第10話: 【祈糸】――君の想いが、この手を守る
門を越えてから、しばらくは、何も話さなかった。
言葉が喉の奥に絡まり、風の音しか届いてこなかった。
靴の裏で踏みしめる土の感触だけが、唯一、世界に触れている実感をくれた。
リール孤児院の外――
それは、生まれて初めて踏み出す“外界”だった。
空は、薄く白んでいた。
夜と朝のあいだに揺れる空気が、まだ地上を覆っていた。
風が草原を吹き抜け、背後にある孤児院を、どんどん小さくしていく。
振り返らないように、スイは前を向いた。
草のざわめき。
風の呼吸。
曇り空の下に広がる、名もない道。
それはどこまでも静かで、どこまでも広いはずなのに、どこまでもよそよそしかった。
まるでこの世界そのものが、外に出てきたばかりのふたりを、“異物”として認識しているかのようだった。
セナは、何も言わなかった。
けれどその足音は、しっかりと隣を踏んでいた。
一定の間隔を保ち、揺れない足取り。
その静けさが、かすかに支えになった。
ふたりが道を歩き続けると、やがて、小さな村が見えてきた。
丘の向こうに、いくつかの煙突から白い煙が立ち昇る。
柵に囲まれた集落――
石と木で作られた、素朴な家々が肩を寄せ合うように並び、
広場には行商の屋台がぽつぽつと見える。
近づくにつれて、子どもたちの声が風に乗って届いてきた。
焼きたてのパンの香りも、かすかに鼻先をくすぐる。
それは、たしかに“日常”の匂いだった。
けれど、その中心に、僕たちの居場所はない。
村の入口には、鉄の門があった。
といっても、厳重なものではない。
腰ほどの高さの木製の柵。
ただし、その前には――
槍を手にした兵士が、二人、立っていた。
装備は粗末だった。
革鎧に鉄片を縫い付けたような即席の防具。
だがその腰には、“魂の刻印”が提げられていた。
それは、この世界において“存在証明”であり、“力の象徴”だった。
(魂の道具……)
僕の右手にも、刻印はある。
けれどそれは――
自分のものではない。
誰かを武器に変えて得た、罪のかたち。
兵士たちが、こちらに気づいた。
その視線が、鋭くなる。
「……よそ者か。近づくな。ここは“登録者”以外、通せない」
ひとりが、遮るように手を上げた。
低く、くぐもった声だった。
僕は無言で、右手を上げる。
長袖の奥に隠していた手袋を外し、刻印を見せる。
兵士はその文様を見て、一瞬だけ目を細めた。
「……なんだ、これは。お前の“道具”か?」
「紋が、変だぞ。重なってる……? いや、違う、これは……」
「……気味が悪いな。見たことない形だ」
もうひとりの兵士が、一歩下がる。
「おい、あれ……呪印じゃないのか? 魔物に触れた奴が、こんな印を……」
「まさか、外れの森で何かに“喰われた”後じゃ……?」
ざわりと空気が揺れる。
警戒と恐怖が、言葉の奥に混ざっていた。
理解ではない。
ただ“知らないもの”に対する本能的な忌避。
セナが、僕の手を握る。
ほんのわずかな力だったが、それは確かな意思の表れだった。
「……彼は、誰も傷つけません」
彼女がそう言うと、兵士は鼻を鳴らした。
「傷つけるかどうかじゃない。ここは“普通の村”なんだ」
「そうだ。禍を呼びたくない。見えないものを連れてきてほしくない」
言葉の一つ一つが、肌に突き刺さる。
僕は、そっと手袋を戻し、刻印を隠した。
「通り過ぎるだけです。何も求めません」
そう言って、頭を下げる。
兵士たちは何も答えなかった。
だが、門の横に一歩だけ身を引いた。
黙認。それだけだった。
「……行こう」
僕は小さく呟いて、セナの手を引く。
ふたりで、門を抜けた。
その背中に、視線が刺さる。
それは、“存在を認められない者”に向けられる、静かな排除の眼差しだった。
村に足を踏み入れたその瞬間――
世界が、また一段と冷たくなった気がした。
*
村の市場の隅――
売れ残った果物や干し肉が並ぶ、陽の当たらない屋台の影。
そこに、小さな布製品の店があった。
店番の老婆は、こちらに一瞥もくれなかった。
それでも、スイは黙って近づく。
木箱に無造作に積まれた布の山。その下、埃をかぶった古い革手袋を、そっと掘り起こした。
「……いくら、ですか」
低く絞った声に、老婆はちらりと顔を上げた。
そして、手袋とスイの顔を見比べて――鼻で笑った。
「はした金で買えるもんじゃないよ」
その言葉は、“おまえにふさわしい物じゃない”と告げていた。
けれど、スイはポケットから、小銭を差し出した。
院長室の棚にあった、唯一残っていた路銀。
それも――もう、ほとんど残っていない。
老婆は銅貨を一瞥し、また笑った。
だが、手袋をひとつ取って、乱暴にスイの前に置いた。
「……誰も見てないうちに消えな」
それが、この村の“施し”のすべてだった。
スイは深く頭を下げて、手袋を受け取った。
セナが、ほんの少しだけ眉を寄せた。
手袋は、薄汚れていた。
縫い目がほつれ、片方の親指の先に小さな穴が開いていた。
それでも――
右手に嵌めた瞬間、世界がほんの少しだけ静かになった。
刻印は、隠された。
誰にも見えない場所に追いやられた。
それだけで、ようやく“人”として見逃してもらえる――
そんな社会の“正しさ”が、この手袋には染みついていた。
(……これが、今の僕の立ち位置なんだ)
他人の魂を食らった刻印は、世界にとって“醜悪な異物”。
それを布一枚で覆えば、誰も見ようとしない。
見ない限りは、存在しないものとして扱われる。
それが、僕に与えられた“生存の条件”だった。
セナが、小さな声で尋ねた。
「……大丈夫?」
スイは頷いた。
「平気だよ。慣れてる」
その言葉に、彼女の眉がほんのわずか、痛むように動いた。
スイは、腰の剣に触れた。
“夢切ノ剣(ムセツノツルギ)”――
表向きには、ただの片手剣。
彼が唯一“使用を許されている道具”という建前。
その鍔の内側には、カイの名が刻まれていた。
それを、誰も知らない。
「カイ、借りるよ」
心の中で、そっと呼びかける。
返事はない。
けれど、剣の重みが、それだけで充分だった。
村を出るとき、誰も見送る者はいなかった。
門を過ぎても、背中に視線はなかった。
それは、“存在しないもの”に向けられる無関心だった。
セナと並んで、ふたりは道を歩く。
野を越え、丘を越え――
空は高く、雲が流れていた。
しばらくして、スイは振り返った。
あの村の輪郭が、遠く霞む。
その景色の中に、自分の“名前”はひとつも刻まれていなかった。
ただ通り過ぎた風だけが、背を押すように吹いていた。
「……行こう」
スイは、静かに言った。
セナは何も言わず、ただ頷いた。
ふたりの影が、長く伸びていく。
その先に待つのは、また新たな拒絶かもしれない。
また、無価値の烙印かもしれない。
けれど――
それでも歩く。
彼らの名前を残すために。
名前を持たなかった子たちの、唯一の証明のために。
この手が“呪い”であるならば、それで構わない。
この世界が、“名を持たぬ者”を拒むというなら――
僕は、そのすべてに抗ってみせる。
そう決めた。
あの小さな、破れた手袋を嵌めた瞬間に。
*
焚き火の明かりが、静かに草の影を揺らしていた。
夜は深く、星は厚い雲に隠れて見えなかった。
少し離れたところで、セナは眠っている。浅い呼吸とともに毛布の端を握りしめ、穏やかな夢の底を漂っていた。
スイは、黙ったまま火のそばに座っていた。
その手には、昼間の市場で手に入れた手袋がある。
くたびれた薄布。すでにほつれ、指先には小さな穴が空いていた。
安物のそれは、世界から刻印を隠すために買った――ただそれだけの布だった。
(……長くは持たない)
そう思いながら、スイは手袋を外し、指先で解れた縫い目をなぞる。
火の明かりが右手を照らす。
その掌には、例の“刻印”が、まるで呼吸するように淡く脈動していた。
この印を見せれば、世界は即座に敵意を向けてくる。
今日の村の衛兵のように。
いや、それが“正しい反応”なのかもしれない。
この力は、“他人の魂を喰らった痕”なのだから。
スイは、目を伏せた。
そして、そっと右手を胸元へ当てる。
その瞬間――
(ユマ、ちょっとだけ、力を貸して)
心の中で呼びかける。
まるでそれに応えるように、空気が静かに変わった。
スイの右手から、淡い光がにじみ出す。
その光が、細く細く――糸のようにほつれ、伸び、揺れながら空気を滑りはじめた。
綴環ノ糸。
ユマの魂が形を変えて残った、記憶と痛みを繋ぐ祈りの糸。
それは、誰かの心に触れるようにして、スイの手から零れ出た。
その光の糸が、するりと地面に落ちる前に、スイはそっと手袋を差し出した。
すると――
糸が、自然と布に絡みついていった。
まるで意志を持った生き物のように、綻びを包み、裂け目をなぞる。
スイは、指一本動かさなかった。
ただ、見ていた。
繕うのではない。
“編み直している”のだ。
くたびれた布地が、次第に変わっていく。
擦れていた色は沈み込み、質感は滑らかに、そして重みを持って変化していく。
やがて、それは――
闇夜の中で光を飲むような、漆黒の手袋へと姿を変えていた。
スイは、呆然とそれを見つめていた。
その変化は、あまりに自然で、そして優しかった。
そっと手袋を拾い上げ、指を差し込んでいく。
掌に吸い付くような感触。
もはや“安物の布”ではなかった。
これは、名を守るための、ひとつの“装い”だった。
「……これは……」
小さく、呟いた。
焚き火が、ふわりと揺れた。
「……意志を持って、動いたような気がした」
掌を見つめる。
その黒は、ただ隠すための黒じゃない。
それは、名前を守るために、編まれた祈りの色。
「ありがとう、ユマ……」
その言葉に、風が小さく、葉を鳴らした。
まるで、どこかで誰かが微笑んだように。
腰には、常に“夢切ノ剣”が揺れている。
誰の目にも、それがスイの力のすべてだと思えるように。
けれど、本当の力は――こうして、見えない祈りに宿っていた。
夜は深く、まだ終わらない。
でもその黒い手袋は、スイが“名前を守る者”として歩むための、ひとつの証になっていた。
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