それは躑躅の花言葉

百瀬ひらく

それは躑躅の花言葉

 その年の春は数日しかなかったようで、1歳の坊やはすでに半袖を着ていた。やわらかい髪の毛はそれでも汗に濡れている。母の手を振り切ろうとするため、若い母親は苦労して手をつなぎながら、歩道を歩いていた。道のわきには、真っ赤な躑躅がみっしりと、日向に向かって狂ったように咲いている。子どもは駆けだして、躑躅の茂みに顔を突っ込むと、きゃはきゃは、と笑い声をあげた。


 転びかけた彼を支えたのは、真っ白な髪の老婦人だった。

「時期になると、ちゃんと咲いてくださるんだものねえ」

老婦人は幼子に話しかけた。彼女が引いているカートには特に何も載っていなかったが、足元から小さいチワワが顔を出した。

「わんわん」

と指さされたその犬は誇らしげに胸を張った。犬の名前はワチチというのだが、誇り高い犬はこんな歩きたてほやほやの坊やに呼び名を間違えられたからといって気にはしない。

追いついた母は

「すみません」

と慌てて子どもを抱きとろうとするが、子どもはするりと座り込んでその腕を抜けていこうとする。老婦人のカートでせき止められた彼はじたばたとその場で腕を振り回した。


「かわいいわねえ、お母さんは大変だろうけど」

老婦人の何気ない声かけに、母の目から涙がこぼれた。

「すみません、」

慌てて彼女は涙をぬぐう。

「昨夜、生まれてからこんなことはなかったってくらい夜泣きがすごくて。わたし、疲れてるのかな」

そして母親は老婦人にしか聞こえないであろう小さな声で、

「なぜか急に昨晩から可愛いって思えなくて」

とつぶやいた。老婦人は首をそちらに向けることなく、すっと子どもを盗み見て、言った。


「そりゃあ大変ね、この年頃の子供なら、もう躑躅の花言葉だって、言えておかしくないはずなのに」

母親には意味が分からない。そんな中、きいたことのないしわがれ声が足元から聞こえてきた。

「躑躅の花言葉はね、『節度』『慎み』『努力』」

それは真っ黒な目をした、地面に座り込んだ、男の子から発せられた声のようだった。


 その刹那、老婦人が手をかけていたカートを振り回した。その間0.5秒。しかし、軽く膝を矯め、高く跳ねた坊やがそれを避ける。先ほどのよちよち歩きからは考えられない素早さと跳躍力だ。

「ワチチ!」

老婆の声が鋭く飛ぶ。心得ました、と誇り高いチワワはその小さな顎で坊やの首もとに食らいつく。

「何するんですか」

と叫びかけた母親は、ワチチが肉を嚙まないぎりぎりで体重をかけ、二度目の跳躍の勢いを殺したのを目撃した。

(この犬、出来る……)

なんせ、人間を噛んだ飼い犬は保健所送りだ。そこの見定めに狂いはなかった。しかし敵はそれを見切っていた。人間っぽい身体つきでさえあれば、訓練された犬は噛んでこない。首もとを自ら掴むと、ぐっと嚙みついた犬を逆に振り回した。ワチチは地面にたたきつけられる。坊やとは似ても似つかない、しわがれ声が言う。

「くそっ、また騙された。せっかく人間のことを勉強してやったのに!ケイト・グリーナウェイの、絵入り花言葉図鑑も買ったのに!」

笑いながら悔しがるそれに対して、老婆は容赦がなかった。

「あんたそりゃ、150年ほど時代遅れだよ!」


 直接攻撃を一発で当てなければ、ワチチの二の舞になる。年老いた女は、坊やもどきの軌道を見切り、その後頭部に向かってカートに遠心力を載せた。車輪部分で渾身の一撃を振りぬく。


 すぽん、と間抜けな音がして、しゃがれた笑い声が消えた。緑に苔むした小さな木片が、子どもの黄色いTシャツの中に落ちていた。

「あんたの子どもは妖精に取り替えられかけていたんだよ」

老婦人が重々しく告げた。

「チェンジリングって聞いたことないかい、あんまりかわいい子どもは妖精に欲しがられるんだ。でもごらん、本物の坊やが戻ってきた」


 火のついたような泣き声が聞こえ、みるといつの間にか、母の後ろに坊やはいた。すっぽんぽんで泣きじゃくる坊やを、母は夢中で抱きしめる。

「かわいいタイちゃん、どこに行ってたの、ごめんね、ごめんね……」

老婦人はそれを見てほっとしたようで、話を続ける。

「花言葉は信用ならないんだよ。新品種ができたっていうと、販売会社が売り上げのために作ったりするんだから。こんなにみっしり派手な色で咲いている花に対して、あろうことか『慎み』だって?」

そんな老婆の言葉に同意するのは、節々を確認するチワワのワチチばかりだ。

「花言葉を広めたケイト・グリーナウェイって、子どものたくさん出てくる絵本を描いていたイギリス人だけど、あれだってかわいいばかりの世界じゃない。少女時代の彼女は、インドの、あのセポイの乱の虐殺を、絵入り雑誌で読みあさったというじゃないか。残酷な、血なまぐさいものと、子ども時代のような柔らかなファンタジーは、一人の人間の中で両立するいうことの、これは証明になるね」

 老婦人は元殺し屋であった。幽霊や要請にまで攻撃できる万能な打撃以上に、現役当時から、殺す前後の御託が長いので有名であった。年を経て、その言葉はますます長く、ゆっくりと述べられるようになったらしい。

「しかし、赤い躑躅の花言葉は『燃え上がる思い』だったね。あの母親の思いに免じて、この花言葉くらいは許してやるとするか」


 すでに母親は、訳も分からぬながらお礼を言った後、服を着せなおした子どもとともに、家に向かって歩み始めている。小さなチワワが、くちゅん、とくしゃみをした。

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