第二十話 風の通り道に名はない


村のはずれに、名もない石碑があった。


形は素朴。

風雨にさらされ、文字らしきものは何も残っていない。


それでも、毎月ひとつ、誰かが花を手向けていた。

いつからか、それがこの村の習わしのようになっていた。


「……侍だったらしいな」

畑の手を休めた老人がぽつりと言った。

「昔、この村を通った時に、盗賊と一戦交えて命を落としたって話だ」


「ほんとにいたのかね、そんな人」

若い村人が笑う。


「誰も顔も知らない。名前も残らない。

 だけど、あの碑が残ってるってことは……」


老人は、それ以上何も言わなかった。



その会話を、あやかは茶屋の隅で聞いていた。


湯を飲み終えると、無言で立ち上がり、外へ出た。


草履の音が、石畳にわずかに響く。


日が落ちる頃、村の道には誰の影もなかった。



石碑の前に立つ。


風が、草を揺らす音しかしない。


あやかは腰袋から、一本の野の花を取り出した。


それを、碑の根元にそっと置く。


手を合わせることも、言葉をかけることもなかった。


ただ、ほんの一拍――

何かを受け取り、何かを残すように。


そして背を向ける。



翌朝。

村人が通りがかりに足を止めた。


「……花が新しいな。誰が?」


「わからん。昨夜は誰も通らなかったはずだ」


誰も名を呼ばなかった。


だがその日、風はずっと穏やかだった。


石碑の前の花が、散ることなく、

風の通り道の中で、静かに揺れていた。



第二十話・了

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