【始まりノ檻】――魂を縫われた実験室より:2

扉の奥に、もう一つの扉があった。


 


鉄でできたその扉は、周囲の壁とは明らかに異なる材質で、無骨なリベットが内側から打ち付けられていた。まるで“中身”が逃げ出さないように封じ込めていたかのように。


 


スイが手をかけると、冷たい金属がひやりと肌を刺す。


小さな鍵穴が、鍵を求めるように口を開けていた。


 


「……これ、もしかして……」


 


セナが、そっとポケットから何かを取り出した。


リクの首元に巻かれていた、小さな紐のペンダント。


中に収められていたのは、鈍く光る――“鍵”。


 


「リクが、残してくれたのか……?」


 


無言で頷くセナ。


鍵を差し込むと、ぴたりと吸い込まれるように嵌まり、扉が微かに沈んだ。


 


ゆっくりと――


重たい扉が、内側に向かって、軋む音と共に開いていく。


 


そこには――“別の世界”があった。


 


 


まず、臭いが、来た。


 


鉄と薬品と腐臭と血と、言葉では言い表せない“なにか”が混じった、湿った空気。


酸化した金属の錆と、風化した有機物の腐乱臭が、喉の奥にまとわりつく。


スイは思わず口元を押さえた。


 


(……吐き気がする)


 


でも、吐けなかった。


これが、真実だったからだ。


 


壁には、装置があった。


人間の背丈ほどの金属筒。中央部には透明な観察窓があり、その内側には――乾ききった肉片のような何かが、こびりついていた。


 


「……これ……人間?」


 


かつて誰かだった“残り滓”。


魂を抜き取るためだけに存在した装置。


配管の内側には赤黒い沈殿物が張り付き、いくつかのホースは、先端が“ちぎれた指”のように裂けていた。


 


「見て……ここ、名前が書いてある……」


 


セナが震える手で示したのは、装置に貼られた札だった。


 


《抽出済:個体番号 No.014 / “エナ”》


 


その名は、もう誰も呼ぶことがない。


 


 


その隣には、壁に固定された拘束台があった。


 


――今も、ひとり、そこにいた。


 


すでに命は失われていた。


でも、死んで時間が経っていないのが分かる。


皮膚は薄く、青白く、身体は小さな子どもだった。


鎖が手首と足首を貫き、両目には黒布が縫い付けられていた。


 


唇は、針金で閉じられていた。


 


叫ばないように。


泣かないように。


助けを呼ばないように。


 


そうされていたのだろう。


 


スイは、声を失った。


 


(……これが、“失敗作”)


 


その身体には、何十という針跡と切開痕。


皮膚が無造作に剥がされたような跡。


そして胸の中央にあいた、円形の穴。


明らかに“魂”だけを抜き取るために作られた人工の孔。


 


「……ッ……」


セナが膝をついて嘔吐した。


でも、それでも顔を上げた。


 


「……この子……わたし、見たことある……」


 


震える声。


記憶の中にうっすらと残っていた影が、現実と重なった。


 


「この子、ほんとは……“ナギ”って名前だったの。……まだ、話せてた頃もあったのに……」


 


 


スイは、その名を心の中で呼んだ。


“ナギ”。


聞いたことがない名前だった。


それは、誰にも呼ばれないまま奪われた、名。


 


目を背けたくなる。


けれど、背けたところで、そこには現実が残っている。


 


ナギの傍らには、記録用の台帳が置かれていた。


スイは手に取る。


赤黒く染み込んだ表紙。ページの端は硬直した血でくっついている。


丁寧に、一枚一枚、剥がすようにめくっていく。


 


名前のないリストが並ぶ。


そこには、“道具の有無”が記されていた。


 


《個体 No.009 未顕現 / 抜魂済》


《個体 No.011 破損 / 処理完了》


《個体 No.015 顕現済 / 引渡先:アンダナ評議会》


 


「……“渡された”? 道具を……?」


 


「そう……」


セナが呟く。


 


「これが……奪われた魂の、行方なんだよ」


 


その言葉が、スイの胸を貫いた。


鋭く、冷たく、乾いた刃物のように。


「……思い返せば、ずっとおかしかったんだよね」


セナの声は、押し殺したように低かった。


「“名前を呼ばれたことがない子”ばかりだったのに……ある日突然、姿を見なくなる子がいて。皆も訊かないし、大人たちは“引き取られた”って言うだけで……」


彼女の目はどこか遠くを見ていた。まるで、自分でも信じたくなかったものを無理に引き出すように。


 


「院長先生が持ってた鍵……この奥の部屋の。誰も近づけなかった。言葉じゃなくて、雰囲気で“触れちゃいけない”って、そう感じる空間だった」


声が少し震えた。


「ある時、ほんの一瞬だけ……扉が開いてたことがあって」


彼女の両手が無意識に胸元を押さえた。


 


「……中に足を踏み入れたわけじゃない。ただ、空気が漏れただけなのに」


「……それだけで、息が詰まりそうだったの。金属と薬品の匂いに、どこか焦げたみたいな……なにか、“生き物の腐った匂い”が混ざってて……」


スイは言葉を挟めなかった。


セナの顔が、ほんの少し青ざめていた。


 


「ずっと、“忘れた方がいい”って、自分に言い聞かせてたんだ。……でも、今なら分かる。あれは……あの部屋で、“誰かが奪われてた”匂いだったんだよ」


 


静かに、彼女は目を閉じた。


消えかけた記憶の断片が、今、こうして現実と重なって蘇っている。


そしてその“断片”だけが、彼女の中で、唯一残っていた“確かな真実”だった。


 


スイは、その空間を見回した。


地面には乾いた血。


壁には拘束具。


棚には、分類された“抜き出された道具”の収容リスト。


 


全てが、“生きていた誰か”の痕跡だった。


その名前すら、もう残っていない。


 


(……奪われてたんだ)


(……名前を、魂を、存在そのものを)


 


ゆっくりと、拳を握る。


唇が、無意識に動く。


 


「“名前を呼ばれる”って、そういうことだったんだね」


 


誰にも呼ばれなかった彼らの“終わり”がここにあった。


この世界が、“名前を持たない命”をどれだけ軽んじているかを――これ以上なく、突きつけられた。


 


(なら、僕は……)


 


この手で奪ってしまった命の分まで――


この先、二度と。


“名前を使わせたり”なんて、しない。


 


この部屋こそが、


スイの“出発点”になる。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る