真・テニスコートの誓い

 季節は容赦なく巡り、熱狂の夏は遠い記憶の彼方へと過ぎ去った。木々は葉を落とし、冷たい風が吹き抜ける冬が訪れると、優子の心を占めていたあの赤黒い狂宴の舞台、川沿いのテニスコートからも、ザリガニたちの姿は完全に消え失せた。彼らは泥の奥深くで冬眠に入り、春の訪れを待つのだろう。しかし、優子の内に目覚めてしまった衝動は、冬眠することを知らなかった。


 ザリガニがいない。あの、生命を踏み潰すという直接的で、原始的な破壊の感触を味わうことができない。その事実が、優子を言いようのない焦燥感と欲求不満に陥れた。まるで大切なものを奪われたかのような、あるいは、依存していた薬を断たれたかのような禁断症状に似ていた。


 仕事をしていても、友人と話していても、心のどこかが満たされない。ふとした瞬間に、あの汚れた白いウェディングドレスと、赤黒く染まったエナメルパンプスの感触、そしてローターの振動と入り混じって訪れた激しいオーガズムの記憶が蘇り、体だけが疼く。しかし、その疼きを満たす術がない。


(どうすればいいの……? 春まで、待たなければならないの……?)


 気が遠くなるような時間だ。何か代わりになるものはないか、と考えないでもなかった。他の虫? 公園の鳩? しかし、どれも違う気がした。あの、硬い甲殻を持ち、威嚇するようにハサミを振り上げ、そして踏み潰したときに独特の抵抗と破砕音を立てる、アメリカザリガニでなければならないのだ。あの、テニスコートという非日常的な舞台で、大量のそれを蹂躙するという、あのシチュエーションでなければ、意味がないのかもしれない。


 悶々とした日々を送る中で、優子は以前にも増して、足元への意識が強くなっている自分に気づいた。街行く人々の靴、ショーウィンドウに飾られたハイヒール、そして自分自身のパンプス。特に、硬い素材で、つま先が尖っているものに惹かれる。これで何かを踏み潰したら、どんな感触がするだろうか、と想像してしまうのだ。その想像は、微かな興奮と共に、満たされない渇望をさらに刺激するだけだったが。


 そんな冬のある日の昼休み。優子は、勤めているアパレルショップのバックヤードにある、小さな給湯室で、買ってきた弁当を温めようとしていた。電子レンジの前で待っていると、不意に、床を黒い影が素早く横切った。


(ゴキブリ……!)


 瞬間的に嫌悪感が湧き上がる。しかし、次の瞬間、そのゴキブリを追うように、すっと伸びた足が視界に入った。そして、躊躇なく、その黒い影を踏みつけたのだ。


 グシャッ。


 小さく、しかし明確な破砕音。優子は、思わず息を呑んで、足の主を見た。


 それは、バイトの女の子、水鳥川留美だった。肩までの長さのツインテールが特徴的な、小柄で可愛らしい印象の子だ。いつもニコニコしていて、誰に対しても物腰が柔らかく、優しい。優子とはシフトが重なることもあったが、部署が違うこともあり、挨拶を交わす程度で、あまり話したことはなかった。


 その留美が、今は、わずかに口角を上げ、にやり、とでも表現できそうな、ふだんの彼女からは想像もつかない表情で、自分の足もとを見下ろしていた。彼女が履いていたのは、シンプルな黒のレザーパンプス。ヒールはそれほど高くないが、つま先はやや尖っている。そのパンプスの底で、ゴキブリは完全に潰れ、茶色い体液を撒き散らしていた。


 留美は、潰れたゴキブリの残骸を気にする様子もなく、むしろ満足げに、パンプスの底を床に数回、ぐりぐりと擦りつけた。まるで、止めを刺すかのように、あるいは、その感触を確かめるかのように。そして、何事もなかったかのように顔を上げると、優子の視線に気づき、いつもの人懐っこい笑顔に戻った。


「あ、優子さん、お疲れさまです。びっくりしました? 急に出てきたから」

「あ……う、うん。お疲れさま……。退治、してくれたんだね。ありがとう」


 動揺を悟られまいと、平静を装って答えるのが精一杯だった。留美は「いえいえ、お邪魔虫でしたから」と軽く笑い、ティッシュでパンプスの底を軽く拭うと、給湯室を出て行った。


 優子は、その場に立ち尽くしたまま、留美がゴキブリを踏み潰した光景を反芻していた。あの、一瞬見せた、サディスティックな笑み。躊躇のない踏みつけ。そして、残骸を擦りつける仕草。それは、単なる害虫駆除とは明らかに違う、何か別の意図を感じさせるものだった。


(まさか……留美ちゃんも……?)


 自分と同じ種類の人間なのではないか。そんな考えが、雷に打たれたように優子の頭をよぎった。しかし、すぐに打ち消す。まさか、あの、天使のように可愛い留美ちゃんが? きっと、ゴキブリがよほど嫌いで、徹底的にやっつけたかっただけだ。そう思うことにした。


 だが、心のどこかで、引っかかりが残った。あのときの留美の表情が、忘れられない。そして、自分の中の何かが、留美の行為に微かに共鳴したのを感じていた。


 それから数週間後。優子は、またしても給湯室で、留美の「秘密」を目撃することになる。その日、留美が履いていたのは、黒いエナメル素材のストラップシューズだった。メリージェーンと呼ばれる、少しクラシカルでガーリーなデザイン。その靴で、彼女は再び現れたゴキブリを、いとも簡単に、そしてやはりどこか楽しげに、踏み潰したのだ。


 前回と違ったのは、その後の処理の仕方だった。留美は、潰れたゴキブリの上で、ストラップシューズのつま先を使い、まるで絵の具を塗り広げるかのように、ぐりぐりと円を描くように、残骸を床にすり潰したのだ。ねちゃあ、という粘着質な音が、静かな給湯室に微かに響いた。そして、満足そうに息を吐くと、またティッシュで靴底を拭い、優子に気づいてにっこりと笑った。


「また出ちゃいましたね。しつこいなあ」


 その笑顔は、やはり完璧に無邪気だった。しかし、優子にはもう、確信に近いものがあった。留美は、意図的に、そして快楽をともなって、虫を踏み潰している。


 この日を境に、優子は留美のことを意識せずにはいられなくなった。シフトが重なる日には、彼女の足もとや、ふとした瞬間の表情を観察してしまう。留美は、いつも通り、明るく、優しく、誰からも好かれるバイトの子として振る舞っている。しかし、優子の目には、その完璧な仮面の下に、自分と同じ種類の、暗い衝動が隠されているように見えてならなかった。


(話してみたい……。でも、もし違ったら……? ただの私の思い込みだったら……?)


 リスクが大きすぎる。自分の異常な性癖を知られてしまうかもしれない。そうなれば、この職場にいられなくなる可能性だってある。優子は、留美への興味と、自己保身との間で、激しく揺れ動いていた。


 そんなある日、偶然にも、昼食休憩のタイミングが留美と重なった。社員用の休憩スペースで、一人で弁当を食べている優子の隣に、留美が「隣り、いいですか?」とやってきたのだ。


「どうぞどうぞ」


 平静を装いながら、内心では心臓が激しく波打っていた。これがチャンスかもしれない。しかし、どう切り出せばいいのか。当たり障りのない会話をしながら、優子はタイミングをうかがっていた。


「留美ちゃんってさ、虫、平気な方?」


 思いきって、核心に触れない範囲で、探りを入れてみることにした。留美は、きょとんとした顔で優子を見ると、少し考えてから、にっこりと笑った。


「うーん、種類によりますかね? 蝶々とか、てんとう虫とかは可愛いなって思いますけど……」


「じゃあ……ゴキブリとかは?」


 優子の言葉に、留美の笑顔が一瞬、凍りついたように見えた。そして、次の瞬間、彼女は声を潜め、悪戯っぽく片目をつぶって言った。


「あれは……別ですね。見つけると、なんか、こう……血が騒ぐというか……」


 血が騒ぐ。その言葉に、優子の心臓が大きく跳ねた。


「……踏み潰したくなる?」


 優子は、自分の声が震えているのを感じながら、そう尋ねた。留美は、驚いたように目を丸くしたが、すぐに、何かを悟ったような表情になり、こくりと頷いた。


「……優子さんも、ですか?」


 今度は、留美が優子に問いかける番だった。優子は、息を呑んだ。肯定すれば、自分の秘密を打ち明けることになる。しかし、もう後戻りはできない。優子は、意を決して、小さく、しかしはっきりと頷いた。


 その瞬間、二人の間に、張り詰めていた糸がぷつりと切れ、代わりに、言葉にならない共感と安堵の空気が流れた。


「……よかった……」


 留美が、ほっとしたように息をついた。「私だけじゃなかったんだ……。なんか、ずっと、自分がおかしいんじゃないかって、怖かったんです」


「私も……! 私も、ずっと……!」


 優子の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。誰にも言えなかった秘密。自分だけが異常なのだと思い込んでいた孤独。それが、今、目の前にいる、この可愛らしい少女と共有できたのだ。その事実に、感動と安堵で胸がいっぱいになった。


 留美は、驚きながらも、優しく優子の肩に手を置いた。


「優子さん……」


「ごめん……! なんか、安心して……」


 涙を拭いながら、優子は、あの夏の日のテニスコートでの出来事を、ぽつりぽつりと語り始めた。ザリガニの大群、衝動的な蹂躙、そして、それがもたらした倒錯的な快感。留美は、真剣な表情で、時折相槌を打ちながら、優子の告白に耳を傾けていた。


 すべてを話し終えると、優子は恐る恐る留美の顔を見た。軽蔑されているかもしれない。引かれているかもしれない。しかし、留美の瞳には、嫌悪感はなく、むしろ、強い興味と共感の色が浮かんでいた。


「ザリガニ……ですか。すごい……。ゴキブリなんかより、ずっと……手応えがありそう……」


 留美は、うっとりとしたような表情で呟いた。その反応に、優子はさらに安堵し、同時に、二人の間に特別な絆が生まれたことを確信した。


「もし……もし、また、あのコートにザリガニが現れたら……」優子は、期待を込めて切り出した。「……一緒に、行かない?」


 留美の目が、きらりと輝いた。


「……いいんですか?」

「もちろん! 一人より、きっと……もっと、すごいことになると思うから……!」


「行きます! 絶対、行きたいです!」


 留美は、満面の笑みで即答した。その笑顔は、いつもの無邪気なものとは違う、共犯者だけが分かち合える、秘密の喜びと興奮に満ちていた。


 優子は、こみ上げてくる感動に、再び涙をこぼした。もう一人ではない。この、誰にも理解されないと思っていた歪んだ欲望を、分かち合える相手を見つけたのだ。


「ありがとう……! 留美ちゃん……!」


 留美は、そんな優子を、ぎゅっと抱きしめた。小柄な身体から伝わる温かさと、同じ衝動を共有する者同士の強い連帯感が、優子の心を溶かしていった。


「ううん、私の方こそ、ありがとうございます、優子さん。誘ってくれて……。私、すっごく、楽しみです……!」


 二人は、しばらくの間、休憩スペースの片隅で、互いの存在を確かめるように、静かに抱き合っていた。冬の冷たい空気の中で、二人の間だけには、春の訪れを待ちわびる、熱い期待が確かに芽生えていた。その日を境に、優子と留美の関係は、単なる職場の同僚から、秘密を共有する特別な共犯者へと、静かに、しかし確実に変化していったのだった。



 秘密を共有した日から、優子と留美の関係は急速に深まっていった。シフトが重なる日はもちろん、休憩時間や仕事終わりにも、二人はこっそりと会い、互いの性癖について語り合った。どんな時に興奮するのか、どんな感触が好きなのか、どんなシチュエーションに憧れるのか。それは、まるで恋人同士が愛を語り合うかのように、熱っぽく、そしてどこまでも倒錯的だった。


 優子は、留美がただ虫を踏むだけでなく、そのプロセスや、靴が汚れていく様にも興奮を覚えることを知った。特に、エナメル素材の靴で、潰れた虫の体液が艶やかな表面に飛び散り、模様を描く光景が好きだという。留美は、優子のザリガニ蹂躙の話を聞いて、そのスケールの大きさと、テニスコートという舞台設定、そしてウェディングドレスという衣装の倒錯性に、強い憧れを抱いていた。


「いいなあ、ウェディングドレス……。私も、何か特別な衣装でやってみたいです」

「留美ちゃんが着たら、絶対可愛いよ! 次は、二人で、とびっきりの格好でやろうよ!」


 冬の間、二人は来るべき季節に向けて、計画を練り始めた。それは、待ち遠しい春をやり過ごすための、甘美な慰めでもあった。


 まず、衣装。前回、優子はウェディングドレスという究極の選択をしたが、今回は二人だ。お揃い、というのも考えたが、それぞれの個性を出しつつ、テーマ性を合わせることにした。


「うーん、やっぱり、非日常感が欲しいですよね。普段絶対着ないような……でも、動きやすい方がいいし……」

「そうだね。あと、やっぱり、ちょっと……かわいらしさ、みたいなのは欲しいかな。その方が、やってることとのギャップが……ね?」

「わかります! その背徳感がたまらないんですよね!」


 二人が働くアパレルショップは、トレンドを取り入れた、少しガーリーなテイストの服を多く扱っている。社員割引を使えば、かなり安く購入できる。二人は、仕事の合間や休憩時間に、店内の商品を物色し始めた。


「このフリルのブラウスとかどうですか? スカートと合わせたらかわいいかも」

「あ、いいね! スカートは、やっぱり短めがいいかな。足もとが見えやすいように」

「ですね! この、レースがついてるティアードスカートとか、どうでしょう? ふわふわしてて、踏み潰すとき、一緒に揺れたら……」

「きゃっ! それ、すごくいい……!」


 最終的に、二人は、白を基調とした、フリルやレースを多用した、甘めのコーディネートを選ぶことにした。優子は、オフショルダーにもなるフリルのブラウスに、アシンメトリーなデザインの白いティアードスカート。留美は、大きなリボンタイがついたパフスリーブのブラウスに、裾にレースがあしらわれた淡いピンクのミニスカート。どちらも、少女的で、無垢な印象を与えるデザインだ。それを着て、これから行う残酷な行為を想像すると、二人はくすくすと笑い合った。


 そして、もっとも重要なアイテム、靴。これも、二人のこだわりが詰まった選択となった。


「やっぱり、エナメルがいいですよね、優子さん!」と留美が目を輝かせる。

「うん、汚れが映えるし、あの艶やかな感じがたまらないよね。でも、色は……どうしようか」

「前回、優子さんは白でしたよね? 今回は、黒とかどうですか? 白いソックスと合わせたら、絶対かわいい!」

「あ、それいいかも! 黒のエナメルパンプス……。留美ちゃんは?」

「私は、やっぱり白がいいです! あの、汚れていく過程が見たいので……。素足で履きたいなあ」


 優子は、黒のエナメルパンプスを選んだ。デザインは、前回と同じ、鋭いポインテッドトゥのフラットソール。それに合わせるソックスは、留美の提案通り、白いクルーソックスで、履き口に小さな黒いリボンがついているものを選んだ。可愛らしさと、どこか倒錯的な雰囲気が同居する組み合わせだ。


 留美は、真っ白なエナメルパンプスを選んだ。こちらもポインテッドトゥのフラットソールだが、優子のものより少しだけ甲が浅く、華奢な印象を与えるデザイン。これを素足で履くのだという。純白のパンプスと、生身の素足。その組み合わせが、留美のサディスティックな衝動を掻き立てるらしかった。


 衣装と靴が決まると、二人の期待はさらに高まった。購入した服と靴は、それぞれの家に持ち帰り、来るべき「その日」まで、大切に保管された。まるで、秘密の儀式のための祭具のように。


 春が訪れ、桜が咲き、そして散った。新緑が目に眩しい季節になり、気温も徐々に上がっていく。優子と留美は、毎日のように連絡を取り合い、互いの期待と焦燥感を共有した。


「そろそろですかね……?」

「うん、天気予報だと、来週あたり、梅雨入りしそうだって。雨が降って、川が増水したら……チャンスかもしれない」

「どきどきしますね……!」


 そして、ついに梅雨が訪れた。連日の雨。川の水位が上がっているというニュース。二人の緊張感は最高潮に達していた。優子は、毎日、仕事の前後に、あのテニスコートの様子を見に行くようになった。まだか、まだかと、逸る心を抑えながら。


 そして、梅雨明け宣言が出された、七月のある週末の朝。優子は、いつものように自転車でテニスコートへ向かった。じっとりとした熱気が肌にまとわりつく。太陽が雲間から顔を出し、雨上がりの地面をじりじりと照らし始めていた。


 公園に近づくにつれて、あの、忘れられない匂いが鼻腔をかすめた。


(……この匂い……!)


 心臓が早鐘のように鳴り響く。ペダルを漕ぐ足に力がこもる。そして、テニスコートが見えた瞬間、優子は歓喜の声を上げそうになった。


「……いた……!」


 待ち望んだ光景。テニスコート一面を埋め尽くす、赤黒いアメリカザリガニの大群。昨夜の局地的な豪雨で、またしても彼らは地上へと這い出してきたのだ。


(やった……! やっと、この日が来た……!)


 優子は、震える手でスマートフォンを取り出し、留美に電話をかけた。数回のコールの後、留美の弾んだ声が聞こえた。


「もしもし、優子さん?」

「留美ちゃん! いたよ! ザリガニ、いた! あのコートに!」

「えっ! 本当ですか!? やったーーーっ!」


 電話の向こうで、留美が飛び上がって喜んでいるのが伝わってくる。


「すぐ準備して! あの格好で、コートで落ち合おう!」

「はいっ! すぐ行きます!」


 電話を切り、優子は急いで自宅へと自転車を走らせた。心臓は破裂しそうなほど高鳴り、全身の血が沸騰しているような感覚。これから始まる、留美との初めての共同作業。どんな快感が待っているのだろうか。想像しただけで、身体が震えた。


 家に着くと、一直線に自分の部屋へ向かい、用意しておいた衣装と靴を引っ張り出す。フリルのブラウスとティアードスカートに着替え、白いソックスを履き、黒いエナメルパンプスに足を入れる。ノーパンなのは、もはや当然のことだった。前回のようなローターは使わない。今日は、留美との相互作用だけで、どこまでいけるか試したかった。


 鏡に映る自分の姿を見る。白いフリルとレース、黒いパンプスと白いソックス。甘さと倒錯が入り混じった、完璧な「戦闘服」だ。


(留美ちゃんは、あの格好で来るかな……?)


 期待に胸を膨らませながら、優子は家を飛び出し、再び自転車にまたがった。目指すは、約束の場所。狂宴の舞台となる、テニスコートへ。



 テニスコートに着くと、既に留美が到着していた。フェンスに寄りかかり、コートの中を興奮した面持ちで見つめている。優子が想像していた通りの、いや、それ以上に完璧な姿だった。


 大きなリボンタイがついた白いパフスリーブのブラウスに、淡いピンクのレース付きミニスカート。肩まで伸びたツインテールが、風に揺れている。そして、足もとは、まばゆいばかりの白いエナメルパンプス。それを、華奢な素足に直接履いていた。少女のような可憐さと、危うい色気が同居している。


「留美ちゃん!」

「優子さん!」


 二人は駆け寄り、互いの姿を見て、満足そうに微笑み合った。


「かわいい……! 優子さん、すごく似合ってます!」

「留美ちゃんこそ! 天使みたい……! これから、あんなことするなんて、誰も思わないだろうね」

「ふふ、それがいいんですよね!」


 二人の間には、共犯者だけが共有できる、甘美な緊張感が漂っていた。目の前には、蠢くザリガニの絨毯。耳には、カサカサ、ガサガサという無数の音。鼻には、生臭い匂い。五感が刺激され、興奮が急速に高まっていく。


「じゃあ……行こっか?」

「はい!」


 優子が手を差し出すと、留美はためらうことなく、その手を握った。ひんやりとした、少し汗ばんだ小さな手。その手を握ったまま、二人はゆっくりと、コートの中へと足を踏み入れた。


 パンッ! パキッ!


 優子の黒いパンプスと、留美の白いパンプスが、同時にザリガニを踏み潰す。前回とは違う、二人分の破壊音。それが、始まりの合図だった。


「きゃっ!」

「ふふっ!」


 足裏に伝わる、硬いものが砕ける感触に、二人は同時に声を上げた。それは、驚きと、恐怖と、そして紛れもない快感の入り混じった声だった。互いの顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出す。


「すごい感触……!」

「でしょ? これが、やめられないんだよね……!」


 繋いだ手に力を込め、二人はコートの中を歩き始めた。右足、左足、優子の黒いパンプス、留美の白いパンプスが、交互にザリガニを踏み潰していく。


 メキッ! グシャッ! バキッ! ブチュッ!


 黒いパンプスは、白いソックスとのコントラストで、付着する赤黒い汚れが一層際立つ。白いパンプスは、純白の表面がみるみるうちに汚れていき、その変化が倒錯的な美しさを醸し出す。二人は、互いの足もとが汚れていく様を、恍惚とした表情で見つめ合った。


「優子さんの黒、すっごくエロいです……!」

「留美ちゃんの白も、たまらないよ……! 汚れていくのが、きれい……!」


 興奮が高まるにつれて、二人の動きは大胆になっていく。ただ歩くだけでは物足りなくなり、繋いだ手の力を利用して、その場でくるくると回り始めた。遠心力でスカートの裾が舞い上がり、二人の嬌声がコートに響き渡る。回転しながら、無数のザリガニを、二人のパンプスが容赦なく踏み潰していく。


「きゃははは!」

「楽しい……! すっごく楽しい!」


 目が回り、足もとがおぼつかなくなる。しかし、繋いだ手があるから、倒れることはない。互いを支え合いながら、狂った円舞を続ける。足裏の感触と、回転による浮遊感、そしてすぐ隣りにいる共犯者の存在が、優子の興奮をかつてないレベルへと引き上げていた。


「はぁ……はぁ……!」

「ん……っ!」


 息が上がり、喘ぎ声が漏れ始める。回転を止め、二人は肩で息をしながら、見つめ合った。互いの瞳には、同じ種類の狂気と、欲望の色が燃えていた。


「ねえ、留美ちゃん……」

「はい……?」

「もっと……めちゃくちゃに、してみたい……」

「……私も、です……!」


 二人は、繋いでいる手を離すと、足もとのザリガニを蹴り始めた。まるでサッカーボールでも扱うかのように、赤黒い塊をコートの中央付近へと集めていく。やがて、そこには、他の場所よりも密度の高い、ザリガニの小山のようなものが出来上がった。


「ふふ……準備できたね」

「はい……!」


 二人は、再び強く手を握り合うと、助走をつけて、そのザリガニの山に向かって、同時に飛び乗った!


「「きゃあああああっ!!」」


 全体重がかかり、ザリガニの山が一気に潰れる。メキメキメキッ! グシャグシャグシャッ! という、これまででもっとも大きな破壊音とともに、おびただしい量の体液と内臓が飛び散った。二人のスカートの裾や、ブラウスにまで、赤黒い飛沫が降りかかる。


 そして、二人はその上で、狂ったようにジャンプを繰り返した。


「もっと! もっと!」

「潰れろ! 全部!」


 激しい上下動。足裏で完全にミンチ状になっていくザリガニの感触。飛び散る汚物。互いの興奮した表情。それらすべてが、二人をさらなる狂乱へと駆り立てる。


 ジャンプするたびに、優子のフリルが揺れ、留美のリボンが跳ねる。そのガーリーな衣装と、足もとで行われている残酷な行為とのギャップが、倒錯的な興奮を増幅させた。


「はぁっ……! んっ……! あ……!」

「優子さん……! すごい……! 感じる……!」


 留美が、喘ぎながら叫んだ。ジャンプの衝撃と、足裏の快感が、彼女の性感帯を直接刺激しているかのようだ。優子もまた、下腹部の奥がきりきりと痛み、熱いものが込み上げてくるのを感じていた。


 その時、繋いでいたはずの二人の手が、いつの間にか、互いの体をまさぐり始めていた。優子の手は、留美のブラウスの上から、柔らかい胸の膨らみを揉みしだき、硬くなり始めた乳首を探り当てていた。留美の手は、優子のスカートの下、露わになった太ももの内側を滑り、秘裂へと伸びていた。


「んん……っ!」

「あ……だめ……!」


 ザリガニを踏み潰しながら、互いの体を貪るように刺激し合う。これ以上ないほど、背徳的で、倒錯的な状況。羞恥心など、もはやどこかへ吹き飛んでいた。あるのは、ただ、原始的な破壊衝動と、性的な欲望が混ざり合った、純粋な快楽だけだった。


「留美ちゃん……! こっちも……!」


 優子は、留美のブラウスのボタンを乱暴に外し、露わになった胸に顔を埋めた。小さいながらも形の良い乳房に吸いつき、乳首を歯で軽く噛む。


「ひゃあっ! や……! 優子さ……んっ!」


 留美は、甘い悲鳴を上げながら、優子のスカートの中にさらに深く指を差し入れ、湿り始めた粘膜を直接刺激した。


「あ……ああ……っ! そこ……!」


 二人は、互いを支え合うように抱きしめ合いながら、ザリガニの死骸の上で、体を揺らし、喘ぎ続けた。足もとでは、パンプスが依然として、ぐちゃぐちゃになったザリガニの残骸を踏みしめ、ねちゃり、ぐちょり、という音を立てている。その音と感触が、二人の性的な興奮をさらに煽り立てた。


「もう……無理……!」

「私も……! いく……!」


 黒いパンプスと白いパンプスが、最後の抵抗をするかのように、ザリガニの残骸をさらに深く踏みしめる。そして、次の瞬間、二人は同時に、絶叫に近い喘ぎ声を上げ、激しいオーガズムの波に飲み込まれた。


「「ああああーーーーっっ!!」」


 体が激しく痙攣し、意識が遠のく。抱きしめ合ったまま、二人はザリガニの海の真ん中に、崩れるように倒れ込んだ。汚れることなど、もはや気にもならない。ただ、互いの温もりと、共有した強烈な快感の余韻に、身を委ねていた。


 どれくらいの時間が経っただろうか。荒い呼吸がようやく落ち着き、二人はゆっくりと身体を離した。互いの顔を見つめ、そして、どちらからともなく、ふふっと笑い出した。


「……すごかったね」

「……はい。今までで、一番……」


 二人の体も、着ていた衣装も、そして足もとのパンプスも、おびただしいザリガニの体液と残骸で、見るも無残に汚れていた。しかし、その汚れは、二人にとって、最高の勲章のように見えた。


「また……やろうね、優子さん」

「うん……何度でも。留美ちゃんと一緒なら……」


 二人は、汚れた手を取り合い、ゆっくりと立ち上がった。狂宴は終わったが、二人の共犯関係は、この日、さらに深く、そして歪んだ形で結びついたのだった。空には、梅雨明けの強い日差しが降り注いでいた。

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テニスコートの誓い 写乱 @syaran_sukiyanen

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