第20話: この世界を、許さない
春が、ゆっくりと町を撫でていた。
それでも、空気は冷たかった。
ミレイダの町の外れ、
かつて小麦畑だった荒地の端を、
スイとセナは無言で歩いていた。
依頼帰りだった。
異形の討伐を終え、
ぼろぼろになった体で、
それでも、二人はまっすぐに帰路をたどっていた。
疲労は、確かにあった。
傷も、痛みも、心に染みついた苦味も、そこにあった。
けれど、
互いに、口に出すことはなかった。
無言のまま。
それでも、
スイとセナは自然に、互いの背中を預け合うように歩いていた。
息づかいを感じる距離。
足音のリズムを、自然に合わせる歩幅。
そこに言葉はなかった。
けれど、確かなものが、あった。
信頼だった。
小さな、けれど、
どんな魔法よりも強固な、
ふたりだけの信頼だった。
*
ふと、スイは横目でセナを見た。
セナの顔色は悪かった。
頬に血の気がなく、
それでも、無理に笑おうとしている気配があった。
左腕には、またあの赤い糸が浮かびかけていた。
魂の悲鳴のような、赤。
スイは、何も言わなかった。
言えなかった。
セナもまた、気づいていた。
自分の体が、少しずつ、限界へ向かっていることを。
虚還ノ縫は、確かに成長している。
力も、鋭さも、以前とは比べものにならない。
けれど、それと引き換えに、
セナ自身がすり減っている。
魂を、削りながら。
スイは、拳を握った。
自分もまた、同じだった。
子どもたちの武器を呼び出すたびに、
心臓の奥に鈍い痛みが走る。
魂に、確かに亀裂が入り始めているのを、
スイ自身が一番知っていた。
けれど。
セナには、絶対に気づかせたくなかった。
セナが、「自分ひとりのせいだ」なんて思うことが、
何より怖かった。
だから、スイは、何も言わない。
笑いもしない。
ただ、前を向いた。
歩く。
進む。
誰にも見えない未来に向かって。
たとえ、このまま、魂ごと擦り切れてしまったとしても。
スイは、ただ、歩き続けた。
セナの隣で。
守るために。
守りたかったもののために。
沈みかけた太陽が、
二人の影を、長く伸ばしていった。
遠く、かすかに風が鳴った。
その音が、
まるで、どこか遠い場所で泣いているように聞こえた。
でも、誰も振り返らなかった。
スイも、セナも。
ただ、
互いに背中を預けたまま、
静かに、歩き続けた。
*
夜。
宿の小さな一室には、
ランプの揺れる光だけが満ちていた。
窓の外では、風が梢を撫でる音がする。
それ以外は、何もなかった。
スイとセナは、
壁際に腰を下ろしていた。
今日もまた、
無事に帰ってきた。
ただ、それだけだったはずなのに。
沈黙が、長く続いていた。
セナは、
小さく膝を抱えたまま、
ランプの灯をぼんやりと見つめていた。
スイは、
修繕の終わった黒衣の袖口を、
何度も、無意味に指先でなぞっていた。
何かを言わなきゃ、と思った。
けれど、
何を言えばいいのかわからなかった。
そんなときだった。
セナが、そっと顔を上げた。
「……スイくん」
掠れる声。
けれど、
確かにスイを呼ぶ声だった。
スイは、反射的に顔を上げた。
セナは、
小さく、微笑んでいた。
「スイくんがいれば、私、きっと……大丈夫だよ」
ほんの少しだけ、
震えを隠した声だった。
その言葉に、
スイは、言葉を失った。
大丈夫。
本当に、そうだろうか。
スイは知っている。
セナの魂が、
虚還ノ縫によって、少しずつ削られていることを。
それでも、
セナは笑った。
信じたかったのだろう。
信じなければ、
きっと、折れてしまうから。
スイは、
何も言えなかった。
ただ、かすかに喉が軋んだ。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
答えなきゃ、と思った。
けれど、
出しかけた言葉は、どうしても形にならなかった。
セナは、また小さく笑った。
そして、膝に顔を埋めるようにして、
静かに目を閉じた。
スイは、
その小さな背中を、
ただ黙って見つめた。
──僕が、そばにいるから。
──だから、大丈夫だって。
――でも。
本当に、大丈夫なのは――
どっちだろう。
スイは、目を閉じた。
闇の中で、
自分の魂の奥に走る、
かすかな亀裂を感じながら。
夜の帳は、
静かに、ふたりを包み込んでいった。
何も、癒すことなく。
*
夜が、深く沈んでいた。
宿の小さな窓から、
星ひとつない暗闇が覗いている。
息を潜めた町。
誰もが眠り、
誰もが無関心に、今日を終えていく。
スイは、ベッドの端に腰を下ろし、
手のひらを見つめていた。
細い指先。
乾いた皮膚。
そして――
掌の奥、目には見えない場所で、
ひび割れ始めている自分自身を、感じていた。
武器を振るうたびに、
魂が、確かに削れていく。
守るために、戦っているはずだった。
けれど、
気づけば。
救えたものより、
失ったものの方が、圧倒的に多かった。
子どもたちの名前。
存在のかけら。
残響だけになった声。
それらを、武器として使い、
踏み越えて、斬って、壊して。
それでもまだ、
この世界は、何ひとつ変わらなかった。
名前を失った子どもたち。
魂を道具にされた命。
そして、誰も、それを疑おうともしない人々。
この世界は、
平然と、
当たり前のように、
それを見捨てていく。
スイは、
ゆっくりと拳を握った。
軋むような音が、耳の奥で鳴った気がした。
──本当に。
誰も、何も、守れないのか。
──なら。
なら、僕は。
スイは、静かに目を閉じた。
脳裏に、セナの顔が浮かぶ。
あの日、無理に笑った顔。
ぎりぎりのところで、「大丈夫」と言った声。
そして、
すでにこの身に刻まれてしまった、
数えきれない無念の声たち。
もし、この世界が。
名前も、魂も、
何もかもを踏みにじる世界なら。
壊すべきは――
異形だけじゃない。
この、世界そのものだ。
スイは、静かに、しかし確かに、心の中で誓った。
──僕は、それを許さない。
たとえ、どれだけのものを敵に回しても。
たとえ、どれだけの血を浴びることになっても。
この手で、
名前を奪う全てを、
打ち砕く。
この魂が朽ち果てるそのときまで。
静かだった。
叫びも、涙もなかった。
ただ、宿の薄暗い一室で。
ひとりの少年が。
静かに、
誰にも知られることなく。
世界に牙を向けた。
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