吹くのではなく、まるでハルを中心に渦を巻いているようだった。そして、風の中から、かすかに声が聞こえる。


『風の神子…目覚めの時…』


「聞こえた?」ハルはコタロウに尋ねた。


「何が?」


「今、風が話してたよ」


コタロウは首を傾げた。「またおかしなこと言ってる。風が話すわけないだろ」


ハルはもう一度耳を澄ませたが、もう声は聞こえない。ただ、胸ポケットの風の星が暖かく脈打っているのを感じた。




村に戻ると、夕暮れが空を赤く染めていた。家々から料理の煙が立ち上り、人々の話し声が聞こえる。いつもの村の光景なのに、今日はどこか違って見える。


「じゃあな、ハル。また明日」


コタロウと別れ、ハルは自分の家に向かった。夕食の準備ができていて、香ばしい匂いが漂っている。



夜、ハルは風の星を手に取り、じっと見つめていた。昼間の輝きはなく、ただの緑色の石に見える。それでも、触れると不思議な温かさがある。


「風の精霊さん、いるの?」


小声で呼びかけてみたが、返事はない。洞窟での出来事は夢だったのだろうか。


窓の外では夜風が吹き、木々がざわめいていた。ハルは耳を澄ませた。


すると、風の中から、かすかな囁きが聞こえてきた。


『ハル…風の神子…』


ハルは飛び上がるように窓辺に駆け寄った。外には誰もいない。でも、確かに声は聞こえた。


『力を感じるがよい。風を感じるがよい…』


胸が高鳴る。これは現実だ。風の星は本物で、風の精霊も本物なのだ。


ハルは思い切って窓を開け、夜風を部屋に招き入れた。風が部屋を巡り、キャンドルの火が揺れる。


「風を感じる…」


ハルは目を閉じ、全身で風を感じようとした。最初は何も特別なことは起きなかったが、だんだんと、風の流れが見えるような気がしてきた。目を閉じていても、風がどこからどこへ流れているのか、その一筋一筋が感じられる。


そして、風の中の言葉も、より鮮明に聞こえるようになった。


『目覚めよ、風の神子。お前の旅が始まる』


ハルは恐る恐る問いかけた。「僕は何をすればいいの?」


『まずは修行だ。風と話し、風を操る力を身につけるのだ』


「風を操る?そんなこと、できるの?」


『できる。お前は風の星に選ばれた者。血の中に神の力が流れている』


血の中に神の力?ハルは自分の手のひらを見つめた。普通の少年の手だ。でも、何か特別な力が宿っているというのだろうか。


『明日、夜明けに村の外れの古い杉の木のところへ来るがよい。そこで最初の修行を始める』


風の声はそう言うと、次第に弱まり、やがて聞こえなくなった。部屋は静まり返り、キャンドルの火も穏やかに燃えている。


ハルは風の星を大事そうに枕元に置いた。明日から始まる不思議な「修行」に、期待と不安が入り混じっていた。



翌朝、ハルは夜明け前に目を覚ました。トモノ婆がまだ寝ている間に、こっそりと家を抜け出す。風の星を胸ポケットに入れ、村の外れにある古い杉の木に向かった。


空はまだ暗く、東の空がわずかに明るくなり始めたところだ。朝霧が村を覆い、足元がぼんやりと霞んでいる。


杉の木は村の守り神として、何百年も前から立っていると言われていた。樹齢千年とも言われる巨木は、かつてオトハの神が宿ったという伝説もある。


木の下に到着すると、朝風が強く吹き始めた。ハルの髪がなびき、服がはためく。


「来たよ、風の精霊さん」


風が渦を巻き、ハルの周りを取り巻いた。


『よく来た、風の神子』


今日は風の声がはっきりと聞こえる。まるで目の前に誰かが立っているかのように。


『風の星を取り出すがよい』


ハルはポケットから風の星を取り出した。朝日の最初の光が差し込むと、風の星が淡く輝き始めた。


『両手で星を持ち、額に当てるがよい』


言われた通りにすると、風の星から光が広がり、ハルの体を包み込んだ。頭の中に風の記憶が流れ込んでくる。大空を駆ける風、大地を撫でる風、海を渡る風…数え切れない風の記憶。


息を呑むような体験だった。光が消えると、ハルの体は風の記憶で満ちていた。


『これで風の言葉がわかるようになったはずだ。聞いてみよ』


ハルは耳を澄ませた。すると、今まで単なる「ざわめき」や「うなり」だった風の音が、言葉として聞こえてくる。


『久しぶりだね、人の子』

『不思議な子だ』

『神の血を感じる』


様々な風の声。朝露をなめる風、枝葉をくぐる風、大地を撫でる風、それぞれが異なる声で話している。


「すごい…」ハルは息を呑んだ。「風の声が聞こえる!」


『次は風を操ることだ。手を前に出し、風を呼ぶイメージをするがよい』


ハルは言われるままに手を伸ばし、風を呼ぶことを想像した。最初は何も起きなかったが、集中していると、指先から微かな風が生まれた。それは弱々しいものだったが、確かに自分の意志で生み出した風だった。


「できた!風を作れた!」


歓声を上げると、風の精霊も喜んでいるようだった。


『よくやった。これが始まりだ。毎日修行を続けるのだ』


ハルは風の星をポケットにしまい、急いで村に戻った。


それから数日間、ハルは日課をこなしながらも、早朝と夕暮れには杉の木の下で風の修行を続けた。風を聞き、風を操る技術は日に日に向上していった。


最初は小さな風しか作れなかったが、いつしか手のひらサイズの旋風を生み出せるようになった。風の声も次第に明瞭になり、遠くの風の声まで聞き取れるようになった。


コタロウや村の人々は、最近のハルの変化に気づき始めていた。


「ハル、最近変わったな」ある日、コタロウが言った。


「そう?何が?」


「なんだか…遠くを見てるような目をしてる。それに、風が強い日にはすごく落ち着いてるし」


ハルは苦笑いで誤魔化した。秘密にしておくよう言われていたから、風の星のことは話せない。


「気のせいだよ。それより、今日の獲物はどうだった?」


話題を変えながらも、ハルの中で風の力は確実に育っていた。



ある晩、ハルは風の星を手に取り、窓辺に座っていた。今では星を通さなくても風の声が聞こえるようになっていたが、星を手にするとより鮮明に感じられる。


すると、遠くから切迫した風の声が届いた。


『危険が近づいている…』

『黒い影が動き出した…』

『魔王の手先が…』


ハルは身を乗り出した。「どういうこと?どんな危険?」


風は答えた。『北の森で、闇の気配が動き始めた。それは魔王ジザールの封印が弱まっている証…』


「魔王の封印が弱まっている?」


『そう。だから五つの星が必要なのだ。お前は他の星も見つけねばならない』


ハルは考え込んだ。風の星を見つけたのは偶然だったが、他の星はどこにあるのだろう?


「他の星はどこにあるの?」


『それはお前自身が見つけ出さねばならない。だが、手がかりはある。炎の星は火山の地に、水の星は深き湖に、大地の星は古き森に、光の星は神殿の跡に…』


「でも、イツクシの地は広いよ。どうやって探せばいいの?」


『風が導くだろう。そして…仲間も』


「仲間?」


『お前一人ではない。他にも星に選ばれし者たちがいる。彼らと力を合わせるのだ』


風の言葉に、ハルの心は高鳴った。自分のような選ばれし者が他にもいるのか。そして、魔王の封印が弱まっているという事実は、この平和な日常が長くは続かないことを意味していた。


「わかった。僕、頑張るよ。他の星も見つけ出す」


風はハルの決意に応えるように、優しく彼の頬を撫でた。


『お前の旅はまだ始まったばかり。だが、恐れることはない。風はいつもお前と共にある』


ハルは窓の外を見つめた。月明かりに照らされた村は静かに眠っている。この平和を守るために、自分は選ばれたのだ。明日から、新たな一歩を踏み出す時が来たのかもしれない。


ハルは風の星を胸に抱き、静かに目を閉じた。夢の中でも、風は彼に語りかけていた。遠い記憶、来るべき運命、そして五つの星が再び一つになった時の世界の姿を…。


風の神子としての旅は、こうして始まったのだった。

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