ふしぎなパンを君だけに
春風りるむ
第1話:サッカー部の昂
ぼくはきょう、また失敗した。
その前の晩、ぼくは眠れなかった。明日は大事な試合。もしかしたら、ほんの少しだけど、出られるかもしれない。
布団のなかで目を閉じても、心臓の音だけが大きく響いていた。緊張と期待と、不安がごちゃまぜになって、何度も寝返りを打った。
朝。目覚ましより早く目が覚めた。外はまだ暗かった。
朝ごはんの席で、母さんが笑って言った。
「今日はがんばっておいでね」
ぼくはうなずいたけど、言葉がうまく出なかった。
学校に向かう足取りは重かった。背中に背負ったスポーツバッグが、いつもよりずっしり重く感じた。
グラウンドに着くと、チームメイトたちがすでにアップを始めていた。
笑い声。ボールを蹴る音。
みんなが遠くに見えた。
「こう、準備できてるか!」
先生の声に、ぼくはぎこちなくうなずいた。
試合が始まった。最初はベンチだった。
それでも、心臓はドクンドクンと鳴り続けていた。
「こう、アップしろ!」
呼ばれた瞬間、手がふるえた。
ぼくはジャージを脱ぎ、スパイクをしめなおした。
そして、ピッチへ。
フィールドに立ったとたん、世界が変わった。
音が遠ざかる。
時間がゆっくりになる。
ボールが近づいてきた。
パスを受ける。ミス。
トラップする。ずれる。
走ろうとする。足がもつれる。
頭が真っ白になった。
ボールを奪われ、気づけば失点。
ぼくのせいだった。
ホイッスルが鳴った。
試合終了。
結果は、負け。
「どんまい!」
声をかけてくれるチームメイトたち。
でも、その声が、ぼくの胸にずしんと落ちた。
ぼくは、ベンチに腰を下ろし、顔を伏せた。
悔しい、情けない、申し訳ない、消えてしまいたい。
そんな思いが、ぐるぐると回っていた。
先生も、何も言わなかった。
それが、余計に痛かった。
グラウンドを後にするころ、ぼくはもう、誰にも声をかけられたくなかった。
一人、グラウンドの隅を抜けて、裏門から出た。
街をぶらぶら歩いていると、ふわっとほのかなバターの香りがした。
顔を上げた。
みやったけれど、腹はすいていなかった。
でも、その香りにつられるように歩んでいくと、こんな場所にあったはずのない小さなパン屋さんがあった。
「ふしぎなパン屋 ひとくち食べたら、きっとだいじょうぶ。」
さびしげなカンバン。そんな文字が書かれていた。
こんな時間に開いてるのもへんだなと思いながら、ぼくはドアをそっと押した。
まぶしい光に照らされた店内。
そこにいたのは、手のひらほどの大きさの小さな少女たちだった。
「いらっしゃいべりー!」
「まーまま、よくきたね!」
「ぶるー!きょうもまんまだ!」
「るば~、こねるよ~!」
「かしす! 今日はすごくいい生地だ!」
ベリー、マーマ、ブルー、ルバ、カシス。
小さな体でせっせとパンをこねている。
「君だけの、おいしいパンをやいてあげる」
小さいけれど、強くあたたかい声。
それを聞いて、ぼくははじめてすこし笑った。
「どんなパンがいいべりー?」
ベリーがきらきらした目でぼくに聞いてきた。
「えっと……」
うまく言えなかった。
でも、マーマがふわっと笑って、
「だいじょうぶ。ここは、こころで決めるところまーま」と言った。
ブルーとルバは生地をこねながら、ちらっとこちらを見て微笑んでいる。
カシスは黙ってオーブンの火をあたためていた。
「ぼくにぴったりのパンを……」
その一言に、妖精たちはうれしそうに顔を輝かせた。
「まかせてべりー!」
妖精たちは、それぞれ持ち場について動き出した。
ベリーはイチゴジャムを練り、マーマはオレンジピールを刻み、ブルーはもちもちの生地をこね、ルバはルバーブを混ぜ、カシスはオーブンに火を入れた。
ぼくは、手伝わせてもらうことになった。
イチゴジャムをぬる。生地を丸める。トッピングに星の形の飾りをのせる。
「ここをもっとふわっとするべりー!」
ベリーがぼくの手をそっと持って、生地を包み込むように教えてくれた。
「パンは、ぎゅっと押すと、苦しくなっちゃうまーま」
マーマは優しく言った。
「ふわふわ、ふわふわ」
ルバは小さな手でリズムをとるように生地をなでた。
「焦らなくても、大丈夫ぶるー」
ブルーはぼくのジャムだらけの指を見て、ふっと微笑んだ。
カシスは無言で、そっとタオルを渡してくれた。
みんな、何も責めない。
失敗しても、笑ってくれる。
それが、どれだけあたたかいことか、ぼくは胸がじんわりしてしまった。
パン作りのあいだ、妖精たちといろんな話をした。
好きな色のこと。
好きな遊びのこと。
好きなパンのこと。
ぼくが「ぼく、サッカー部なんだ」と言ったとき、
「すごいべりー!」
「がんばってるまーま!」
「かっこいいぶるー!」
「すてきるばー!」
「信じてるかしす!」
みんなが一斉にほめてくれた。
その言葉に、ぼくの胸の奥にあった冷たいかたまりが、すこしずつ溶けていく気がした。
やがて、甘くやさしい香りが店内に満ちた。
「できたべりー!」
ベリーが、ちいさなまるいパンを両手で抱えてぼくの前にきた。
「これが、こうくんだけのパンだよ」
ぼくは両手で、それを受け取った。
焼きたてのパンは、ふわふわで、やさしいぬくもりを持っていた。
そっと、ひとくちかじる。
あたたかさが、胸いっぱいに広がった。
気づけば、涙があふれていた。
できなかったこと。がんばったこと。悔しかったこと。ぜんぶ、まるごと包まれて、あたためられるような味だった。
「ぼく、また……がんばれるかな」
声がふるえた。
でも、ベリーたちは、にっこり笑った。
「もちろんべりー!」
「だいじょうぶまーま!」
「できるぶるー!」
「こねこねるばー!」
「信じてかしす!」
小さな声が、ぼくの背中をそっと押した。
次の日。
ぼくはまた、サッカー部に顔を出した。
昨日よりも、すこしだけまっすぐ顔を上げて。
また失敗するかもしれない。
でも、もう、怖くなかった。
仲間たちの声が、今日はちゃんと胸に届いた。
帰り道、ふと立ち止まる。
昨日、パン屋に入ったあの場所を見た。
でも、そこには、ただの空き地があるだけだった。
古びたフェンス。
さびた看板。
甘い香りも、妖精たちの声も、どこにもなかった。
でも、ポケットのなかには、
そっとしまったパンくずが、まだぬくもりを残していた。
そして、ぼくの心にも。
もう一度、がんばってみようって思える、小さな魔法が――。
ふしぎなパンを君だけに 春風りるむ @harukazerilm
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