第19話: 魂を裂く糸、繋ぐ手


 


乾いた空が、頭上に広がっていた。


陽の光は鈍く、世界を色褪せた灰色に染めている。


枯れた草地の向こう、

ぼろぼろの建物が骨だけを晒すように立ち並んでいた。


かつて人が暮らしていた場所。

今はただ、異形の棲み処になっただけの、廃村。


 


スイは、剣を構えたまま、セナを振り返った。


 


セナは、数歩後ろで虚還ノ縫を手にしていた。


黒くねじれたその大鎌は、以前よりもわずかに大きく、

重々しい存在感を放っていた。


まるで、知らぬ間に――成長しているかのように。


 


異形たちは、音もなく近づいてくる。


膨れ上がった肉体、溶けたような骨、

人と獣の境を失った歪な影たち。


 


スイは息を整え、刃を構え直す。


セナもまた、虚還ノ縫を握り締め、微かに身構えた。


だが、そのときだった。


 


セナの左腕に、赤い糸が浮かんだ。


血管ではない。


まるで、魂が軋んでいるかのように、

細く、そして鮮烈な線が、皮膚の下から滲み出ていた。


 


「……ッ」


 


苦悶に顔を歪めるセナ。


肩が小さく震え、武器を握る手が微かに痙攣する。


 


スイは、すぐに駆け寄ろうとした。


だが、セナは首を横に振った。


そして、無理に、笑った。


 


「……平気、だよ」


 


かすれた声だった。


それでも、笑っていた。


痛みを押し殺すための、

悲しいほど健気な笑顔だった。


 


スイは、足を止めた。


拳を握った。


 


心臓が、鈍く打った。


 


――違う。


 


そんなはずはない。


痛みを堪えて、微笑むなんて。


そんなこと、本当は、望んでいないはずなのに。


 


セナの虚還ノ縫は、確かに成長している。


けれどそれは、代償と共に進んでいる。


このままでは、きっと――


 


スイは、剣を構え直した。


異形が、間合いを詰めてくる。


 


セナの方を見ることはできなかった。


ただ、静かに心の中で誓った。


 


――無理はさせない。


 


たとえセナが「平気だ」と笑っても。


たとえこの世界が、それを許さなくても。


 


僕は――絶対に。


 


赤い糸が、セナの腕を締め付ける。


痛みに耐える小さな背中を、

スイは、ただ、深く刻みつけるように見つめた。


 



 


乾いた風が、廃村を吹き抜ける。


その中で、

ふたりは静かに、異形たちへと歩を進めた。


 


戦いは、もう始まっている。


何も言わずに。


ただ、名前を守るために。


 


戦いは、終わらなかった。


 


朝が来ても、

夜が訪れても、

風が吹いても、

雨が降っても。


 


異形は現れた。


魂を壊され、

名前を失い、

ただの本能で牙を剥くものたち。


 


本当は――


こんなこと、したくなかった。


 


スイは、剣を構えたまま、

目の前に倒れる異形を見下ろしていた。


 


かつて、誰かだったもの。


かつて、誰かに名前を呼ばれていたはずの存在。


 


それを、

今、

この手で、

殺している。


 


スイは、震える指を無理やり押さえ込んだ。


 


戦わなければ、死ぬ。


わかっている。


でも。


 


それでも、心のどこかで、

ずっと血を吐き続けるような痛みが、

止まってくれなかった。


 



 


戦いの中で、

スイは、子供たちの武器を切り替えて使いこなしていった。


 


蛇腹剣――燈祈ノ標。

鉄扇――封瞳ノ環。

杖――紡光ノ杖。

大槌――真砕ノ槌。


 


必要に応じて、武器を呼び出し、切り替える。


異形の動きに応じ、

風を断ち、

鎖で縛り、

魔法で貫き、

槌で砕く。


 


無意識に、

いつしか手の中に馴染んでいた。


 


けれど――


武器を握るたび、

かすかに聞こえるのだ。


 


――スイくん。


――大丈夫、きっと、守れるから。


 


子どもたちの声。


消えたはずの声。


失われたはずの願い。


 


頭の奥で、

幽かな残響が鳴る。


 


そして。


 


刃を振るうたびに。


魔法を放つたびに。


鎖を操るたびに。


 


スイの中から、

何かが削れていく感覚が強まっていた。


 


喪失だった。


 


名前も、姿も、

あの子たちはもういない。


けれどスイは、

その「遺されたもの」を武器として使い、

戦い続けていた。


 


守るために。


でもそれは、

同時に、

失うたびに、自分自身をすり減らしていく行為でもあった。


 


自分が、自分でなくなっていく。


 


スイは、戦うたびにそれを感じていた。


 



 


ふと、戦いの合間。


スイは、セナの方へ目を向けた。


 


セナは、虚還ノ縫を握っていた。


その手は、震えていた。


細い腕には、また新たな赤い糸が浮かび上がっていた。


まるで、魂そのものが裂けかけているかのように。


 


それでも、

セナは笑った。


 


かすかな、

それでも確かに、スイに向けた笑顔だった。


 


けれど、

その目の奥には、

痛みと、迷いと、

そして――


 


どこか、懐かしさを宿す色があった。


 


スイは、はっとした。


 


セナの瞳。


そこに、一瞬だけ――


あの孤児院で過ごした頃の、柔らかな光が、確かに宿っていた。


 


セナの記憶が。


少しずつ、戻り始めている。


 


それが、

良いことなのか、悪いことなのかは、

スイにはわからなかった。


 


ただ。


 


このままでは、いけない。


 


魂を、

これ以上、

削らせてはいけない。


 


そんな叫びだけが、

スイの胸を引き裂きそうになっていた。


 



 


戦いは、続く。


痛みと、喪失と、

そして、微かな希望を抱えながら。


 


ただ、それだけを胸に、

スイとセナは、剣を振るい、鎌を振るった。


 


壊れかけた世界の、

ほんの欠片を、守るために。


 



討伐が終わったのは、もう夕暮れ時だった。


 


濃い青に染まり始めた空の下、

町へ戻る道を、スイとセナは並んで歩いていた。


 


まだ、互いに無言だった。


 


乾いた血の匂いと、焼け焦げた空気。

そして、誰にも救えなかった命の、重たい余韻。


 


それらが、

二人の影を、長く引きずっていた。


 


ふと。


セナが、ぽつりと口を開いた。


 


「……ねえ、スイくん」


 


声はかすれていた。


けれど、その響きは、どこか――


あまりにも、懐かしかった。


 


スイは、歩みを止めず、ただ小さく頷いた。


 


セナは、しばらく言葉を選ぶように黙った。


そして、絞り出すように呟いた。


 


「……なんだか、思い出すんだ。

 よくわからないけど……

 もっと、ここじゃないどこか……」


 


遠くを見つめるような、微かな目。


 


「たくさん、たくさん……名前を呼んで、

 誰かに、笑ってもらおうとしてた……そんな、気がするの」


 


声が、震えた。


 


スイは、黙って聞いていた。


胸の奥で、何かが軋む。


 


セナは、ぎゅっと自分の胸元を掴んだ。


 


「でも……うまく思い出せないの。

 誰の名前だったのかも……何を話してたのかも……」


 


指先が、かすかに震えていた。


虚還ノ縫の呪いにも似た負担が、彼女の魂を刻みつけている。


それでも、セナは言った。


 


「……ただ、覚えてる。

 すごく、すごく、大事なことだったって……」


 


スイは、静かに足を止めた。


振り返り、そっとセナを見た。


 


夕陽に照らされるグリーンアッシュの髪。


翳りを帯びながら、それでも真っ直ぐに向けられた瞳。


 


迷っているのに。

怖がっているのに。


それでも、必死に手繰ろうとしている。


 


――失われたはずの、記憶を。


 


スイは、

そっと右手を差し出した。


 


セナは、一瞬だけ戸惑い――

それから、微笑みを浮かべ、

その手を取った。


 


温もりは、

かすかだったけれど。


 


確かに、そこにあった。


 


 


スイは、心の奥で静かに誓った。


 


この手を、

もう二度と、離さない。


 


名前を守る。


存在を、繋ぐ。


たとえ、この世界が何度否定しても。


 


たとえ、

この道の先に、

どれだけの闇が待っていようとも。


 


絶対に。


 


守り抜く。


 


それが、

今、スイ自身に残された、

たったひとつの誓いだった。

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