第20話: この世界を、許さない


 


春が、ゆっくりと町を撫でていた。


 


それでも、空気は冷たかった。


 


ミレイダの町の外れ、

かつて小麦畑だった荒地の端を、

スイとセナは無言で歩いていた。


 


依頼帰りだった。


異形の討伐を終え、

ぼろぼろになった体で、

それでも、二人はまっすぐに帰路をたどっていた。


 


疲労は、確かにあった。


傷も、痛みも、心に染みついた苦味も、そこにあった。


 


けれど、

互いに、口に出すことはなかった。


 


無言のまま。


それでも、

スイとセナは自然に、互いの背中を預け合うように歩いていた。


 


息づかいを感じる距離。


足音のリズムを、自然に合わせる歩幅。


 


そこに言葉はなかった。


けれど、確かなものが、あった。


 


信頼だった。


 


小さな、けれど、

どんな魔法よりも強固な、

ふたりだけの信頼だった。


 



 


ふと、スイは横目でセナを見た。


 


セナの顔色は悪かった。


頬に血の気がなく、

それでも、無理に笑おうとしている気配があった。


 


左腕には、またあの赤い糸が浮かびかけていた。


 


魂の悲鳴のような、赤。


 


スイは、何も言わなかった。


言えなかった。


 


セナもまた、気づいていた。


自分の体が、少しずつ、限界へ向かっていることを。


 


虚還ノ縫は、確かに成長している。


力も、鋭さも、以前とは比べものにならない。


 


けれど、それと引き換えに、

セナ自身がすり減っている。


魂を、削りながら。


 


スイは、拳を握った。


 


自分もまた、同じだった。


 


子どもたちの武器を呼び出すたびに、

心臓の奥に鈍い痛みが走る。


魂に、確かに亀裂が入り始めているのを、

スイ自身が一番知っていた。


 


けれど。


 


セナには、絶対に気づかせたくなかった。


 


セナが、「自分ひとりのせいだ」なんて思うことが、

何より怖かった。


 


だから、スイは、何も言わない。


笑いもしない。


ただ、前を向いた。


 


歩く。


進む。


誰にも見えない未来に向かって。


 


たとえ、このまま、魂ごと擦り切れてしまったとしても。


 


スイは、ただ、歩き続けた。


セナの隣で。


 


守るために。


守りたかったもののために。


 


沈みかけた太陽が、

二人の影を、長く伸ばしていった。


 


遠く、かすかに風が鳴った。


その音が、

まるで、どこか遠い場所で泣いているように聞こえた。


 


でも、誰も振り返らなかった。


スイも、セナも。


 


ただ、

互いに背中を預けたまま、

静かに、歩き続けた。


 

 


夜。


 


宿の小さな一室には、

ランプの揺れる光だけが満ちていた。


 


窓の外では、風が梢を撫でる音がする。


それ以外は、何もなかった。


 


スイとセナは、

壁際に腰を下ろしていた。


 


今日もまた、

無事に帰ってきた。


ただ、それだけだったはずなのに。


 


沈黙が、長く続いていた。


 


セナは、

小さく膝を抱えたまま、

ランプの灯をぼんやりと見つめていた。


 


スイは、

修繕の終わった黒衣の袖口を、

何度も、無意味に指先でなぞっていた。


 


何かを言わなきゃ、と思った。


けれど、

何を言えばいいのかわからなかった。


 


そんなときだった。


 


セナが、そっと顔を上げた。


 


「……スイくん」


 


掠れる声。


けれど、

確かにスイを呼ぶ声だった。


 


スイは、反射的に顔を上げた。


 


セナは、

小さく、微笑んでいた。


 


「スイくんがいれば、私、きっと……大丈夫だよ」


 


ほんの少しだけ、

震えを隠した声だった。


 


その言葉に、

スイは、言葉を失った。


 


大丈夫。


 


本当に、そうだろうか。


 


スイは知っている。


セナの魂が、

虚還ノ縫によって、少しずつ削られていることを。


 


それでも、

セナは笑った。


 


信じたかったのだろう。


信じなければ、

きっと、折れてしまうから。


 


スイは、

何も言えなかった。


 


ただ、かすかに喉が軋んだ。


胸の奥が、鈍く痛んだ。


 


答えなきゃ、と思った。


けれど、

出しかけた言葉は、どうしても形にならなかった。


 


セナは、また小さく笑った。


そして、膝に顔を埋めるようにして、

静かに目を閉じた。


 


スイは、

その小さな背中を、

ただ黙って見つめた。


 


──僕が、そばにいるから。


 


──だから、大丈夫だって。


 


 


――でも。


 


本当に、大丈夫なのは――


 


どっちだろう。


 


 


スイは、目を閉じた。


闇の中で、

自分の魂の奥に走る、

かすかな亀裂を感じながら。


 


夜の帳は、

静かに、ふたりを包み込んでいった。


 


何も、癒すことなく。


 

 


夜が、深く沈んでいた。


 


宿の小さな窓から、

星ひとつない暗闇が覗いている。


 


息を潜めた町。


誰もが眠り、

誰もが無関心に、今日を終えていく。


 


スイは、ベッドの端に腰を下ろし、

手のひらを見つめていた。


 


細い指先。


乾いた皮膚。


 


そして――

掌の奥、目には見えない場所で、

ひび割れ始めている自分自身を、感じていた。


 


武器を振るうたびに、

魂が、確かに削れていく。


 


守るために、戦っているはずだった。


けれど、

気づけば。


 


救えたものより、

失ったものの方が、圧倒的に多かった。


 


子どもたちの名前。


存在のかけら。


残響だけになった声。


 


それらを、武器として使い、

踏み越えて、斬って、壊して。


 


それでもまだ、

この世界は、何ひとつ変わらなかった。


 


名前を失った子どもたち。


魂を道具にされた命。


そして、誰も、それを疑おうともしない人々。


 


この世界は、

平然と、

当たり前のように、

それを見捨てていく。


 


スイは、

ゆっくりと拳を握った。


 


軋むような音が、耳の奥で鳴った気がした。


 


──本当に。


 


誰も、何も、守れないのか。


 


──なら。


 


なら、僕は。


 


スイは、静かに目を閉じた。


 


脳裏に、セナの顔が浮かぶ。


あの日、無理に笑った顔。


ぎりぎりのところで、「大丈夫」と言った声。


 


そして、

すでにこの身に刻まれてしまった、

数えきれない無念の声たち。


 


 


もし、この世界が。


 


名前も、魂も、

何もかもを踏みにじる世界なら。


 


壊すべきは――


 


異形だけじゃない。


 


この、世界そのものだ。


 


 


スイは、静かに、しかし確かに、心の中で誓った。


 


──僕は、それを許さない。


 


たとえ、どれだけのものを敵に回しても。


たとえ、どれだけの血を浴びることになっても。


 


この手で、

名前を奪う全てを、

打ち砕く。


 


この魂が朽ち果てるそのときまで。


 


 


静かだった。


 


叫びも、涙もなかった。


 


ただ、宿の薄暗い一室で。


ひとりの少年が。


静かに、

誰にも知られることなく。


 


世界に牙を向けた。


 

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